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“情けに報いる”情報の活かし方。新概念「ライフコースデータ」で、病気を予防できる社会の構築を目指す異端医師(京都大学大学院教授 川上浩司)- 日本を変える 創生する未来「人」その2

2019.03.24

Updated by 創生する未来 on March 24, 2019, 16:08 pm UTC

連載「日本を変える創生する未来『人』」。第2回目に登場いただくのは、京都大学大学院の川上浩司教授だ。同氏は現在、国に頼らない独立組織として、一般社団法人 健康・医療・教育情報評価推進機構(HCEI)を立ち上げ、母子保健情報や学校健診の収集・分析、個人/自治体に対するデータ分析の還元を行っている。また病院医療に向けた診療の可視化も実施。これらの予防医療の取り組みは、将来の日本にとって非常に重要なものだ。なぜ川上氏は、あえて現役の医師を退いてまで、この事業を推進しているのか? 一般社団法人創生する未来 代表理事の伊嶋謙二 が、同氏の原動力と、事業の取り組み、展望などについて聞いた 。

▲京都大学大学院医学研究科 社会健康医学系専攻 教授 川上浩司氏。ライフコースデータという新概念を打ち立て、乳幼児から成人までのライフデータのデータベース化と、その分析による1次利用の社会還元、さらに2次利用の促進を目指す。(一社)健康・医療・教育情報評価推進機構(HCEI)などを設立。

「小医は病を治す、中医は人を治す、大医は国を治す」という言葉を地で行く「ライフコースデータ」 への挑戦

開業医の家で生まれた川上氏は、筑波大学の医学群を卒業後、横浜市立大学大学院で耳鼻咽喉科や救命救急(ER)の医師としてのキャリアをスタートさせた。その後、同氏は渡米の機会を得て、FDA(アメリカ食品医薬品局)に留学し。免疫系の基礎研究に没頭する毎日を過ごす中で、その実績が認められ、FDAの正式な臨床試験官に採用された。

川上氏は「一人の医者が外科手術で救える患者さんというのは、一生で数千人ぐらいが限度です。しかし、基礎研究で新薬を開発できれば、数十万、百万の人々を助けられるかもしれません。それで免疫系の基礎研究に没頭していたのです」と、当時を振り返る。

渡米から6年後に帰国し、東京大学医学部の客員助教授を経て、2006年には京都大学医学部に教授として迎え入れられた。しかし、そのころから同氏の心の奥には何か「モヤモヤした感覚」が芽生えていたという。

「日本には、国民皆保険制度という良い制度があると思いました。しかし同時に、医療サービスが普及することによって、社会自体が苦しむリスクもあるのではないか?とも思うようになったのです。創薬は大事な仕事ですが、それより医療の制度や政策を変え、人々が病気にならないように予防へとシフトしたほうが、社会福祉として理に適っているのではないか、と考え始めました。医療制度が変われば、数億人以上の人々を救えるかもしれません」(川上氏)。

中国の古い言葉に<小医は病を治す、中医は人を治す、大医は国を治す>という言葉がある。まさに川上氏は、大局的な見方で人々を救いたいと考えたのだ。そこで同氏は40歳になって一念発起し、「ライフコースデータ」という新概念を真剣に考え始めた。そして、子どもたちの医療データをデータベースする事業を始めたのだ。これまで研究単位では似たようなことはやられていたが、社会的な運動としてのスケールの大きな事業化は、まだ誰もやっていない新たなチャレンジであった。

▲病気にならない生き方を進める新たな概念「ライフコースデータ」。乳幼期・幼少期から学童期、成人、高齢期に至るまでのデータを一元管理することで、予防医療や医療全体の評価に役立てられる。

「大人の医療はレセプトデータとして残っていますが、乳幼期・幼少期からの健診情報や、小中学校の健診情報は紙のままで、数年後には破棄されてしまいます。これをデジタル化し、データベースとして保存しておけば、子供たちが成人になる頃には、どういう人がどんな病気にかかりやすいのかを分析できるようになり、予防医療につながるだろうと考えました」(川上氏)。

