反東京としての地方建築を歩く03「久留米の企業が支援した国立の建築」
2019.08.29
Updated by Tarou Igarashi on August 29, 2019, 10:36 am JST
2019.08.29
Updated by Tarou Igarashi on August 29, 2019, 10:36 am JST
菊竹清訓(1928-2011)の設計した名作、宮崎県の旧都城市民会館(1966年)が、いよいよ解体されることになり、注目を集めている。6月18日、市民団体が解体差し止めの仮処分の申し立てを行ったが、その努力は実らなかった。1960年代に菊竹は黒川紀章らとともに、部分をとり換え可能とするメタボリズムのデザイン運動を牽引した建築家であり、これは現在に至るまで日本から海外に向けて発信されたもっとも有名な建築論だ。彼は福岡県の久留米市の出身であり、同市において初期の木造による作品が実現している。地元の大地主の家に生まれ、戦後の農地解放までは広大な土地を所有していたという。そのときの悔しい思いもあってか、菊竹はスカイハウス(1958)から江戸東京博物館(1992)や愛・地球博のグルーバル・ループ(2005)まで、生涯にわたって、空中に持ち上げた人工的な土地というデザインを追求している。
久留米と市の周辺では、興味深い近現代の建築をまわることができる。近代建築としては、キリスト教の布教と隠れキリシタンの歴史を背景にもつ明治や大正期の教会が残っている[1]。例えば、隣町の田園風景のなかでたつカトリック今村教会(1913)[2]は、大工の鉄川与助の手がけた想像以上に大きく、素晴らしい建築だった。赤レンガと双塔のファサード、そして半円アーチを反復するロマネスク風の外観が印象的である。デザインが巧いというよりも、気迫と情熱を感じる建築であり、使い手に愛される宗教施設だからなのか、保存状態が良く、今でも瑞々しい。
特筆すべきは、久留米を拠点にブリヂストンを発展させた創業者の石橋正二郎に関係する近代建築が多いことだろう。例えば、日本における耐震工学の父、構造学者の佐野利器が設計した木造家屋の旧私邸(1930年)と、これに隣接し、戦後は地元の人々に開放したモダニズムの教育会館講堂[3]。また兄の石橋徳次郎邸(1933年)[4]は、本格的な洋館である。そして石橋正二郎は、1956年には総合文化施設の石橋文化センター[5]を、さらに1963年にはここに建設した美術館[6]とホールを市に寄贈した。こうした公共施設が地元にまだほとんどなかった時代に、民間企業が市民に文化の場を提供したのである。今でこそ日本各地に公立の美術館は遍在しているが、当時の地方都市としては異例の早さで登場した施設だろう。ちなみに、石橋文化センターをはじめとして、社員の寮やアパートなどを設計したのは、有名になる前の1950年代の菊竹だった。ただし、かつてピロティ形式だった美術館はだいぶ改造され、落ち着いた姿に変わっている。
ブリヂストンの貢献は、地元だけではない。吉阪隆正が設計したヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展・建築展で使われる日本館(1956年)や、谷口吉郎による東京国立近代美術館(1969年)も、実はアートを愛した石橋の寄付によって建設が可能になったものだ。100年以上の歴史をもつ最も重要な国際展で活用される前者は、日本美術・建築にとって世界への窓であり、後者は近現代美術の重要な展示とコレクションの施設だ。とくにヴェネツィアの日本館は、このタイミングで実現できたおかげで、比較的に良い場所に位置しており、後から参入しようとした国は公園内にもう建てる場所がない。こうした建築を通じた日本のアートに対する支援は、国レベルの貢献として評価すべきものだろう。一方、現在の起業家は、SNSを使って、一億円をばらまいたり、ロケットを飛ばすことに夢中だ。なるほど、グローバリズムの進行によって、一般的に世界を相手にする企業は地元や国家の意識を失い、根なし草的になっているが、今後、21世紀の企業はブリヂストンのような社会貢献ができるのかを注視したい。
ほかにも菊竹は久留米市において、回転する間仕切り壁をもつ駅前の久留米市民会館(1969年)や久留米市役所(1994年)などを手がけた。もっとも、前者は老朽化によって解体され、別の場所に新しい施設がつくられている。香山壽夫らによる久留米シティプラザ(2016年)[7]だ。神奈川芸術劇場(KAAT)や穂の国とよはし芸術劇場など、香山による他のホールとの共通点も多いクラシックなテイストのデザインだが、枡席をもつ中ホール、多目的な和室、子供や高齢者も使えるフリースペースなど、むしろ異なる部分が興味深い。これはアーケードに隣接する閉鎖した百貨店の跡地につくられたものであり、中心市街地の空洞化を避けることも意図していたプロジェクトだからだ。ゆえに、端部の大きな屋外広場を抱え込みながら、透明性が高いデザインによって、市民への開放をより強く打ちだした点に現代性が感じられる[8][9]。また大ホールのホワイエも、入場料を払わないとアクセスできない閉じられた空間ではなく、通常は通行人が行き交う場所になっている。百貨店の撤退は日本各地で起きていることだが、ここでは開かれた文化施設を挿入することで、地域の活性化を試みたのだ。
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登録はこちら建築批評家。東北大大学院教授。著作に『現代日本建築家列伝』、『モダニズム崩壊後の建築』、『日本建築入門』、『現代建築に関する16章』、『被災地を歩きながら考えたこと』など。ヴェネツィアビエンナーレ国際建築展2008日本館のコミッショナー、あいちトリエンナーレ2013芸術時監督のほか、「インポッシブル・アーキテクチャー」展、「窓展:窓をめぐるアートと建築の旅」、「戦後日本住宅伝説」展、「3.11以後の建築」展などの監修をつとめる。