October 19, 2026
WirelessWire & Schrodinger's編集部 WirelessWire & Schrodinger's編集部
KDDI総合研究所 量子基盤室室長の斉藤和広氏は、量子コンピューターの実用化が近づけば、計算だけでなく、それを支える通信にも量子技術の活用が期待されると語る。KDDI総合研究所では、量子の性質を利用して暗号鍵を安全に共有する量子鍵配送(QKD)を、実際の通信インフラへ適用する研究も進めている。大容量データを運ぶ強い光と、暗号鍵を運ぶ光子レベルの微弱な光。通常は共存が難しいこの2つを、1本の光ファイバーで伝送することにも成功した。「ラボで動く量子」から「社会で運用できる量子」へ。量子通信を研究する量子基盤室 エキスパートの別府翔平氏と、光通信を専門とする量子基盤室 コアリサーチャーのエルソン ダニエル(Daniel J. Elson)氏の2人の研究から、量子通信を安全で快適な社会インフラへとつなげる道筋を探る。
斉藤:量子通信の分野では、離れた場所にある複数の量子コンピューターを量子通信でつないで規模を大きくする「分散量子計算」の実現を目指しています。しかし、量子コンピューター自体の研究開発にも、まだ多くの課題がありますので、中長期的に取り組む分野と考えています。一方で、量子コンピューター同士をつなぐための技術の一部は、今のコンピューターや通信網を安全につなぐ技術としても使えます。今の通信を量子技術で安全にするという考え方で、その代表が量子鍵配送(QKD)です。我々はまず、このQKDから研究開発を始めています。別府さんとダニエルさんに、そのあたりを少し詳しくご紹介いただきましょう。
別府:少なくとも社内では、自分が一番量子通信を好きな人間だと自負しています(笑)。実際のデータセンター間でのQKDを用いた大容量データ伝送の実証や、大容量データと暗号鍵を1本の光ファイバーで多重伝送する研究などを進めています。私は元々、光通信の研究者で、東北大学で大容量光通信の研究をしていました。大学在学中に東日本大震災が起こり、通信がつながらない環境を初めて経験しました。家族や友達と連絡が取れず、通信が社会の基盤インフラであることを身にしみて感じました。そうした経験から、KDDI入社後は光通信網の24時間365日の運用保守に携わるなど、光通信インフラの維持や復旧に力を入れてきました。2016年からは、KDDI総合研究所で大容量光通信の研究に携わりました。

転機は2018年です。有志の勉強会で量子コンピューターという技術に出会い、衝撃を受けました。本業とは別に勉強を続けるうちに、その難しさと未来への可能性にどんどん惹かれていきました。やがて、「本業の光通信にも量子を生かせないか」と考えるようになったのです。専門の光通信と、学んできた量子が、自分の中で一本の線でつながりました。そうして始めたのが量子通信の研究で、その第一歩が、量子の性質を使って原理的に盗聴を検知できる「量子鍵配送(QKD)」です。
量子は、とても優れた面もありますが、社会実装するには手に負えないほどの暴れ馬です。光やイオンなど、量子を扱う方式にはそれぞれ個性があり、特性が違います。同じ光量子でも、位相(Phase)や偏波(Polarization)など、情報を載せる方式によって扱い方が異なります。しかも光ファイバーの中では、温度や振動でそれらが揺らいでしまうため、非常に扱いにくい。どの方式にも共通しているのは、不安定で高価な装置が必要で、社会実装が大変だということです。こうした難しさを、計算で使うにしても通信で使うにしても、なんとか解決したい。きれいなシステムではなく、動くシステムを作りたいのです。
別府:量子コンピューターによって、これまで扱えなかった計算ができるようになる一方で、「計算できないこと」を安全性の根拠にしていた仕組みが成り立たなくなる可能性があります。その代表が暗号です。現在インターネットで広く使われている公開鍵暗号は、量子コンピューターによっていつか破られるかもしれない。データに依存した社会では、データが安全で改ざんされていないことが前提ですが、その根底が覆される可能性があるのです。

