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やがて訪れるデータ・エコノミー社会の将来像〜ビッグデータだけでは見えない情報社会の真実〜[第3回]森 祐治氏「データドリブンな社会では国のあり方も変わる」(2)

2013.03.08

Updated by on March 8, 2013, 14:00 pm UTC

データ・エコノミー社会においては、人間自身の情報との接し方やインフラの位置付け、制度設計のあり方も変化するでしょう。この難しい問いに対する思考のきっかけを得るため、金融経済を先行モデルとして見据えつつ、ITビジネスからコンテンツビジネスを皮切りに、政策検討サポートまで幅広い領域で活躍されている森 祐治氏(電通コンサルティング)に、お話をうかがいました。

人間の認知が情報化に追いつかない

──情報がたくさんあふれることで、見える範囲が広がり、細かい部分まで見ることができるようにはなったとは言われますが、誰も現実世界の全体を把握できるわけではありません。むしろ、とめどなく増え続ける情報に押し流されているように見えます。

例えば、サプライチェーンにおける情報は豊富になりましたが、情報が増えたことで消費者のメリットが直接的に生み出されている訳ではありません。データ社会と呼ばれるもののうち、そこは大きな意味でのフロンティアではないでしょうか。

201303081730-2.jpg森氏:人々が何か行動するに際しての柔軟性が高くなったので、必ずしも事前に恣意的に何かを決める必要がなくなってきた。行き先もはっきり決めないし集合場所もはっきり決めない。「だいたいの時間になったらあとは携帯で」とかいって柔軟に落ち合う場所を変えるのは日常の光景になりました。そういう意味では、むしろ人間の行動パターンについての情報はランダム性を増して緩くなっています。にもかかわらず、情報が多く取れるようになったといっても、緩くて法則性が希薄なものを積み上げて分析すると、精緻な解析結果が出てくるという発想になってしまうのは、どこか考え方として間違っているのでしょう。

ただ、豊富なデータを分析すれば何か慧眼に至るはず、という感覚は誰もが持ちやすいものです。もしかしたら、人間自体の認知的な限界みたいな部分に到達しているのかもしれません。単純に情報社会やデータ・ドリブンな社会が危険だというつもりは毛頭ないですが、データと人間の接し方についての議論をあいまいにしたままでは、いつまでも同じ失敗を繰り返してしまうでしょう。

──現実性のない達成イメージばかり先行するよりも、データによって、今までより少し便利になる程度、といったことをしっかり把握する必要があるのだと思います。そんなに物事は急激に進化したり普及したりはしないのは、当たり前のこととも言えます。

森氏:人間とデータの接点となるデバイスに関しては、すでにポスト・アップルやネクスト・スマートフォンという議論はたくさんされています。個人情報端末として、必ずしもiPhoneが究極の形とは考えていません。たまたま普及したのが、こういう形であっただけで、個人向けのスマートデバイス的なものも過去に様々なチャレンジがありました。いろんな条件タイミングが揃ったのがiPhoneだったと言えます。

だから、タイミングによっては、もしかしたらシャープのザウルスが世界を制覇していたかもしれません。iPhone以前にも、IBMがPalm端末を販売したり、ブラックベリーがビジネス・ユースの標準になったりしていました。そういった状況のところに、アップルが乱入してきました。例えばタッチパネルやイノベーションがあったから普及したのではなく、今この時期にこういった端末で情報が拾えるようになったこと自体が大きかったということなのでしょう。

同様に、iモードの普及にしても、技術やサービスだけがすごいのではなく、ドコモという当時6割のシェアを持つトップキャリアが、ほとんどの端末にバンドルしてユーザーに買わせてしまった。いってしまえば、なかば無理矢理にでも買わせるモデルがすごかったわけです。

当時のユーザーの機種変更サイクルは、平均6カ月で長い人でも2年で電池が劣化するので買い換えていた。6カ月で端末を買い換え、何パーセントの人たちがiモード契約をするか考え、当時のドコモのシェアを背景にすれば、iモードが成功するのは当たり前だと言えます。

こういったことは、当時のiモード立ち上げ期の松永さんや夏野さんが、計算づくめでやっていたわけです。技術革新の部分より、いかにうまく普及させてしまうかが味噌だったのです。だから、iモードは、来るべくして来ると半ば約束されたイノベーションだったのだと思います。

──技術の進化は重要ですが、何かが普及するときに、それが決定的な役割を果たすとは限らないということですね。

森氏:一部の人々が期待するよりも、世の中の変化は遅いかもしれません。技術の進化よりも、人間の認知的なブレーキを掛ける力の方が大きくて、僕がインターネットを使い始めた90年代前半の感覚からすると、やっとここまで来たか、という感じです。ここまで来るのには、インフラの整備と、ネットを使いこなせる人のボリュームが一定数に到達することが不可欠でした。とはいえ、現在のスピードが指数関数的に加速しているのは事実です。

パブリックの概念変化が必要

──スケールメリットや規模の経済のように、集約して固めることで効率が上がるものがあるのは事実です。しかし、集約しきれない、固めきれない部分も広がってきています。

森氏:そこで難しいのが、設備産業や資本集約型ビジネスの価値が、相対的に薄れてきている点です。誰かがやらないと、社会そのものが成立しないところ。ここについては、もっと効率化が進んでしかるべきだと思います。

