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エリートと教養 3

エリートと教養 3

2019.06.03

Updated by Youichirou Murakami on June 3, 2019, 11:02 am UTC

文化という言葉は、だれでも簡単に使います。もっとも、私たち日本語圏での「文化」の使い方には、幾つか違った流儀があるようです。最も日常的には、「文化包丁」とか「文化住宅」のように、「機能が進んでいる」状態を指す方法です。この時の「文化」は、ほとんど「文明」と同義のように映ります。無論、同義に近いからと、置き換えは出来ないでしょう。「文明包丁」とか「文明住宅」などという言葉は聞いたことがありません。第二の使い方は、文部科学省の一部局である「文化庁」の場合が相当します。なにがしか芸術的・高踏的な芸能などを指しているような語感があります。最後の使い方は、主に文化人類学者によって使われるものです。この場合は「自然」に対立して、「人間の行うこと」全てを指しています。「人為」という言葉の意味に近いものです。

ところで、「文化」に相当する英語が<culture>であることは、これも誰でも知っています。カタカナ語にもなっています。「何某カルチャー・センター」、「ポップ・カルチャー」などという言葉は、しばしばお目にかかれます。しかし、面白いことに、「文化」と<culture>の使い方には、かなりな違いがあります。上に挙げた「文化」の最後の使い方は、<culture>でも同じでしょう。これも、中学生でもことによったら英語の時間に習うでしょうが、<culture>の原義は、「耕す」ことにあります。そこから先は中学生の教室で伝えられるかは、判りませんが、もともとはラテン語の<colo>(「耕す」の辞書エントリー形、不定詞は<colere>)という動詞の派生語です。人間が「自然」に大々的、かつ意図的に、手を加える最初の営みが、大地を「耕し」て、灌漑を施し、単品種の穀物を濃厚に栽培する、という農業でしたから、「自然」と対立する「人為」という意味が、そこに自ずから生まれるのは、自然なことだったでしょう。その点では、日本語でよく使われる「農耕文化」という熟語は、同語反復に近いことになります。英語では「農業」を<agriculture>と言いますが、<agri>は、ラテン語の「野原」の類縁語で、もとの意味は「野を耕す」になります。

エリートと教養 3

ところで、上に挙げた「文化」の第二の使用法に、多少とも近い(同じとは言えない)のが、実は「教養」です。というのも、例えば試みに和英辞典で「教養」を引いて見ると、すべての辞書が、最初に<culture>を挙げているからです。逆に、研究社の英和辞典The New English-Japanese Dictionaryでも、訳語の<1>つまり最初に「教養」を掲げ、例文としては<a man of considerable culture> などを挙げています。この表現は、「高度の教養人」とでも訳せばよいでしょうか。「文化」という訳語は、次の<2>に現れるのですから、私たちの常識からすれば、少しずれていないでしょうか。なお<1>の説明として、この辞書は「教育と修養による人間の能力の総合的発達状態」と書いています。「自然を耕す」のが<culture>であり、その類推で「人間が自らの人格を耕す」のも<culture>になると考えられます。派生語である<cultivate>は、「開墾する」と同時に、人間の「才能、趣味、風俗、習慣などを養成する」あるいは「品性、人格などを洗練させ、陶冶する」ことと説明されています。これこそが、日本語の「教養」に最も近い使い方かもしれません。

いずれにせよ、英語での<culture>をそのように理解するとすれば、納得するほかはないのですが、少なくとも、日本での「教養」の持つ、揶揄的な感興を引き起こすようなモティーフは<culture>には認められないと言えましょう。

エリートと教養 3

フランス語でも、正面から「教養」を表現しようとすれば、やはり<culture>がそれに当たります。先の英語の例文に似たものとしては、<homme de haute culture>が辞書には載っていますし、<culture classique>は、「古典の教養」という使い方もあることを教えてくれます。ドイツ語では<Bildung>という言葉があります。英語の<building>に近い言葉で、直訳すれば「造り上げる」という感じになります。近代市民社会のなかで、個人が一人の自立した人格として自己を磨き上げ、造り上げること、それが<Bildung>です。英語、仏語で例文(熟語ですが)に使われた同じ内容は<ein Man von Bildung>ということになります。そのドイツ語には、独特の言い回しとして <Bildungsroman>という熟語があります。日本語では「教養小説」と訳されていますが、これを読めば教養が増す、というような意味の小説ではありません。最も先駆的にはゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』、そして、日本でもかつて、私の世代くらいまでは、青年層に好んで読まれた、ケラーの『緑のハインリヒ』、ヘッセの『デミアン』、そして何よりもトマス・マンの『魔の山』などがそう呼ばれます。『緑のハイリヒ』は、ちょっと珍しい長編小説で、二種類の後半部分があります。当初に発表されたものでは、あらゆる場面(職業選び、恋愛、その他諸々)に挫折した若者が、愛する肉親の死後、結局は若くして死を遂げるというものですが、後にケラー自身の手で改作が試みられ、結末は華々しいものではありませんが、穏やかな生活を送るように描かれています。『デミアン』は、もともとは、「エミール・シンクレールの若き日々」というような意味のタイトルで、言わばシンクレールの「自著」として発表された小説です。十歳のエミールの記述から始まるもので、後にヘッセの作品であることが明かされたものです。余計なことですが、私は中学二年の読書の宿題に、『デミアン』を選んで、かなり長文の感想文を書いた記憶があります、内容はすっかり忘れましたが。『デミアン』の旧タイトルが直接的に指示しているように、いずれの小説も、一人の少年が、家庭のなかで庇護されていた状態から、世間に出ていかねばならぬ、ちょうど境目のあたりで、自分という個人をどのように「築き上げ」、「造り上げ」て行くのか、その過程を描いた小説がそれということになります。念のためですが、この表現のなかの<roman>は「小説」(特に長編の)の意味であって、そうした作品が生まれたのは、確かにロマン主義の時代でありましたが、「ロマン主義」とは直接の関係はありません。因みに独語で<culture>に相当するのは<Kultur>ですが、こちらは、どの独和辞典でも「文化」という訳語が最初に現れ、「教養」は三番目くらいに位置しています。この辺りは、言語によって微妙に意味のずれが感じられます。なおヨーロッパ語で<culture>に当たる言葉には、生物学、医学特有の用法として、「培地」、つまり細菌などを培養するための用具の意味があることは、弁えておいてよいかも知れません。

いずれにしても、このように調べてみると、英語でも、仏語、独語の場合も、「教養」という概念に、意図してパロディ化する場合は別として、通常は、日本のような、一抹の恥ずかしさが伴うような傾向は備わっていないと言って差し支えなさそうです。

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村上 陽一郎(むらかみ・よういちろう)

上智大学理工学部、東京大学教養学部、同学先端科学技術研究センター、国際基督教大学(ICU)、東京理科大学、ウィーン工科大学などを経て、東洋英和女学院大学学長で現役を退く。東大、ICU名誉教授。専攻は科学史・科学哲学・科学社会学。幼少より能楽の訓練を受ける一方、チェロのアマチュア演奏家として活動を続ける。

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