これは量子コンピューターが実用化されたときの負の側面です。一方で、この負の側面に対抗できる技術もまた、量子技術なのです。量子を矛に使う時代に社会を守るのは、量子の盾です。そして暗号分野で、量子の盾となる技術の1つがQKDです。第三者が暗号鍵の配送過程を盗み見ようとすると量子状態が変化するため、盗聴を検知できます。こうして安全に共有した暗号鍵を暗号通信に使うことで、量子コンピューター時代にも高い安全性を確保できます。

すでにQKDは、実用に耐えるところまで技術が進展しており、敷設された光ファイバーでの暗号鍵の配送が実証されています。ただし、暗号鍵だけを配送できればいいわけではありません。QKDで共有した暗号鍵を用いて大容量データを暗号化し、遅延や瞬断なく伝送できることを示さなければなりません。また、大規模に展開しようとすると、運用の壁も商用化の大きなハードルになります。装置が1カ所、2カ所なら、量子の専門家を配置するなど特別な対応ができますが、QKDで通信する拠点が増えればそうはいきません。量子の専門家ではない人材による保守や監視なども課題となります。
こうした課題を検証するため、KDDI、KDDI総合研究所、伝送装置を開発・提供するノキアソリューションズ&ネットワークス、QKD装置を開発・提供する東芝の4社で、QKDを用いた大容量データ伝送の実証を行いました。暗号鍵の配送には、QKDに加えて、量子コンピューターでも解読が困難な耐量子計算機暗号(PQC、Post-Quantum Cryptography)も採用しました。2種類の耐量子セキュリティ技術で配送した暗号鍵を使って、多層的にデータを暗号化し、57.6 Tbpsの大容量データを遅延の増加や瞬断なく伝送できることを確認しました。また、遠隔でのQKD装置の監視も検証しています。

QKD装置は東芝から提供を受けたものであり、PQCも米国国立標準技術研究所(NIST)で標準化された次世代の暗号方式です。今回、これらの実証フェーズにある技術を用いて大容量の暗号伝送システムを構築し、KDDIの大阪堺データセンターと大阪市内のネットワークセンターを結ぶ商用網で大容量伝送を実証したことで、商用サービスへの適用という目標に大きく近づきました。

この実証では、QKDと大容量データ伝送に別々の光ファイバーを使いました。しかし、QKD専用の光ファイバーを用意するには大きなコストがかかります。そこで現在は、次の技術として、大容量データと暗号鍵を1本の光ファイバーで多重伝送する研究をしています。暗号鍵を運ぶ量子信号と、大容量データを運ぶデータ信号を普通に一緒に流すとうまくいきません。量子信号は非常に弱いため、強いデータ信号から生じるノイズに埋もれてしまうからです。そこで、ダニエルさんの研究との組み合わせが効果を発揮します。
ダニエル:イギリス生まれで、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)で物理を研究し、博士号を取得しました。専門は光ファイバー伝送、非線形光学、信号処理です。研究成果をエンジニアリングで社会実装したいと考え、情報通信研究機構(NICT)のインターンシップを経てKDDIに入社しました。

光ファイバーは重要なインフラです。すでに多く敷設されていて、これを有効に活用することが求められます。光ファイバーは波長帯によって特性が異なり、伝送損失が小さいC帯が一般的によく利用されます。QKDの量子信号はパワーが非常に小さく、光増幅もできないため、伝送損失が小さいC帯を使いたいのですが、大容量データもC帯や隣接するL帯を使いたいわけです(先ほどの実証でも、データ伝送にはC帯とL帯を使っています)。QKDと大容量データ伝送を近い波長に割り当てて1本の光ファイバーに載せると、データ信号から生じるノイズによって、QKDの暗号鍵生成レートが下がってしまいます。

一方で、KDDI総合研究所では、帯域を広く取れるO帯を活用した送信器(トランスミッター)や光増幅器の研究開発も手掛けてきました。大容量データ伝送を、波長が大きく離れたO帯に移せれば、C帯のQKDと大容量データ伝送を1本の光ファイバーで両立できるはずです。実証では、80 kmの光ファイバーを用い、O帯で33.4 Tbpsの大容量データを伝送しながら、C帯でQKDによる暗号鍵配送を行いました。多重伝送による暗号鍵生成レートの低下はあるものの、20時間以上にわたって暗号鍵生成が途切れることなく安定して動作することを確認できましたKDDI Tech noteに解説記事を書いていますので、ぜひご一読ください。

