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独創的な現代建築が都市のイメージを変えた仙台

反東京としての地方建築を歩く06「独創的な現代建築が都市のイメージを変えた仙台」

2020.01.17

Updated by Tarou Igarashi on January 17, 2020, 11:00 am JST

仙台は空襲を受けたこともあり、あまり古い建築が残っていない。ケヤキ並木が続く、定禅寺通りなど、杜の都のイメージも戦後につくられた風景である。冬のケヤキがイルミネーションで彩られる光のページェントも、1985年に始まった。仙台の現代建築に目を向けると、原広司による未来的な宮城県図書館(1998年)や屈曲するファサードが印象的なBEEPビル(1989)[1] 、象設計集団のPL教団仙台中央教会(1980年)などが存在するが、なんと言っても世紀の変わり目に登場した伊東豊雄によるせんだいメディアテーク(2001年)[2][3]はもっとも重要な作品だろう。これは1995年にコンペで最優秀案に選ばれたときから、画期的なデザインゆえに、注目され、完成が期待されていたプロジェクトである。昨年、業界誌の『日経アーキテクチュア』が識者の投票によって「平成の10大建築」を発表したときも、ぶっちぎりでトップに輝いたのが、せんだいメディだった。また、おそらく海外の建築関係者に「仙台」という地名が記憶されたのも、間違いなく、この建築の名称を通してである。したがって、日本を訪問する外国の建築家は、これまで仙台をスルーしていたが、せんだいメディアテークが登場してからは、仙台は必ず訪問先のひとつとして検討されるようになった。

独創的な現代建築が都市のイメージを変えた仙台

これは図書館やギャラリーを備えた複合施設であるが、コンペの審査委員長の磯崎新が提案したことによって、「メディアテーク」という言葉が入った日本初の公共施設となった。その結果、単に紙の図書館や美術の展示場ではなく、情報を扱う資料館としての性格も想定され、これにふさわしい建築のイメージが求められた。では、伊東のデザインの何が画期的だったのか。コンペの際、彼が空港で描いたとされる有名なスケッチに「徹底的にフラットスラブ、海藻のような柱、ファサードのスクリーンの3要素だけをピュアに表現する」と記されたように、モダニズムの建築原理を提示したル・コルビュジエのドミノに代わる、情報化時代の建築の姿に挑戦したことである[4]。実際、このスケッチでは、とても建築のアイデアには見えない、水槽の中の海藻が揺らめくような斬新なイメージが付いていた。とりわけ、ランダムに配置され、くねる網目状のチューブ群は、従来の規則正しく並ぶ垂直の柱の概念を完全に覆すものである。鉄製のチューブは、透明なガラスのファサードで包まれていることから、外からもよく見え、有機的な造形は定禅寺通りのケヤキ並木とも呼応している。また鉄の薄いスラブはハニカム構造でつくられ、精度の高い溶接の施工を必要とするため、造船技術をもった職人が参加した。そしてインテリアは各階ごとに違うテイストを与え、ときには別々のデザイナーも参加することで、フロアごとに異なる世界が展開するような印象をもたらす[5]。

独創的な現代建築が都市のイメージを変えた仙台

現在はロサンゼルスのUCLAで教鞭をとっているが、仙台を拠点としていた重要な建築家として、ユニークな造形の理論をもつ阿部仁史が挙げられる。卸町の倉庫をリノベーションした事務所は現在も稼働しており、市内では定禅寺通りの青葉亭(2005年)[6]におけるケヤキ並木を意識し、鉄に無数の穴をあけたインテリアや、らせん状に空間をつなぐF-TOWN BUILDING[7]などが知られるが、日韓で開催された2002FIFAワールドカップにあわせて手がけた宮城スタジアム(宮城県利府市、2000年)が最大の作品である。彼は1962年生まれの建築家だから、なんと38歳のときに完成したプロジェクトだ。

独創的な現代建築が都市のイメージを変えた仙台

これは阿部が針生承一建築研究所と共同で設計し、地形を利用したデザインが大きな特徴である。通常のスタジアムは暴力的な大きさで、おわん形の構築物を建ててしまう。しかも、外部に対して閉じている。だが、阿部は、既存のなだらかな丘を開かれた公園とし、それをスタジアムに溶け込ませることを提案した。その結果、バックスタンドは丘の斜面を客席に転用し、丘を連続したような屋根を架けるだけで済む。一方、これに向きあうメインスタンドは大きな美しい弧を描き、特に地面と接するつけ根はダイナミックなコンクリートの構築物になっている。つまり、外に開く部分と内に閉じた部分をあわせもつ。かたちの違う2枚の屋根の組み合わせは、伊達正宗の兜のようだとも評されている。

宮城スタジアムは、自然の丘と人工的な建造物を巧みに融合させる。ローマ時代は平地に完全な人工の構築物として劇場や闘技場を建てたが、ギリシア時代は自然の傾斜地を利用して野外劇場を建てたのが想起されよう。阿部は、地形を読みとりながら、幾何学的な造形にもこだわる。普通は環境にただ従うおとなしいデザインか、周囲を無視して過激な形態の実験を行うかのどちらかに片寄りがちだ。しかし、彼の場合は両方をあっさりと調和させてしまう。阿部のデザイン思想は、人間と環境を媒介するものとしてかたちを位置づけているからだ。

