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「地元で起こっていることなのに、私たちが一番知らない状況でした」──陸前高田市 福田さん一家(前編)

2011.11.09

Updated by Tatsuya Kurosaka on November 9, 2011, 19:00 pm JST

M9.0の本震とその後に続く津波が東北地方沿岸を襲ったのは金曜日の午後、家族がそれぞれの職場や学校で過ごしている時間帯。今回話をうかがった福田さんご一家もそうだった。ケータイがつながらなくなってしまった中、被災者はどのように互いの安否を確認していたのか、陸前高田市の消防団で震災直後から捜索活動にあたった父・福田賢司氏、職場で揺れを感じて同僚と一緒に逃げた母・操さん、学校から帰宅途中に友人と学校のグラウンドに避難した娘・順美(なおみ)さんに、当時の状況を聞いた。(インタビュー実施日 2011年10月1日 聞き手:クロサカタツヤ)

▼福田賢司さん(中央)、操さん(右)、順美さん(左)
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とにかく「居場所を知らせる」ための備えはしていた

──3.11の地震の後に、様々な日常の変化があったと思います。どういった情報が必要だったのか、そしてそれを手に入れることができたのか、ということを検証してきたいと思います。まずは、地震発生時にご家族はそれぞれどういう状況でしたか。

福田賢司さん(父・以下「賢司」):娘は学校で、家内は仕事場です。私はちょうど仕事に向かうクルマの中で、信号で止まったときに緊急地震速報がなって、信号を過ぎた時点で揺れが来ました。

揺れがおさまってまもなく娘から「高校の第2グラウンドにいます」とメールが来て、それで私の方は安心しました。そこまではケータイが通じましたね。

福田操さん(母・以下「操」):私は地震の時に会社にいて、着替えたりなんかして帰ろうとしたのが3時くらいだったと思うんです。

会社でクルマのない同僚がいて、その人をお家まで送ったら、その人のお母さんもいたから、一緒に乗せて逃げました。同僚のお子さんたちは髙田一中が避難場所だから、「子どもさんは学校だから大丈夫だね」って話しながら向かって、その入口で降ろしました。

そのまま山沿いの道路を登っていく途中で渋滞していたので、そこで娘に電話した。でも、一瞬つながったと思ったら、すぐに切れちゃったんです。

福田順美さん(娘・以下「順美」):その母からの電話は、私の方には不在着信の通知メールの形で来て、これでもしかして最後の電話なんじゃないかって思い、焦りました。

地震があったときは、友達と一緒に学校から出るところで、ドコモの緊急地震速報が鳴った。そしたらいきなりドンッって来て、いつおさまるのかなと思っているうちに大きな揺れになった。

瓦が落ち始めたので「これはやばい」ということになって、とりあえず家に帰ろうか、学校に避難しようかで迷ったけど、友達もいたので学校の低い場所にあるグラウンドに避難しました。

その時点で、ケータイのワンセグでNHKのニュースを見ました。すると、宮古の方でクルマが津波に飲み込まれている映像が流れていた。それであわてて、高いところにあるグラウンドに避難しました。

その間に父と祖母がドコモなので、ドコモの災害用伝言板を使って、「高田高校の上のグランドにいます」って発信してから、父と母に「上のグラウンド」にいるからってメールしました。

グラウンドのフェンスから下を見ていたら、街があっという間に波に飲み込まれていった。第一波が終わって、第二波が来る前に、もっと上の方に避難しました。ワンセグはケータイの電池がもったいないので切って、それからは誰かが持っていたラジオを一晩中、大きな音で流し続けて聞いていました。

──災害伝言板への登録など、機転の利いた行動をされていますよね。それは以前から「こういうことがあったら、こうしよう」ということが、ご家族で取り決めていたり、頭の中に入っていたんですか。

順美:いつも大きい地震が来ると、高台にある市の火葬場に母が避難するんです。でも、その日は私は午前授業で、通常なら家に帰っている時間だったので、両親とも自分がどこにいるか全然わからない状況だった。とりあえず場所は知らせなきゃいけないと思っただけです。