「光の道」の議論より以前に、通信業を国有化し、意志を持って社会インフラとしての投資ボリュームを決め、その上のアプリケーションレイヤーにおける領域だけをプライベートセクターとして民間に競争させようと、政権の中枢にいた竹中平蔵氏と話したことがありました。

しかし、当時は小泉政権下での郵政民営化が進められていたため、官から民へという流れの中で、それに逆行するものは出来ないと言われてしまった。当時の政治状況ではその通りかもしれません。

でも、ネットに近いところの感覚を持った人間からすると、今のKDDIやドコモによる、インフラレイヤーとアプリケーションレイヤーの両方で競争している構図自体が、無駄に見えます。

──70〜80年代以降の規制緩和論があり、同時に民営化を旗頭にして、公共インフラを民側に持っていくのが社会効率に繋がるとの議論が行われてきました。そこから議論が戻ってきつつあり、共有資産をセットし直す環境が出てきています。

森氏:国とはなにか、という議論も含めて整理する必要性があるのかもしれません。何がパブリックだという議論も含めて。

少し前に「シェアリング・エコノミー」という言葉が注目され、カーシェアリングなどにスポットライトが当たったことがありました。しかし、実際にシェアによって急拡大した物は、オープンソースソフトやCreative Commonsなどです。私たちの日常生活にも少しずつ浸透し、シェアされた共有資産をベースにして生まれたものは気づかないうちに増えています。

同様に、データドリブンなものも、無意識的に広がりパブリックになっていくものがあってもいいのでないでしょうか。インフラ国有の議論が出てくるように、インフラだけでなくそこに紛れ込んでいたデータや、含まれていたデータによってドライブされて動くようになったものの中にも、そういったものがあるかもしれません。

ITパワードな産業化、IT融合産業化みたいな話を経済産業省がしていますが、当然そういった話になっていくでしょう。データドリブンというのは、実は産業においてこそインパクトが大きいと思います。

そこでリソースの配分や調達が最適化されていけば、今から100年後の人間からしてみたら、数値で把握されていないものが存在すること自体がスゴイ、というレベル感になってきてもおかしくありません。

情報化の進んだ先の社会

──そこでいう「情報が増える」というのは、資産を最適化するものとして働くのか、それとも需要を伸ばす方向に働くのか、いったいどちらに効果があるのでしょうか。

森氏:情報が増えることによって、世の中が全部スマートで無駄がない社会になるかという、そうではありません。道州制やスモールコミュニティみたいな回帰的な議論がされていますが、その中で大前提となっているのは、小さい価値を享受しよう、一定の無駄を許しましょうという点です。

1万人規模のコミュニティで、自前の発電インフラを持つことは非現実的でした。しかし、そういうところを細かく最適化し、技術的に進んでいれば、いまでは実現性の考えらえない小さな規模であっても十分な効率性が得られている可能性があります。

中央集権的な今の体系よりも現在の価値観だと無駄に見えるかもしれないけど、それは20世紀的な物差しでの無駄であって、小さくとも実はよほどクリーンかつグリーンでライトな世の中は未来仮説としては相応のリアリティをもって描かれ始めています。

地方分権や分散といった議論は、感情論が先走ってしまいがちですが、そういうところを考えて行かないとビジネスサイドの落とし込みが難しいでしょう。例えば、ビル・ゲイツが投資している第4世代の小型原子力発電が実現すれば、現状でのコストや無駄という話は、かなりの部分が帳消しにされ、エネルギー問題を考える上での大前提が変わってしまうのです。

──データドリブンによる最適化が進んでいくと、残るのは天然資源の問題に集約されてしまうかもしれません。サステイナブルな観点では、代用に属するものは効率化していき、そうでない物が希少性を増します。

森氏:アンコントローラブルな資産の価値が高くなるという意味では、シンプルな経済学的議論になります。コントローラブルなところまでは極点にされるけど、20世紀的なマクロ・ロジックに基づく中央集権イメージにまで戻る必要がありません。

消費者的の価値観調査で出てくるのは、例えば苦労してダイエットは嫌だけど、痩せたい、苦労しないためにズルをしたい、そのためならお金を払う、というのはわかりやすいドライバーです。

再生可能なもの、自律再生が可能なものは、相対的には価値が低くなっていくでしょう。未来予測の書籍がいくつか出ていますが、比較的きちんと見ていると思われる著者のものは、食物危機は起きないという予測しています。

さらには何がコントローラブルで、何がアンコントローラブルかという線引きに、データドリブンな世界は明らかに直結しています。コントロール性を高めるための補助手段としてデータは位置づけられるでしょう。

──前半の危機論とは違う形で、データ中心社会に向かっているとのシナリオ提示のお話と言えます。データ中心的な観点から見た社会デザインの試論が広範な方面で作られていくのかもしれません。

森氏:さきほどのパブリックの必要性とは矛盾するかもしれませんが、現在の国に相当するものはなくても良いという議論がある一方で、公平で公正な行政官の重要性はむしろ増しています。

データドリブンな社会が進めば、交渉などのバランスを取ったり、解決したりするような、問題の調停のためのパブリックな存在は必要になってきます。未来が訴訟社会になっていくと昔からいわれていましたが、良いか悪いか別にしてアメリカ的な価値観にこの先はなって行かざるを得ないでしょう。

そういった観点から、現在話題になっている遠隔操作事件で誤認逮捕された人たちが、行政訴訟を起こした場合、どのような判決になるのか興味があります。

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