▲これまでは、乳幼児や小中学で取った検診記録や帳票がほとんど活用されず、紙データとして破棄されていた。省庁の縦割り行政や自治体の管轄が異なることも、データ一元化の足かせになっていた。

この試みは、まだ現在ほとんど利益が出ていない事業だ。そもそも国の管轄省庁も異なるし、自治体ごとに考え方も異なるため、データ集めが難しい。非常に面倒で手間がかかる誰もやりたがらない仕事なのだ。

それでも川上氏は「誰かがやらなければ、いつまで経っても始まらないと思っています。自分のミッションは、数十年かけなければできないことをやること。我々の事業は、いまの子供たちが育った20年後から必ず役立つようになるでしょう。非常に長丁場ですが、じっくりと腰を据え、社会に貢献できることをやり遂げたいと思います」と屈託なく笑う。

健診データを公と民で利用できる組織体制とセキュリティ技術を戦略的に確立

同氏が、本事業に挑戦しようとしたのは、もう1つ理由があった。リクルートの元トップセールスマンであるビジネスパートナーとの出会いだった。たまたま川上氏の講演でライフコースデータの概念を訊いた彼女は、その社会的な意義に賛同し、ビジネス面で貢献できると考えた。そして「株式会社学校健診情報センター(SHR)」を設立。児童の健診データを集めるために、自治体や教育委員会との調整をはかろうとしたのだ。

▲「株式会社学校健診情報センター」(SHR)と「一般社団法人 健康・医療・教育情報評価推進機構」(HCEI)、各研究機関や学校・自治体との関係。

川上氏は「大学の研究だけでは、研究費がなくなれば、それで事業も終わってしまいます。そこで継続して進める事業体が必要だと思ったのです。しかし、すぐに事は進みませんでした。最初はどの自治体に行っても、児童の健診データは個人情報なので提供できないと断られ続けました。そういう状況で、何を解決し、どんな技術開発をすべきかということも徐々に分かってきました」と回想する。

たとえば、データを管理する場合には、公と民をしっかり分ける必要がある。そもそも大学にはデータを置けない。民間や自治体からデータを預かっても、法的に責任が取れないからだ。そこで「一般社団法人 健康・医療・教育情報評価推進機構」(HCEI)を立ち上げ、そこでデータの権利を持ち、業務委託を行う形にした。一方、医療データの分析に関しては、京都大学の疫学研究が行える機関や「リアルワールドデータ(RWD)」などが担当している。

「データ管理団体を社団法人化したのは、セキュリティを考慮したためです。株式会社だと、もし海外企業に買収されると、国民のデータが流れてしまうリスクがあります。大学所属の研究者の立場としてではなく、この社団法人やリアルワールドデータに事業の運営を任せています」(川上氏)。

技術面でも、いろいろな配慮と工夫が凝らされている。データベースはローカルとクラウドで多重化した。あらゆることを想定して、データを守る必要があるからだ。メンバーには、セキュリティの専門家もいるという。

データを扱う際も細心の注意が必要だ。たとえば小学1年から中学3年までの9年間分の健診調査票から、個人情報と健診情報の部分をデジタル的に切り離し、個別ファイルで格納後、個人情報と生成した暗号対照表(電子鍵)を自治体(教育委員会)や学校側に渡す。
一方、健診情報は暗号を付して搬出し、データベース化と分析を行う流れだ。本手法は総務省との事業で完成したそうだ。

▲データの扱いにおける強固なセキュリティ対策。健診調査票から個人情報と健診情報を切り分け、個人情報と生成した暗号対照表(電子鍵)を自治体や学校側に渡す。その一方で、健診情報は暗号を付してSHRやHCEIに搬出し、データベース化と分析を行う。

この仕組みが優れているのは、個人情報を学校から一切持ち出すことなく、データベース化したあとの処理も、連結不可能な匿名情報として扱えること。万が一、情報が漏れても、健診データと個人情報は紐づけられないため、安全だ。さらに生徒個人に健診レポートを渡す際は、学校に暗号毎のレポートを届けることで、暗号から個人用に戻せる。具体的に生徒に還元されるレポートは次のようなイメージだ。