操:一年前の大きな地震の時も、何かあれば火葬場にっていつも言っていました。探す場所を決めようって。

──それは大きな差でしたね。東京でも電話が24時間以上通じなくて、しばらく連絡が取れなかったんです。ちょうど週末だったこともあって、その間しばらく一家離散状態だったという人もいました。

順美:そういう事前の備えがまったくなくて、家族がいろんな所に避難した方も、もちろん身の回りにはたくさんいました。そして家族を捜すのに、クルマも使えなかったり、流されたりして、歩いて避難所を回り、遺体安置所とか、隣町まで歩かなきゃいけませんでした。

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衛星電話がつながるからと避難所を移った人もいた

順美:私は、当日の夕方に、東京にいる兄の嫁と、北海道にいる姉から電話が来ました。私のドコモのケータイは通じて、母のauのケータイは通じなかった。でも、その日の夜には全部使えなくなりました。

ワンセグは見れていたんですけど、私はすぐに見られなくなるものと思って、見ませんでした。

──ワンセグは電池の消耗が早いんですよね。避難した方でワンセグを見ていたため、ケータイの電池が切れちゃったという方が多かった。

順美:乾電池が使える充電器と、バッテリ内蔵型の充電器を持っていた子達はギリギリまでガマンしていた。他の人のケータイの電池がなくなったらお互いに貸し借りして、ギリギリの状態で電池を保つようにしていたんですけど、結局は切れてしまいました。それから1週間くらいケータイが使えない状態でした。

操:高田高校のグラウンド周辺に1週間くらい避難していた間は、全然つながらなりませんでした。高田一中の方では衛星電話が入ったんで、「あっちではつながる」と移ったいた人もいました。

1週間後に、サンビレッジの避難所に移ってすぐに、KDDIが仮設のアンテナを持ってきて、auがつながった。でも、ドコモはつながらないので、他を回りながら、電波を拾いながら、歩いた。ともかく1週間以上は使えない状態でした。

▼順美さんが通っていた岩手県立高田高校。ここから多くの方が高台に避難した。(2011/10/1 クロサカタツヤ氏撮影)
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──ケータイの回復は、やはりしばらく時間がかかったわけですね。そうした中でご家族が離散してしまうと、なおのこと不安を感じられたのではないかと思います。

順美:できる事業者が、できるところから、という感じでした。たとえばこのあたりの担当がauで、気仙沼がドコモって言ってました。エリアごとに各社が手分けして担当していたみたいで、大船渡はドコモが使えて、高田はKDDIが使えて...という状況でした。

高校の同級生はほとんどが地元で、何人か大船渡の方から来ていたりしたんです。家が無事でクルマもあったり、親が避難できた人は、迎えに来たりしたんです。でも、家が流された人は、こっちに子どもだけおいて、親は別に避難している子もいました。

操:たまたま娘と一緒に逃げた子が、川の向こう側の気仙町の長部っていう漁港だったんですね。親と連絡がとれないので、じゃあ、うちと一緒にいて連絡をとろうことで、ここにいるときもサンビレッジにいるときも、ずっと一緒に生活していました。

こちらに移って2〜3日目に両親がやっとの思いで捜しに来た。でも、兄弟もいっぱいいて、向こうの避難所も狭いので、やはりこちらの避難所の方がいいだろうと、仮設住宅が当選するまで、結局3カ月ずっと一緒に生活していました。

順美:嫌になるほど一緒にいたもんね(笑)。

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「親戚よりも遠いけど親しい間柄の人」の安否確認

──ケータイもつながらない、テレビも電池が気になる。そうすると、避難生活に必要な情報はどのように取られていたんですか。

順美:地震があって1週間くらいの情報は人づてが多かったです。正直、地元で起こっていることなのに、私たちが一番知らない状況でした。

気仙大橋とかが決壊したのも、海沿いの方が倒壊・消失したというのも、自分の目で見てやっとわかった。1週間ほど過ぎて新聞が来るようになって、それでやっと状況がわかってきた。それまで避難所がどこにあって、どういう状況なのかは全部人づてです。

