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人民は弱し プラットフォームは強し

2014.08.26

Updated by yomoyomo on August 26, 2014, 16:00 pm JST

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(cc) Image by David Flores

今年の夏は休みもなく仕事でヨレヨレに近い状態なので、今回は軽めにさせてもらいますが、まずニコラス・カー(Nicholas Carr)の The platform is the conversation という文章を紹介したいと思います。

この文章は、「インターネットができる前、人々の座り方や話し合い方に本当に影響があった最後のテクノロジーはテーブルだ」というクレイ・シャーキーが2003年に行った講演からの引用で始まります。もちろんこれはジョークなのですが、テーブルをソーシャルネットワーキングのテクノロジーと考えた場合に重要なのは、テーブルには何の思惑も意図もないことだ、とニコラス・カーは真面目なんだかふざけてるんだか分からない感じで話を続けます。

確かにテーブルが何か口を挟むことはないですし、何の意図も持たないでしょう(よほど形状に特徴がなければ)。テーブルは飽くまで中立の存在であり、話し合いを行う上で思惑を持つのはテーブルではなく、その周りに座る人間のほうです。すべての行動は、テーブルというプラットフォームの端の部分、つまりは人間が起こすわけです。

シャーキーがインターネット以前のテクノロジー(?)としてテーブルを引き合いに出したのはただジョークというわけではなく、ネットの役割として中立的なホストを求める、当時支配的だった「プラットフォーム」観を反映していたとカーは指摘します。同じようにネットを、場は用意するが人間に干渉しない中立的なホスト、すなわち巨大なテーブルと見る例として、カーはヨハイ・ベンクラーが2006年に著した『The Wealth of Networks』を挙げます。

その上でカーは、今から思えばベンクラー(やシャーキー)のインターネット観は、ネットの可能性や商業的インセンティブを過小評価していたと批判します。クラウドコンピューティングは、アプリケーションの機能と付随するデータを、コンピュータユーザからインターネットの大企業のデータセンター、つまりテーブルの末端からその中心に移すものだというわけですが、確かにカーは『クラウド化する世界』から一貫してそれを主張してきました。

続いてカーは Facebook を引き合いに出すのですが、この文章が書かれた7月上旬という時期を考えれば、ワタシも「Facebookと「信頼」とモルモット」で話題にした、Facebook が批判を受けることとなったユーザの心理実験を受けたものであることは言うまでもありません。が、カーは Facebook を特段批判することはなく、これも必然だろうといった口ぶりです。

カーは Facebook をハイテク版テーブルとしてのソーシャルネットワーキングプラットフォームと見ますが、このプラットフォームは、テーブルの末端、つまりユーザに社会的交流を押しつける意図があり、社交の場を用意するだけでなくそのあり方に干渉もします。正確に言えば、場を用意するのは干渉するためだとまでカーは書きます。つまり、プラットフォームこそが会話を担う主役なのである、というわけでカーの文章のタイトルの意味が明らかになります。

問題はそのプラットフォームが、人間の社交にどのような操作を行うか見えないことですが、そのプラットフォームの思惑を隠すベールがあることを認めないといけないし、中立的なテーブルとしてのプラットフォームというかつてのロマンチックなインターネット観はもはや死んだとカーは断じます。今や「テーブル」には思惑も意図もあるのだ、と。

Facebook の心理実験のニュースに「やはり」とは思いながらも動揺してしまったワタシなど、カー先生の「インターネットはお前らのあるべき論や幻想とは何の関係もなく進むんだよ」という一貫した身も蓋もなさに敬服してしまいますが、確かにその後明らかになった出会い系サイト OkCupid の悪質な情報操作を知ると、場を用意するだけで干渉してこない中立的なプラットフォームは幻想なんだと言われても仕方がない気もします。

カーの文章の後からしばらくして(最近『テクニウム――テクノロジーはどこへ向かうのか?』の邦訳が出た)ケヴィン・ケリーの「プラットフォームは商品に優越する」を読み、これ自体はカーの文章とはまったく関係ないのですが、また違った形で現在のネットにおける「プラットフォーム」企業の強さを感じます。プラットフォームが人間の行動を操作しようとするのは、もはやソーシャルネットワーキング関係に留まらないのです。

しかし、「プラットフォーム」を握れば好きなようにできるかというと、当然ながらそういうわけではありません。平和博氏の「ネット企業はどこまでコンテンツを規制すべきなのか」を読むと、YouTube(Google)、Twitter、そして Facebook といったソーシャルネットワーク時代のプラットフォームは、ユーザが投稿するコンテンツに対する明確な(つまり我々にとって透明性のある)意図と対処を求められていることが分かります。

グレン・グリーンウォルドは、「私たちが見ることができるものを決める巨大な権力を、ツイッター、フェイスブックそしてグーグルの幹部たちに行使して欲しいかどうか」と問いかけますが、おそらくニコラス・カーなら、そんなことの答えはとっくに出ている、と返すでしょう。ただグリーンウォルドが書くように、これらのプラットフォーム企業が「グローバルなコミュニケーション手段をコントロールする膨大な力を考えれば、シリコンバレーの巨大企業は、一般的な民間企業というよりは、電話会社のような公共サービスに近い存在だ」というのはその通りだと思います。

インターネットにおける「プラットフォーム」企業として名前が挙がるのは、上記のアメリカ企業ばかりですが、この話は日本のネット企業に関係ない、対岸の火事ということにはもちろんなりません。例えば、一部ヘイトスピーチの巣窟となっている Yahoo! ニュースのコメント欄は、場は設けるが干渉はしないという意味で中立的なテーブルの役割を果たしている、とはまったく言えないでしょう。むしろ、ヘイトスピーチに対して何の干渉もせず放置している(ように見える)こと自体が一種の「意図」に思える、というのは穿った見方でしょうか。

ワタシなどヘイトスピーチを放置することで、結果的に日本の国益を損ねるインセンティブが Yahoo! JAPAN にあるのかと疑いたくなりますが、ここまでくると陰謀論と言われそうですし、話が重くなるので今回はここまでとします。予告をしておくと、次回の文章にもニコラス・カー、クレイ・シャーキー、そしてケヴィン・ケリーの名前が登場する予定です。

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yomoyomo

雑文書き/翻訳者。1973年生まれ。著書に『情報共有の未来』(達人出版会)、訳書に『デジタル音楽の行方』(翔泳社)、『Wiki Way』(ソフトバンク クリエイティブ)、『ウェブログ・ハンドブック』(毎日コミュニケーションズ)がある。ネットを中心にコラムから翻訳まで横断的に執筆活動を続ける。