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村上陽一郎

エリートと教養13 教養とは物知りのことなのか

2021.02.02

Updated by Yoichiro Murakami on February 2, 2021, 12:53 pm JST

永年テレヴィジョン・セットを持たないで過ごしてきました。どうしても見なければならないときは、コンピュータにTVのプログラムを観られるアプリケーションが入っていますので、それを利用することはありましたが。だから、テレヴィジョンの初期から有名になった番組、例えば「夢で逢いましょう」や「月光仮面」などについて、子供の頃は友人たちと共通の話題とすることができなくて、肩身の狭い想いをすることもありました。しかし、別に後悔もありませんでしたし、残念だと思うこともありませんでした。八十歳を超えて、家に留まることが多くなり、昔見逃した映画をDVDで鑑賞したいという想いが募って、とうとうTVセットを家に入れたのが、ちょうど二年ほど前です。

村上陽一郎余談めきますが、ウイルス禍で、嫌でも家に閉じ込められる時間が長くなった今、やはりTVは生活の中に必要と感じられるものという感覚が強くなっています。それはそうなのですが、今のTV番組には、事前に予想というか期待していたこととは全く違っていた、ということが幾つかあります。

最も顕著なのは、お笑い芸人と称する得体の知れない人々が、あらゆる番組に出張っていることです。寄席番組、あるいは娯楽のためのコメディなどの枠組みに登場の機会が限られていたはずの人々が、クイズ、ヴァラエティはもとより、生真面目な文化番組などにまで出ているのです。

恥を知らない奇矯ななりをした、奇怪な名前の芸人さん達が進出して、無意味な嗤いをとろうとするならまだしも、つまらないダジャレを発しては、それに自分で両手を打ち鳴らしながら笑いこけてみせる。見るに堪えない場面が大半なのが、今のTV番組ですね。

そして、こういう発言は「上から目線」だと必ず叩かれます。別段私は、お笑いに関わる芸人さんたちを尊敬こそすれ、軽蔑するつもりなど全くありません。例えば、故人になりましたが、圓生師、文楽師(黒門町)、米朝師、少し若いところで馬生師、あるいは「いとしこいし」師、いまだ現役でご活躍の小三治師などなど、私にとっては神様みたいな人達です。

ところで、少し脱線すれば、この「上から目線」という言葉を私は嫌悪します。大体、「目線」とは何事ですか。写真撮影や動画の撮影で、その業界の人々が、顔、もしくは視線をカメラに向けることを、「カメラ目線」と呼び始めたのが、この「湯桶読み」の嫌な言葉の始まりのような気がしますが、「視線」あるいは「視座」というような立派な言葉があるのに、何故こんな嫌な言葉が流行るのでしょうか。

もう一つ、今のTV番組で、ほとんど呆然としたのは、全放映時間の何割に相当するのか、馬鹿馬鹿しくて計算する気にもなれませんが、とにかくどこのチャンネルを見ても、大抵は誰かが何かを口に含んで「ムーン、おいしい」と宣っているシーンに出会うことです。

時には、あられもなく大皿から、大口を開いて、中身を掻き込む有様、見ていて気分が悪くなるので、私は早々にチャンネルを切り替えます。沢山ものを食べられることが「芸」の一つであるかのような、そんな番組さえあるようです。一説によれば、スポンサーが付いた安上がりな番組が「ものを食べる」企画なのだそうですが。

私の常識では、「ものを食べる」こと自体に幾分かの恥じらいがあって、露骨に人に見せるべきものではないはずなのです。それが証拠に、旅行の際の長距離の乗り物を除けば、今でも皆の視線がある公共の乗り物でものを食べることには、かなり社会的な抵抗があるし、公共の道路で歩きながら食べることにもブレーキがかかります。そんな文化的な背景を持つのが日本ではないでしょうか。それが私たちの文化だったのではありませんか。