人を探すのも、避難所を歩いて回って「どこどこにいます」って紙に書いて貼っておいて、それを見てから動くっていう状況でした。だから入れ違いで人が来たりというのもたくさんありましたし。

みんなが慌てていたので、市役所の方でも、誰が避難できていて、その後どこに行ったのかとか把握できていませんでした。

あと多かったのが、津波で流された子が生きていたという情報と、もう一方ではダメだったという情報も入ってきて、どっちが本当なのかわからなくて、安否も確かめられない状況です。

初めのうち、安否確認は新聞と、遺体安置所に行くしかなくて、たまにラジオで挙がる名前を聞くくらい。ドコモのケータイも、iチャネルはまったく機能しなくて、地震があったところで全部止まってて、それから後は何も来ていませんでした。

──日常生活でケータイに依存するのが当たり前になっていた中、ケータイが1週間から10日くらい使えなかったのは、なにより大きい。連絡や情報が取れないのはもちろん、本人の安否確認でさえも、もはや固定電話ではなく、ケータイが使えなければどうにもならないわけですね。

順美:ごく近しい人たちでしたら2週間目にはだいたい把握できるようになっていたんです。ただ、親戚でもなくて、同級生とか、会社の人とか元同僚とか、親戚よりは遠いけど親しい間柄という人たちは、なかなかわからなくて、結構落ち着いてからたまたま出くわして「あ、生きてたんだ」という会話は良く聞きました。

操:実際に私が助けた人も、避難所に連れてったはずなのに、名簿を見たらないんですよ。周りに聞いても、誰も見ていないって言われて、電話かけてもつながらない。そうしたら1カ月近く経ってから会えた。違う避難所に移っていたんです。

新聞で少し情報がとれるようになったり、ラジオで捜索人の名前が聞けるようになったり、自分の身の周りの人の安否が落ち着いてわかってくるようになったのは1カ月を過ぎてからですね。

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遺体捜索は地元でしたいのに、できなかった

──お父さんは消防団のお仕事をされていて、今回も大変なご尽力をされたと思いますが、震災発生直後から3週間後くらいまでの一番混乱している間、ちょっとでも通信手段が生きていたら、消防団のお仕事は状況が替わったと思いますか。

賢司:まず被災して足となるクルマがなくなっちゃったんですよ。そうすると、どこに行くにしても歩いて行くしかないんです。消防の方には震災当日に、一度は顔を出したんです。でも、自分たちの避難所と両親がいる避難所を、ずっと歩いて回ると、かなりの距離になるんですよね。

そうするとやっぱりね、自分の家族を守ることに加えて、消防団の活動となると、正直言ってつらくて、最初の何日かは行けないこともあった。ただ、そのうちに捜索活動が始まってるという情報が入ってきたので、避難所に残っていた若い連中を連れて、生存者がいそうなところを歩くようになりました。ただ結果的に、ご遺体しか見つかりませんでした。

それからは常に消防団に顔を出すようになった。ただ、やっぱりもともとの指揮系統は縦割りの仕組みですから、自分の思ったことができないんですよ。例えば、遺体捜索は、やっぱり自分の地元でしたいじゃないですか。それができないんですよ。上から言われたことしかできない。それに対して不満はありましたね。

──その時に、消防団の方に対して、何をしてほしいという市役所からなりの指示はあったんですか。

賢司:それは出ていたはずです。ただ、最初の段階では町単位の地元の人間でやっていました。クルマどころか歩ける状態でさえないので、ともかく道路を確保しなきゃとか、そういうことを考えながらやったりですね。

無線も残ったのは2台なんですよ。だから毎朝、分団長が集まって、そこで打合せをして、そこから動くという形を徐々に作っていったんですよ。顔を合わせて話をするのが、唯一の情報共有手段でした。ただ、今となれば、もう少し違うやり方があったんじゃないかと思います。

▼津波によって破壊された陸前高田の消防署(2011/10/1 クロサカタツヤ氏撮影)
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ウチの消防団も20人強が震災で亡くなっているんです。普段から集まってきているのは常に70人前後。そのうちの一番使える人間が20人以上なくなっているわけです。だから動けたのは実質50人です。

