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キブツを体験した日本人 永森修吾氏と貴重な報告書(前編)

2019.11.18

Updated by Hitoshi Arai on November 18, 2019, 12:08 pm UTC

永森修吾氏は、前回紹介した柳敏昭氏と同様に1967年に、北海道教育大学の学生として「キブツ・ラマト・ヨハナン」へ研修に行った。北海道教育大学には分校が5つあり、永森氏は釧路校、柳氏は岩見沢校だったため、キブツに行く前はお互いに接点はなかった。キブツ体験を通して知り合ったという。今回、永森氏への取材は、柳氏の紹介により実現した。

永森氏の先生は、共同体を研究していた草刈善造先生であり、研究の一つのテーマとして「僻地教育」があった。地域に魅力がないと、子どもたちは都会に出て行ってしまうので、これを何とかしなければならない。これは、北海道の人々にほぼ共通した問題意識だったのだと想像する。そして、地域の魅力を作り、子どもたちと共に働くことを実践している場の例として草刈先生が学生達に紹介したのがキブツだったようだ。永森氏は、もともと小学校の教師を目指しており、よりよい僻地教育を実現することが夢だったので、研修に参加したいと考えたという。

ただ、永森氏の家庭も農家であり、海外へ行く旅費を手当することは決して容易ではなく、柳氏と同じように農協に借金をしている。永森氏は8人兄弟の5番目で、兄弟の中でも父親が特に期待を寄せていたようで、父や兄の支援を得て参加することができたという。草刈先生もわざわざ自宅まで来て、ご両親を説得してくれたようだ。

永森氏によれば、片道の旅費+その他として必要だったのが40万円程度であったという。当時の農家の年収は120万円程度であり、年収のほぼ3分の1に相当する金額を借りたことになる。帰りの旅費も農協で工面したので、永森家は2年続けて巨額の借金をした。後日、永森氏は東京で小学校の教師になるが、北海道へ里帰りするたびに、長兄に「お前には金がかかった」と愚痴をこぼされたとのことだ。

永森氏が参加したのは、キブツ・ラマト・ヨハナンへの研修グループで、計23名だった。そのうちの約3分の2が、北海道教育大学の学生である。学生以外の参加者も5名いたようだが、学生中心のグループということでまとまりがあった。草刈先生も参加し、最初からチームの運営体制を組織化し各自の役割も決めて、キブツに到着してからキブツ側の各担当とスムースにやり取りできるように事前の準備をしていた。

その委員会、総会等の運営記録、生活日誌、帰国前の感想文などをまとめた「第一次キブツ・ラマト・ヨハナングループ報告書」が永森氏の手元に残っていた。200部しか印刷しなかった冊子であり、キブツ生活での細かな現実を知ることができる貴重な記録資料である。以下、その資料も参照しつつ永森氏への取材内容と合わせてまとめた。

事件・事故だらけの往路

日誌によれば、グループは往路で既に様々な困難に直面している。4月14日に横浜からソ連船トルクメニア号でハバロフスクへ行き、そこから飛行機でイルクーツクへ飛ぶ。その後は、列車でモスクワ、ウクライナ地方、ブルガリアを経由してアテネへ向かうという経路であった。

途中、ウクライナ地方で乗っていた列車が脱線する事故が発生した。研修生は無事だったが重軽傷者が数名出た。メンバーの何人かが事故現場の写真を撮ったところ、ソ連の官憲が来てフィルムを没収されたり、カメラを落として壊されるという体験をする。またロシア国境を通過するときも、深夜3時に叩き起こされ、列車事故撮影の件で長時間の取り調べを受けたそうだ。

当時のソ連は、冷戦で世界を二分した超大国であり、学生たちはかなり恐怖を感じたようだ。乗っていた列車には食堂車がなく、途中停車もないため、ブルガリアのソフィアに着くまで食べるものも不足した。日誌には、女性のほうが肝が据わっていたようなことも書かれている。何時の時代でも女性のほうがイザという時に逞しいのは変わらないのだろう。

ソフィアを出たのは21日だが、ギリシャに政変が起こり、入国できないままブルガリア国境の列車の中に丸1日以上缶詰になるという経験もする。22日の夕方にやっと列車が動き、ギリシャのアテネに着いたのは23日。翌日、やっと飛行機でイスラエルに行くことができた。従って、横浜から10日かかってイスラエルに辿り着いたことになる。

キブツ・ラマト・ヨハナンの場所を地図で示す。柳氏が行った「キブツ・ダリヤ」とは20キロメートルほど離れているが、ハイファの街には近い。

キブツを体験した日本人 永森修吾氏と貴重な報告書(前編)

第三次中東戦争の影響

4月30日からは研修生たちは労働を開始し、5月13日にはグループでカルメル山への旅行もしている。一方で、19日にはイスラエル・アラブの関係が緊迫しつつあることが日誌に記録されていた。そして翌20日には十数名のキブツメンバーが軍隊へ行った。

それを受けて、世話人と学生たちが話し合い、通常は研修生の労働は午前中であったところを、週の半分3日は午前中のままだが、残り3日は8時間にすることを合意している。柳氏の記事にも記載したが、研修生たちはキブツにとって働き手の留守を預かる貴重な労働力だったのである。

25日には日本大使館から、(1)国境近くを旅行しないこと、(2)情勢悪化の際には帰国勧告をする、(3)現地人を刺激する言動は慎むこと、という指示があったという。31日には、実際に帰国を勧告するような連絡を受けた、と日誌に記録されている。

永森氏の記憶によれば、戦争中は空襲警報が鳴り、灯火管制が敷かれた。研修生もキブツメンバーも協力して、毛布を窓に貼って光がもれないようにしたり、防空壕へ避難したという。戦後生まれの永森氏にとって、強烈な体験であったことは間違いない。戦況を知るためにラジオは点けっぱなしで、キブツの正規メンバー達は、毎晩食事のあと対策協議のようなものをしていたという。研修生たちは、その場には入れなかったそうだ。6月1日には、再度、大使館から帰国勧告のような電話があったと記録されているが、キブツの生活自体はさほど緊迫したものではなかったらしく、研修生たちは直ちに帰国か滞在かを議論することもなく、草刈先生の指導の下に様子を見ていたようだ。

9日には停戦になったというニュースが流れた、という記録があり、ハイファの街の灯りが見えるとも書かれている。キブツでの生活自体はさほど緊迫はしていなかったにせよ、「戦争が終わった」という安心感が日誌から伺える。

この6日戦争は、イスラエルの圧勝に終わるが、最も辛かったのは、日本人グループの世話人をしてくれたモシェという人の息子が戦死したことで、キブツの中は「勝ってよかった」というような雰囲気ではなかったという。

※後編につづく。

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新井 均(あらい・ひとし)

NTT武蔵野電気通信研究所にて液晶デバイス関連の研究開発業務に従事後、外資系メーカー、新規参入通信事業者のマネジメントを歴任し、2007年ネクシム・コミュニケーションズ株式会社代表取締役に就任。2014年にネクシムの株式譲渡後、海外(主にイスラエル)企業の日本市場進出を支援するコンサル業務を開始。MITスローンスクール卒業。日本イスラエル親善協会ビジネス交流委員。E-mail: hitoshi.arai@alum.mit.edu