original image: © Sergey Nivens - Fotolia.com
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先日、メルボルンで開催された統合国際人工知能学会(IJCAI2017)の基調講演では、「人間にとってよりよい人生を過ごすことができる提案をするAI」について語られました。
要は「あなたはこんな趣味を持つのがいい」とか「あなたはこの人と結婚するのがいい」というように、一人ひとりの人間の人生をより良くしていく提案をするAIがこれから出現するだろうという提言でした。
この提言は参加した研究者たちにとっては良い話のネタになりした。「本当にそんなことができるようになるだろうか」「いやいや、そもそも"良い"というのはどういう基準なんだ。そこからじゃないか」など、会場のあちこちで喧々諤々の議論が繰り広げられたのです。
人間にとって「より良い」人生を提案するAIを作るには、まず第一に「より良い」とはどういう状態かを定義しなければなりません。そして今のところ残念ながらそれを定義することができるのは人間だけです。
人工知能は人間の知性を模倣しますが、哲学的なことを考えることはできません。人工知能は普通の人間にはとても解けないような数式を解くことが出来ますが、数学そのものを考えることはできません。今のところはまったくそれができるなるとは希望が持てず、いつかそれができるようになるとしてもずっと先のことでしょう。
人間の人生はどうあるべきか、ということは他ならぬ人間自身によって何万年もの間、議論されてきたことです。それが濃厚革命を引き起こし、集落と国家と経済がうまれ、経済と軍事が分離し、宗教と政治が分離して近代国家になりました。しかし類人猿から5万年、農耕革命から2万年もの歳月を経てなお、人類は「人はどう生きるべきか」という、ひとつの普遍的な答えにたどり着けていません。
あらゆる宗教やイデオロギーが「正しい人間」を定義しようとして衝突しています。結局のところ我々はたまたま生まれた共同体の中でのコンセンサスにもとづきある程度は「正しい人間」を定義しようとし、成長する過程で自分独自の基準を構築していきます。
そもそも、AIでなくても人間は他の知能に「よりよい生き方」を示されることが沢山あります。自分の両親や友人、教師などです。しかしそうしたアドバイスがほんとうに役だつ人というのはむしろ少ないのではないでしょうか。
そもそも「より良い生き方」があるのだと仮定すること自体が、かなり傲慢な考え方なのではないかと筆者は思います。
たとえば、筆者の場合、基本的に自分の子供がどう生きるべきかを強制したくないと思っています。筆者が子供に望むことはただ一つ、自立です。成人するまでに、もしくは、せめて大学を卒業するまでになんとか自立して欲しい、ということだけが願いです。これもあくまで筆者の思う「願い」に過ぎず、それが「正しい生き方」であるとは思いません。ここで筆者の言う「自立」とは、要は両親の助けがなくても生活していける状態です。
たぶんどんな子供でもそんな「願い」を背負って青春時代を過ごすのではないでしょうか。
その反面、筆者自身を振り返ると、一度は上京して自立したものの、なんどか実家に戻って数が月間のごく潰しを経験しています。
アメリカの会社の立ち上げに参加して、最終的に会社の方針に賛同できず、会長に反抗したらその瞬間に解雇されました。これはもうお見事という手際で、その瞬間からIDカードが使えなくなり、荷物をまとめて出て行け、ということになったのです。映画「ソーシャル・ネットワーク」にもそんなシーンがありますが、アメリカの怖いところは、これが違法でもなんでもないことです。解雇予告金もなしに、突然解雇されます。日本ではそういうことは法に触れるため絶対できません。
会社を立ち上げる時にはそもそも手元に資金がまったくなかったため、一度新潟の実家に戻って、両親の持ち家でしばらく生活しながら起業の準備をしていたのですが、その頃は妹から「いい年して家賃も払わないで」と嫌味を言われたのを覚えています。
ふつうに考えれば、勤め人を辞めず、どんな理不尽なことや我慢できないことがあっても耐えて耐えていることが「より良い生き方」だったのかもしれません。会社と衝突したから会社を飛び出して会社を立ち上げるというのは、普通に考えて狂気の沙汰です。
でも、今振り返れば、あのときそうしたからこそ、今の自分があるわけです。どちらが「より良い生き方」だったかは断言できません。ちなみに筆者が辞めた後、数年でその会社は消滅しました。
人間はたとえ論理的にそうだとわかっていても、感情的に「その生き方は受け入れられない」と反発するものです。
ひとつの尺度が収入や地位だったとしても、感情的に受け入れることができない人生を生きることが必ずしも「より良い人生」とは言えませんが、かといって常に感情に任せて生き、社会の落伍者として生きることも、やはり「より良い人生」かどうかは本人の問題であって誰かがとやかく言うことではありません。
筆者が思うに、人工知能が人生をより良くできるとしたら、それはAIが人間に従属し、人間の意思の拡張装置として機能する場合だけです。
たとえば「こんなマンガを書きたい」と思った時に、絵が下手でもネームだけ書けばマンガが出て来るとか、「もっと鳥山明っぽい絵で」と指示するとそのようにスタイルが変化するとかは「意思の拡張装置」といえますが、「このマンガはこういうストーリーにしたほうがより良い作品である」と示すのは違うということです。もしストーリーに対するアドバイスをするのであれば、「この主題を伝えるにはこの順番の構成よりも、こういう構成で、ここに心情描写を入れるのが良い」といったように、あくまでも「人間の意思」を第一優先に置いた補佐をするAIが「良き友としてのAI」と言えます。
また筆者の話になってしまいますが、あるとき、過去のブログをまとめた本を出したい、と出版社から持ちかけられた時、自伝のような内容の本を自分で書くことに抵抗があった私は、出版社で編集経験のある後藤という部下に共著を求めました。彼は私がまとめた20年分のブログの中から、「この要素はいらない」「この構成では意図が正しく伝わらないから、こういう順番にしましょう」と再編集してくれました。この手際の良さに舌を巻くとともに、「たしかにこの方がいい」と納得する内容だったので、その本は彼のリライトした構成で出版されました。
原著者に対してある程度客観的に読者の目線を意識した構成を提案するなどの役割を担うAIは、いずれ出現するでしょう。
それがワードプロセッサにある校正機能のようにごく自然に入り込んでくる未来はかなりリアリティがあります。
あくまでも主軸は人間の側にあり、AIは補佐であるというポジションが固定されていることが大事だと筆者は思います。
人間が手綱を握っている限り、AI脅威論は当てはまらないわけです。
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登録はこちら新潟県長岡市生まれ。1990年代よりプログラマーとしてゲーム業界、モバイル業界などで数社の立ち上げに関わる。現在も現役のプログラマーとして日夜AI開発に情熱を捧げている。