50人で動ける範囲は限られてくる。高田町内に6つの基点となる屯所があったけど、残ったのがひとつだけで、あとの5つは水没して流された。クルマも残ったのは2台で、あとの4台は流されてしまって動きが取れません。

今となれば、残った団員をうまく使って、地元を優先的に回らせたかった気持ちがありますね。地元の人たちも、公民館単位で自ら遺体の回収とかもしていたので、そこに消防団が少し係われば、またちょっと違うことができたのかなって。なかなかそこまではオレの力ではできませんでした。

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「あと少し」に情報が届かなかったための孤立

──確かに、限られたリソースのなかでそういう活動ができれば、いろいろ違った動き方ができたのかも、というお話は想像に難くないです。平時のようには動けない、指揮系統も目の前の現実と噛み合わない。そんなときにケータイも基地局を介さず、端末同士でトランシーバーのような形で連絡が取れれば...という声があります。

賢司:それができれば、動き方は相当変わりますね。やっぱり連絡が取れるっていうのは強いですもんね。たとえば遺体捜索で海沿いに行くと、防災無線も壊れて鳴らないんですよ。そうすると地震があって津波注意報とか警報が出た場合に、知らせる方法がないんです。

その時に、もし個人のケータイに、例えば役所から直接一斉送信とかメールをぽんと入れられれば、それだけでも違うんですよね。そういうのがあれば本当に助かりますね。

今でも高田町という所では防災無線がつかえない。何かが起きても情報が取りにくい状況なんですよ。電話で連絡することになっているんですけども、それで全部の団員に周知するのは大変なんです。

──それこそ、ご家族という最小単位でも、そういうサービスがあると有効ですよね。例えばボタンひとつで、自分が登録しておいた家族には、すぐに安否情報が届く。家族が生きていることが、わかるかどうかは相当大きいです。

大船渡でうかがったお話では、自分の近所が壊れて流れてしまった様子がテレビで写り、それを関東にいる親戚が見て、しばらく連絡がとれなかったので「もう、ダメだろう」と思われたそうです。

操:だから北海道にいる娘がネットでぜんぶ見れるから、私達よりも状況がわかっていた。私たちはここから見える範囲でしか知らなかったんです。

私は生まれが青森なので、親戚や従兄弟から「大丈夫なのか?」って仙台にいる兄の方に連絡がいって、兄が「大丈夫だ、確認はとれてるから」っていっても、やっぱり声を聞かないうちは安心できないといわれました。

──今回の地震で一番できなかったことが、たぶんそこではないかと思っています。あとほんの少しのところまで情報が行き渡れば、みんなひとまず安心できるはずだったのに、そこに至らないために、被災者が情報の中で孤立してしまった。これは、通信やメディアを問わず、情報流通に関わるすべてが、猛省すべき課題です。

賢司:数年前に大きな地震があったときにも、揺れが大きかったところでは発信も着信もできなかったですよね。もちろん、外部からも通じなかった。連絡がとれない状況がちょっとした地震でも起きるんですよね。

今回は物理的に倒壊したものも多くて、一概に事業者を責めるわけにはいかないのですが、例えば外部から被災地に入ってくる通話を半分くらいに規制して、中から外に出る通話を優先するとか、そんな感じになればもう少し連絡がとれるのかなと思うんですけど。

──震災後、1週間から10日ほどで、事業者が仮設アンテナを持ち込むなどして頑張ることで、少しはつながるという状況にすることはできました。だとしたら、次にやるべきことは、そういった被災地を優先する仕組みを作るといったことだと思います。

(つづく)

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クロサカタツヤ(くろさか・たつや)

株式会社企(くわだて)代表。慶應義塾大学・大学院(政策・メディア研究科)在学中からインターネットビジネスの企画設計を手がける。三菱総合研究所にて情報通信事業のコンサルティング、次世代技術推進、国内外の政策調査・推進プロジェクトに従事。2007年1月に独立し、戦略立案・事業設計を中心としたコンサルティングや、経営戦略・資本政策・ M&Aなどのアドバイス、また政府系プロジェクトの支援等を提供している。