実際、本来は人前に晒すべきでないヘアピンを一番目立つ前髪に麗々しく飾りにして見せる女性だとか、ほとんどいつも裸に近いなりで現れる男性だとか、私たちは本当に「恥」の感覚を忘れてしまったとしか思えません。

なんだか年寄の繰り言のようになりましたね。TVで目立つもう一つの企画が、クイズ番組のようです。特に、有名大学の物知り学生たちと、それに対抗意識を持たされる芸人さん達、あるいはタレントさん達との対抗戦などという内容のものに人気があるようです。そして、そういう過程から、クイズについてのアマチュアの専門家も生まれたようです。

因みに「アマチュアの専門家」という表現は完全な矛盾のようですが、第一に「アマチュア」という言葉には、本来は「素人」という意味はありません。ラテン語で最もポピュラーな「愛する」という動詞<amo>に由来する言葉で、意味は「愛する人」です。第二に、英語には<lay-expert>という言葉がありますが、これは「素人の専門家」という、れっきとした意味のある言葉です。

そうした常連が、TVのクイズ番組の出題者としても活躍するようになっている様子ですが、その方たちが「教養」という言葉をよく使われます。つまり、クイズの題材になるような知識を持っているか否かが、教養の有無の判断基準だ、とその方々は考えておられるようなのです。

確かに世の中での「教養」の使い方が、それに近い場合があることは、残念ながら承知しています。しかし、「教養」という概念の誤解として、これほど大きなものはないとさえ、私は思っております。

「教養がある」ことと、クイズに出るような小賢しい知識を持っていることとは、天地ほど違います。「小賢しい」と些か批判的な言辞を弄しましたが、例えば、国連加盟国だけで二百カ国ほどある国々の国旗を知っていることと、人間が真っ当に生きることとは、どう関わるのでしょうか。そうしたことを記憶している方を軽んじているわけではありません。そういうことに、関心を持ち、記憶の能力があって、実際にその記憶を全うされるのは、そのようなことに無能な自分と比較して「偉いな」と思います。ただ、それ以上ではありません。

村上陽一郎

昔、私はこんな文章を書いたことがあります。「目に一丁字無い人でも、教養ある人はいます」。今でも私はそう思っています。自分自身の「規矩」を持ち、それに基いて自らを高く持し、しかし驕らず昂らず、世を渡ることにおいて誤り少なき人こそが、「教養人」の名に相応しい、それが私の「教養」についての理解です。

ここでいう「規矩」とは、人が判断し、行動する際に、準拠すべき規範、基準などを指すものとお考え下さい。自分に対して厳しい規矩に基づく節制を要求すること、あるいは、その要求通りに行動すること。それが「教養」ある人の資格だと信じます。

知識は有った方が良い。それはそうかもしれません。「なんだ、そんなことも知らないのか」という言葉を浴びせかけられるのは、屈辱的な体験です。私も、中学・高校、あるいは大学生の頃は、そういう体験を重ね、それが動機となって、本を読み、音楽を聴き、他人からも学び、できるだけ未知の世界にも心を開きました。

ものを知らないことによる屈辱からくる学びの動機は、若い人間にとって「向上」の基礎となることは否定できません。そして、ここでいう「知識」とは、「頭」を媒介したものだけではなく、身体を媒介とした「身体知」を含めて考えて良いでしょう。

しかし、そうして知識を向上させていくことと、自ら定めた「規矩」を自らに課し、揺らぐことなく、自らを持することとは、無関係でしょう。

 

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村上 陽一郎(むらかみ・よういちろう)

上智大学理工学部、東京大学教養学部、同学先端科学技術研究センター、国際基督教大学(ICU)、東京理科大学、ウィーン工科大学などを経て、東洋英和女学院大学学長で現役を退く。東大、ICU名誉教授。専攻は科学史・科学哲学・科学社会学。幼少より能楽の訓練を受ける一方、チェロのアマチュア演奏家として活動を続ける。