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失われたもうひとつの月見を再び。絶海の孤都で二十六夜の月を待つ。

失われたもうひとつの月見を再び。絶海の孤都で二十六夜の月を待つ。

2015.10.20

Updated by Jun Nakano on October 20, 2015, 16:06 pm JST

9月の十五夜(中秋の名月)に続いて、10月25日は十三夜(いわば、晩秋の名月)。でも江戸では、満月に近い月ばかりが人気だったわけではなく、新月に近い二十六夜の月も大人気でした。今、二十六夜の月が一番似合うのは、沖縄かもしれません。

珊瑚礁の海の輝きに満ちた沖縄は、光の島だ。その光の力強さにばかり目を奪われがちだが、昼の光が強ければ強いほど、夜の闇も力強い。昼、天高く昇った太陽は夜、深く沈む。沖縄は闇の島でもある。

琉球王国の都、首里を擁する那覇は、今も人口が集中して大いに栄え、都と呼ぶに相応しい。だがこの都は東京、京都などと違って、周囲にほかの大都市がまったくない。一番近い大都市は、はるかかなたの台北(厳密には新北市か)だ。那覇はいわば、絶海の孤都。夜の帳が降りると、この都は広大な海の闇に包まれる。東京のように過剰に強い光が闇を切り裂くものの、その光はあっという間に闇に呑まれるのだ。

那覇の夜には、光と闇が激しく共存している。大都市が近接し合う本土の都会では、まんべんなく広がる人工の光が夜の闇を一掃する。だが、闇という宿敵が消えると、光はかえって輝きを失う。闇を駆逐すると、光が魅力的でなくなる。本土の都会では光と闇は共存できず、相殺するのだ。

光と闇が激しく共存する夜の那覇を歩いてみると、開と閉が激しく共存する回遊式庭園に似た楽しさがある。閉塞的な道を抜けたら、突然景色がパーッと開く庭園の展開のように、闇を抜けると光が開け、光を過ぎると闇に捕まる。

もう12年も前だが、そんな絶海の孤都の、イキのいい光と闇を縫うように歩き、回遊を楽しむ闇歩きツアーをやったことがある。11月も半ばを過ぎたころだったが、東京の初秋くらいの感じで、深夜の街を歩くにはほどよく、とても心地よい。

「月待ミッドナイトウォーク」と題したそのツアーの集合時刻は午前1時。平日深夜にもかかわらず、30名ほどの参加者が桜坂の路上に集った。

その年の8月に「ゆいレール」というモノレール路線が開通したとはいえ、沖縄にはいわゆる鉄道網は皆無で、終電を気にして切り上げるということがない。東京などでは終電とともに1日が終わるが、那覇の街角の暗がりやビーチには、深夜も夕涼みのように何気なく人がいたりする。そんな土地だから、午前1時に集まっても、そこそこ奇異だが、ものすごく奇異ではない。

「月待ミッドナイトウォーク」のルート上、那覇の山並みのようなビル並み(「月待ミッドナイトウォーク」は「wanakio 2003」のイベントのひとつとして行われた)。(写真:中野純)

「月待ミッドナイトウォーク」のルート上、那覇の山並みのようなビル並み(「月待ミッドナイトウォーク」は「wanakio 2003」のイベントのひとつとして行われた)。(写真:中野純)

東京などの街でミッドナイトウォークのツアーをやると、まるで討ち入りの集団のようで、二人称複数がついうっかり「おのおのがた」になり、たまたま歩いていた土地の人を大いにビビらせてしまう。だが、那覇ではそんなに異様にはならない。この都にはミッドナイトウォークがなじむ。

30人の長い列は、極細の路地、ビルの狭間の墓、空き店舗など、下見を重ねて選定した闇の見どころを、アーケード、大通りなどの光でつないで歩いていく。捕虫網のようだが網袋の部分が黒い布の「捕光網」を自作し、電灯の光を捕らえて闇を創作したり、街角の防空壕の奥に発光具を仕込んで光を創作するなど、小細工にも精を出した。

本土の墓はふつう、角石形の小さな墓で、高塀の中でひっそりひしめき合う。沖縄の墓は家形で大きく、公園の中にまるで遊具のように何気なくあるし、街中の通り沿いにもむき出しでドンと居座って目立っている。死者の家と生者の家が軒を並べている感じだ。