別府:量子の研究者は、量子には詳しくても光通信には詳しくない場合があります。逆も同様です。KDDI総合研究所では、既存の光ファイバーを使いこなすという目標のもとで、量子の研究をしている私と、光通信の研究をしているダニエルさんの接点が生まれました。従来の光通信で培ってきた技術を量子に適用していくという考え方は、とても面白いと思います。ダニエルさんがO帯を使いこなす研究をしていたからこそ、QKDとの多重伝送が可能になったと考えています。多重伝送以外の分野でも、こうした化学反応はこれから起きていくと思います。
別府:通信では運用設計が生命線です。ラボの中の基礎研究だけでなく、現実に動くシステムを追求することも、研究者として大切だと考えています。システムの状態を常に把握し続ける運用監視、いわば「見守る力」にこだわっているのです。通信事業で培ってきた技術とマインドセットを量子の世界に持ち込むことが、KDDIが量子の研究に取り組む理由の1つでしょう。QKDはまだコストがかかりますし、量子コンピューターの運用監視も、10万量子ビットといった大規模な装置が登場したらどうなるのか、まだわかりません。社会実装までに解かなければならないことがたくさんある。だからこそ、量子と通信の研究は知のフロンティアだと感じています。
QKDの利用は、まずは金融機関や政府機関など、ミッションクリティカルなデータを扱うところから始まるでしょう。一方で、すぐに導入を考えていない方も含めて、QKDを含む量子技術でいま何ができるかを、解像度高く知っていただきたいと思っています。そのためにも、企業や研究機関などとコラボレーションしていきたいです。
ダニエル:どんなに離れたところにある2つの粒子でも、その状態が強く相関する「量子もつれ」を使えば、いろいろなことができると考えられています。でも、まだ何ができるのかはわかっていません。携帯電話でインターネットができるようになったころ、その価値はよくわかりませんでした。ところがオンラインショッピングやSNSが生まれて、世界が変わりました。量子もつれにも、まだ想定されていないユースケースがあると思います。量子もつれを生成する光源(もつれ光源)を安価に実現できれば、そうしたユースケースを見つけるための大切な要素になるでしょう。量子もつれもQKDも、まだ社会の基盤にはなっていません。社会実装に向けて、その基盤を作っていかなければなりません。こうした視点で一緒に考えてくれる人や組織とパートナーシップを築けるとうれしいです。
別府:もつれ光源を作れる大学や研究機関とはコラボレーションしたいです。こちらからご連絡ください。

量子力学に対する知的好奇心に応える
KS物理専門書の「量子力学」(猪木 慶治、川合 光著、講談社)で、大学時代に授業とは別に量子の勉強をしていました。量子力学に興味を持ったとき、物理学科の知人に教えてもらった本です。説明が丁寧で、独学に向いており、知的好奇心を刺激されました。量子力学がわかったら格好良いだろうな、という思いもありました。この本に出会っていなければ、趣味や仕事で量子に関わることはなかったかもしれません。

光量子を仕事で扱う人に
「Quantum Photonics: Pioneering Advances and Emerging Applications」(Robert W. Boyd他編、Springer)をお勧めします。光を量子力学的に扱う量子光学と、光の発生から検出、制御、伝送までを扱うフォトニクスについてまとまっています。光量子を光ファイバーで伝送するためのアプリケーションを考えるときに役立ちます。量子は一般に数学で表現されていてわかりにくいのですが、光量子についてわかりやすく説明されているのがこの本です。Very Goodな本です。
今回ご紹介した技術の活用、およびKDDI総合研究所との共同研究にご興味のある方は下記からお気軽にお問い合わせください。
https://www.kddi-research.jp/inquiry.html
※所属・役職は取材当時のものです。
