東日本大震災と同時に発生した福島第一原発の事故をきっかけに、公的部門におけるデータの公開に向けた機運が高まっています。刻々と変化する状況が情報として開示され、有志が情報を加工し、多くの人々が安心を得たのは記憶に遠くありません。
オープンガバメントやオープンデータと呼ばれるこうした動きは、今年のG8でも主要議題の一つとして検討されており、日本に限らず世界的に大きな潮流となりつつあります。公的部門がデータを開示し、それを民間部門が活用することで、産業振興や行政の効率化、また市民生活の向上といった効果が期待されるからです。
また、情報発信主体である政府や省庁が、原則として公共の利益に資することを目的とした存在であることから、利害関係の調整が必要な民間部門でのデータ流通に比べ、目に見えやすいかたちで進んでいます。国-企業-市民がどのように作用してデータが利用されていくかをつぶさに見ることは、データ・エコノミー社会の基礎となるでしょう。オープンデータ研究の第一人者である、国際大学グローバル・コミュニケーション・センター(GLOCOM)講師・主任研究員で、Open Knowledge Foundation Japan代表、一般社団法人インターネットユーザー協会(MIAU)理事も務める庄司昌彦氏にお話を伺いました。
──データ中心社会に至るプロセスとその課題について、オープンデータの観点から、どのように見えるでしょうか。
庄司氏:私自身は情報社会論が専門です。産業革命後の資本主義社会の発達になぞらえて今起きていることを考えてみましょう。 産業革命における「商品」に対応するのが、情報化の進展によって流通しやすくなった「データ(マイクロコンテンツ)」だと思います。
このデータ(かつては商品)が無尽蔵に生産されてしまう状況に、消費者が困りはじめているのが、いま起きていることでしょう。今はまだ市場による調整機能のようなものがどう働くのかもわからず、ルールも整わないまま、データの生産と流通が爆発的に増えている過渡期に見えます。
オープンデータにしても個人情報やプライバシーの話にしてみても、これから情報がたくさん流通することで便利な社会が実現するためには、個人が安心できるルールや逃げ場が必要だと思います。市場経済が成熟するうえで消費者保護が果たした役割が重要になってきています。
この場合、第三者機関の存在が、欠かせないはずです。オープンデータ事業でも、公共データの目的外利用が進むと、複数のデータ掛け合わせることでプライバシーに抵触するリスクや、紛争の種が生まれる恐れがあります。
また、困りごとを持ち込めるADR(裁判所ではない第三者組織が紛争解決に介入する制度)的な機能も必要になります。救済や仲裁の仕組みがないことにはデータの活用の議論ができません。
──日本の情報社会にとって、消費者保護は大きなテーマであると感じます。その際、保護する対象となる「消費者」とは誰でしょうか。たとえば自ら情報発信(=生産)を行う個人が台頭する中で、その再定義が必要であるように感じます。
庄司氏:確かに情報は、生産者と消費者の関係が入り組んでいます。個人の情報発信のケースでもオープンデータと同じことが起こると思うので、オープンデータの事例から少しお話ししてみます。
オープンデータは、政府や省庁のデータを開放して、広く第三者が利用できるようにする取り組みです。しかし実際に運用してみると、データを出す側は、データを出したことによってその正確性や一貫性について指摘を受ける可能性が高まりますから、前向きにはなりにくい。
そしてデータを提供する側が予告なくデータを消したり、変更したりしてしまうようではデータを使う側も安心してデータを使えないという懸念があります。ここで起きているのは情報の発信者の免責の問題です。
データを出す側は自らを守るために著作権的な権利主張をされていますが、これは財産権というよりも人格権の部分を主張してくる傾向が強いですね。自分が出したデータが思いもよらない使い方をされて、その責任が問われたり非難されたりすることに対する恐怖があるわけです。
同じことが企業や個人を主体にしたときも発生するのだと思います。だとすれば、個人、企業、政府を問わずに、情報を出す側を生産者として生産者の責任や免責を考えるべきでしょう。
──情報を発信する主体はそれだけでパワーを持っているものの、その力ある人たちがどんな権利を持ち、またどういった責任を負っていて、何が免責されるのかが、定まっていないということですね。
庄司氏:海外ではこの問題にどう取り組んでいるかというと、例えば欧州では国と民間と市民を厳密に分ける歴史的背景があります。帝国主義や第2次大戦での教訓を経て、国家と市民が対峙できるようになっているわけです。権利主体としての国が制限される以上、国のデータを公開させるというオープンデータの動きは当然進みやすい。
一方でアメリカは、欧州ほど制限的ではなく、むしろ社会における政府の権限を大きく位置づけているところもあります。たとえば1974年の連邦プライバシー法が成立する背景として、プライバシーを理由に個人が情報を隠匿することに対して規制を課す必要を認めています。
しかし、データの利用といっても、データそのものやその利用者がどんな社会に根ざしているのかによって、評価や課題は分かれます。従って、単純に海外から学ぶ方法は、ここではあまり大きな意味を持たない気がします。
では、日本に限定して考えてみましょう。オープンデータの活用を考えると、国レベルのものより、都道府県や市町村などの地方自治体レベルで持っている情報の中に価値あるものが多くあります。
自治体が持っている情報は、例えば、地場の企業や産業の状況、地域の液状化リスク、犯罪発生率、住民に関する情報などです。しかし、地域性によってデータ利用の目的も異なりますので、全国のそれぞれのデータが同じかたちをしているとは限りません。
この現実を軽視して国主導でデータ利用のあり方を統一してしまうと、地域毎のデータの使い勝手が削がれたり、地域の実状に合わない利用によって問題が生じたりする可能性があります。
それでは本末転倒なので、第三者機関での検討や、地域のステークホルダーがデータ利用とその問題を議論する場があったほうがいいのだろうと感じています。
すなわち、問題があったときの駆け込み寺だけではなく、どのようなデータをどこまで開示して使っていくのか、問題にどう対処するのかということを議論しながら柔軟に進めて行く、データ利用を後押すような機能を有した第三者機関が、あってもいいということです。そうした機関の仲裁による議論の結果、時には出したデータを事後的に引っ込めることもあっていいと思います。
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