もとは家並みから外れたところに墓があって、都市化とともに街に墓が吸収されたのだろう。だがなんにせよ、墓を日常空間から排除し、目に入らないようにしようという意識が、東京などに比べて弱いと思う。光と闇が共存する街で、生者と死者も共存する。この世とあの世も共存している。

「月待ミッドナイトウォーク」のルート上、路地の闇と浮島通りの光のコントラスト。あちこちにある車の入れない道に、清浄な闇が溜まる。(写真:中野純)

「月待ミッドナイトウォーク」のルート上、路地の闇と浮島通りの光のコントラスト。あちこちにある車の入れない道に、清浄な闇が溜まる。(写真:中野純)

閑話休題。松尾公園の北面から暗い坂を登っていくと、オレンジ色に灯る円い時計盤がだんだん昇っていき、まるで月の出のように見える。このニセ月の出の展開も参加者に好評だったが、クライマックスは二十六夜の月待だ。

すでに昇っている円い月を愛でる十五夜(中秋の名月)などの月見は、今も一応廃れていないし、ここ数年はスーパームーンを見るいわば大月見が人気だ。だが、かつての日本ではいわゆる月見だけではなく、旧暦23日や26日など、夜遅くに昇る月を大勢で待つ行事が各地でとても盛んだった。江戸ではとくに、旧暦7月26日の深夜に昇る月を待つ二十六夜待が大流行した。ところが月待は、いまやほぼ完全に忘れ去られ、廃れてしまった。

この伝統文化を現代風に復活させたいと思い、私は月の出を楽しむツアーをちょくちょくやっている。那覇の闇歩きツアーの最大の目的も、月待の復活だった。

深夜の月の出は、密やかだが荘厳だ。はるか東方のニライカナイから、全長3470km以上の巨大な光る船が現れ、天へ漕ぎ出す。

 月待という行事の中には、闇と光が激しく共存する。闇夜に月を待ち侘びることで、闇の力強さを実感し、月の出に立ち会うことで、光の力強さを実感する。

松尾公園は小山になっていて、頂上部は東側の見晴らしがよく、月を待つには絶好の場所だ。沖縄を取り巻く広大な海の闇のおかげで、地平線のすぐ上が都会の夜空とは思えないほど暗い。

松尾公園頂上部の古びた墓の前で、東の地平線あたりを眺めながら待つことしばし。午前2時半過ぎ、地平線ギリギリの闇に、オレンジ色に光る三日月形の巨大な月が現れた。その姿は、光っている部分の両端がほぼ水平なこともあって、ニライカナイに浮かぶ巨大な光の船のようだ。

遅くとも万葉の時代から現代まで、半月未満の形の月は、しばしば船にたとえられてきた。金子みすゞの詩「月のお舟」もそうだし、長岡良子のまんが『天ゆく月船』もそうだ。『天ゆく月船』で描かれているのはちょうど二十六夜くらいの三日月形の月で、死者の魂を乗せてあの世へ向かう。

ニライカナイとは、はるか東方の海上にある神の世界、ユートピアのこと。月はまさにその東海の彼方に現れるから、ほんとうにニライカナイから豊穣を運ぶ船のようだ。

絶海の孤都には、二十六夜の月待がとてもよく似合う。沖縄に住んでいる人も沖縄に旅する人も、ぜひこの光と闇の島で、月待を体験してみてほしい。

月待ミッドナイトウォークの一行は、雲の波を掻き分けていく月の船を眺めながら開南交差点を渡り、最後に今一度、極細路地の深い闇に浸かったあと、未明だがすでに起きている農連市場に到着。市場の光のシャワーを浴びて、午前4時前に解散した。

ではまた来月。闇の中で会いましょう。

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中野 純(なかの・じゅん)

闇遊び、月遊びなどの体験を作り体験を綴る、体験作家。ミッドナイトハイク、夜散歩、穴歩きなどのツアーを企画・案内する、闇歩きガイド。1961年東京生まれ。『「闇学」入門』(集英社新書)、『闇と暮らす。』(誠文堂新光社)、『東京洞窟厳選100』(講談社)、『月で遊ぶ』(アスペクト)ほか著書多数。夫婦で私設図書館「少女まんが館」も運営する。