▲生徒に還元されるレポートのイメージ。成長の記録、全国での分布、個別の健康状態、その他の注意事項などがグラフィカルな表示とともに報告される。

“情けに報いる”情報の活かし方とは - 「次世代医療基盤法」も施工され、レセプトデータとの連結を後押し

当初、このプロジェクトはデータを預かり、データベースを構築することからスタートした。しかし川上氏には、国からも自治体からも、まったく相手にされなかった苦い経験があった。取材の中でも「情報は“情けに報いる”こと」と何度も繰り返していた川上氏だったが、結果的に膨大なデータが集まったのは、まさに「情けに報いる」ことを理解してもらえたからこそだった。

「データを頂き、それを分析し、現場に戻して、皆さんの健康に役立てる。さらにデータベースで研究できる環境を整えることで、将来の状況も良くなるでしょう。そこでデータを提供してくれた地方自治体や病院、個人に対する1次利用は無償にしています。さらに、これらのデータを事業や研究に使いたい場合は2次利用として有償での提供を想定しています。」(川上氏)。

すでにデータベースの分析も一部で始まっているという。自治体には、母子データを破棄せず、15年間分のデータを保管しているケースもあるからだ。昨年の調査では、こういった長期データを計8自治体で集めた。保護者の理解が得られれば、小中学校9年間と幼児期のデータを結合でき、ゆくゆくはいろいろな有益な情報が出てくるものと期待される。

川上氏が進める事業は、基本的にはあまり国には頼らない方針で推進している。それでも現在、協力してくれる自治体は120以上まで広がった。病院の協力も進み約170の医療機関で連携が進んでいる(2018年12月現在)。

「あとは“情けに報いる”部分で、いかに分析の質を高めていけるかという点が大切だと感じています。各自治体向けのレポートや、病院向けの分析も行っていますが、やはり補助金だけでは賄いきれないため、いまのところ台所事情は赤字です。だからこそ、2次利用も大事になるのです」(川上氏)。

▲自治体向けのレポートのイメージ。自治体内における各学校の比較や経年変化、他の自治体との比較などが数値的に把握できるようになる。

データの2次利用に関しては、明るい兆しも見えている。ようやく国も動き出し、個人医療に関連する匿名医療加工情報の枠組となる「次世代医療基盤法」が施行された。個人医療データに匿名加工を施すことで、個人情報保護法に則り、本人の個別同意がなくても第三者へのデータ提供が可能になったのだ。

「これにより政府から認定された事業者は、異なる属性の医療や健康の情報、たとえばクリニックと病院、健診と医療などのデータを結合できるようになりました。今後はレセプトデータを集める事業者と、我々のような電子カルテや学校の健診情報を集める事業者が増えていくことにより、データを補完する仕組みも整ってくるでしょう」(川上氏)。

同氏はこれからも、大学教授の立場で、疫学と予防を中心とした学問を極めていきたいと考えている。一方で本事業に関しては、自身がいなくても、ちゃんと運営が回るような体制と仕組みづくりを確立することで、今後もしっかり社会とつながっていく方針だ。さらにデータ分析のスケールを大きくし、精度を上げるためには、もっと人材も必要になってくる。社会的な運動として、ライフコースデータの概念を広め、より多くの賛同者と協力者を増やしていくことも、直近のスコープになるだろう。

既成概念を突破して、新たな枠組みを構築していく川上氏は、柔軟でありながら、きっぱりした物言いで、まさに今風のビジネスマンらしい雰囲気。しかし実は、最年少で京都大学医学部教授に就任にしたキャリアを持ち、医療と個人情報の国家レベルの仕組みを、時代に即したデジタルベースのものに変える潮流を起こしているとんでもない人物だ。大医を直す志を持つ川上先生を創生する未来「人」認定2号とする。

同氏の挑戦が日本の将来の医療をどのように変えていくのか、ご賛同いただき、具体的な協力を仰げる読者には、ぜひ創生する未来に一報を頂ければ幸いである。

(インタビュアー:一般社団法人 創生する未来 伊嶋謙二 執筆:フリーライター 井上猛雄)

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