東日本大震災では、せんだいメディアテークの内部が一部被害を受け、伊東が現場に駆けつけたことが契機となって、みんなの家のシリーズ[8]がスタートした。これは家を失った被災者のために、精神的な安らぎを感じられる空間を提供するプロジェクトである。その第一弾となった仙台市宮城野区の公園における仮設住宅地のみんなの家は、2011年10月にお披露目が行われた。これはくまもとアートポリスの公共事業に組み込むことで、熊本県の木を使い、地元でいったん仮組をしてから、仙台に部材を送り、小さな平屋がつくられた。つまり、熊本県から仙台に贈られたものである。設計は伊東のほか、桂英昭、末廣香織、曽我部昌史らが共同で行っている。驚かされるのは、先端的なデザインで新しい時代を切り開き、世界的に活躍する伊東が、一見、普通に思えるような三角屋根の家を設計したことだ。公園の空地に独立したパヴィリオンを建てないかというはなしもあったらしいが、彼はあえて既存の集会所に寄り添うように、ウッドデッキの縁側で小屋をつないでいる。

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宮城野区のみんなの家は、室内に縁側と連続するテーブル、四畳半のスペース、そしてキッチンを備え、文字通り、みんなが集う場所である。隣の集会所とのあいだの隙間は小さな庭となる。だが、これまでの伊東らしいアヴァンギャルドなデザインはない。やはり、3.11が影響を与えている。震災後に彼が結成した帰心の会のシンポジウムでは「私」を超えることを語り、ヴェネツィアビエンナーレ国際建築展2012の日本館コミッショナー就任に際しても、デザインの我欲を捨てることを宣言し、陸前高田のみんな家を展示した。すなわち、「建築」の閉じた世界のデザイン競争ではなく、ゼロの地点に戻って、考えなおすこと。伊東にとってのみんなの家は、もう一度建築に何が可能かを問いなおす契機となる始原の小屋となった。なお、公園にあった仮設住宅地は2016年に解体され、2017年にみんなの家は自宅を再建した被災者が多く住む新浜地区に移築され、やはり地域の集会所として使われている[9]。

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実は東日本大震災によって、筆者は一時、職場を失った。勤務先の東北大学の人間・環境系の校舎の四隅の柱が座屈し、大きな余震による倒壊の危険があるとして立入り禁止となったからだ。もとの校舎は1969年に竣工した9階建てのもので、1978年の宮城県沖地震も経験した後、耐震補強もなされ、二度の震災から人命を守ったが、ついに使用不可となった。311の後、教員も学生も書籍や私物を校舎に残したまま、居場所をなくし、筆者の研究室はしばらく漂流教室と呼んで、様々な場所を活用しながら、実験的にゼミを継続した。そして2011年の夏からは別キャンパスの校舎を間借りして当座をしのぎ、同年の暮れからは約3年間、仮設校舎を使う。いわば、家を失った被災者にとっての避難所→仮設住居の段階である。その間、旧校舎は解体され、同じ場所で新しい校舎の復旧工事に着手し、2014年夏に竣工した。秋に三度目の引越しを行い、ようやくもとの職場環境をとり戻した。

新しい人間・環境系教育研究棟は、東北大学施設部・日本設計・建築家の千葉学によって設計された[10]。揺れに備えるべく、中層の5階建て+免震基礎としている。外観の特徴は、連続する大きなV字型の柱が、ガラス張りの建物を囲むことだ。室内から柱をなくして今後の自由な間取り変更を可能としつつ、階ごとに風景の見えを変え、場所を均質とせず、個性を与えている。全体の平面はS字とし、両サイドの2階にテラスを抱き込みながら、青葉山という緑あふれるまわりの環境に開く。また停電になっても移動しやすいよう、中廊下とせず、自然光が入る外廊下を採用した。その結果、遠くの空間の可視性も高い。千葉によれば、過剰なディテールや仕上げなど、余計なコストをかけず、力強いスケルトンをつくろうとしたという。限られた予算と条件のなかで、無駄を削ぎ落としながら、自由な教育の場を創出すること。東日本大震災後に付加価値をもたらす、復旧の建築である。

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最後に前川國男が設計した宮城県美術館(1981年)の話題に触れたい[11]。現在、県知事の意向により、理不尽な移転の計画が持ち上がっているからだ。これは数多くの美術館を手がけた前川の集大成というべき落ち着いたタイル張りの外観をもつモダニズムの建築であり、近年、設備の改修を行い、リニュアルの方針まで決定していたにもかかわらず、突如、その方針をひっくり返され、県民ホールの建て替えとセットにされ、巻き添えを食ったかたちになっている。ほぼ同時期の前川による福岡市美術館(1979年)は改修工事を終え、2019年春にリニュアル・オープンし、今後も使い続ける予定だ。また弘前市を中心に新潟市や岡山県など、日本各地の前川建築がある自治体は、近代建築ツーリズムネットワークに加盟し、積極的にすぐれたモダニズムの遺産を活用している。こうした流れと完全に逆行しているが、宮城県の動向だ。東日本大震災にも耐えた良質な建築が、知事の思い出プロジェクトによって、存在が危うくなっているのは、由々しき事態である。

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五十嵐 太郎(いがらし・たろう)

建築批評家。東北大大学院教授。著作に『現代日本建築家列伝』、『モダニズム崩壊後の建築』、『日本建築入門』、『現代建築に関する16章』、『被災地を歩きながら考えたこと』など。ヴェネツィアビエンナーレ国際建築展2008日本館のコミッショナー、あいちトリエンナーレ2013芸術時監督のほか、「インポッシブル・アーキテクチャー」展、「窓展:窓をめぐるアートと建築の旅」、「戦後日本住宅伝説」展、「3.11以後の建築」展などの監修をつとめる。