反東京としての地方建築を歩く05「建築のユートピア・アイランド、直島」
2019.12.10
Updated by Tarou Igarashi on December 10, 2019, 12:07 pm JST
2019.12.10
Updated by Tarou Igarashi on December 10, 2019, 12:07 pm JST
今でこそ、瀬戸内国際芸術祭や草間彌生[1]のパブリック・アートをはじめとする華やかな現代アートで知られ、多くの観光客を集めているが、そもそも直島は建築の島だった。およそ四半世紀前、筆者が初めてここを訪れたのも、ポストモダンの建築家、石井和紘が設計した作品群を見学するためである。1980年代の後半に建築の勉強をはじめたものにとって、当時、彼は飛ぶ鳥を落とす勢いで話題作を発表する建築家だった。その後、直島はベネッセが入ったことで、1990年代から安藤忠雄がホテル[2]のほか、地中美術館や李禹煥美術館[3]を手がけるようになり、やがて21世紀にはSANAA/妹島和世+西沢立衛、西沢大良、三分一博志、藤本壮介[4]が参入し、着実に新しい世代に引き継がれている。ここは小さい島であるにもかかわらず、現代建築のユートピアなのだ。海外からの美術関係者が多く訪れているが、おそらく現代アートだけが目的ではなく、世界最高峰のプリツカー賞を受賞した安藤やSANAAの建築を体験できることも大きな魅力だろう。
まず直島を船で訪れると、最初に出迎えるのが、フェリーターミナル、海の駅なおしま[5]の大きな屋根だ。これはSANAAの手がけた海の駅なおしま(2006)である。第一印象は、こうだ。でかい、薄い、軽い、白い。通常、こうしたプロジェクトでは、港のランドマークとなるシンボルタワーをつくることが求められる。だが、SANAAは垂直方向の高さではなく、水平方向の広がりを追求した。それが70m×52mの巨大な屋根である。その厚さはわずか15cmという薄さ。屋根は、直径8.5cmの細い鉄骨の柱の列によって支えられる。ゆえに、まるで空中に浮かぶような軽やかさをもつ。屋根は高さ5mに設定されており、船から見上げるのではなく、見下ろす。建物の顔は正面のファサードだけではない。海の駅なおしまは、屋根の水平面も建物の顔になることを気づかせてくれる。
大屋根の下はのびのびとした空間だ。待合所やイベントホールのガラスの部屋が散らばる以外は、自由に出入りできる屋外である。ここにバス乗り場や車の待機スペースも含む。白い柱が並ぶ均質な空間だが、地面がゆるやかに傾斜しており、それぞれの場所に微妙な変化を与える。外を眺めると、白い天井によって切り取られた風景も楽しい。床にボックス型の照明を置くのも、天井に余計なものをつけないためだろう。ステンレス鏡面仕上げの耐震壁は、まわりの風景を映しこむことで存在感をなくし、さらに軽く見せている。
ちなみに、当初の瀬戸内国際芸術祭では、安藤以降の建築はマップで示されるのに、最初の開拓者である石井が排除されていたのを寂しく思っていた。しかし、2016年は原点に戻って、若き日の難波和彦や伊東豊雄も設計に協力した石井の直島小学校(1970)[6]から現在の建築までの軌跡をたどる槻橋修監修の「直島建築—NAOSHIMA BLUEPRINT」展や建築ツアーが開催された(図面を見ると、手伝わされた難波や伊東の署名が入っている)。改めて、約半世紀近くのあいだに驚くべき密度で小さな島に重要な建築が集中していることを確認できる。
このときベネッセとしては初めての試みの直島建築ツアーに参加し、石井が設計した文教地区の幼児学園、保育園、中学校[7]、体育館、小学校、役場、そして三分一博志による直島ホール、リノベーション住宅のまたべえを見学した。当時の三宅親連町長に気に入られたことから、石井は東大の大学院のときから一連の作品を手がけたが、現在ではおそらく癒着と批判され、こうした発注の仕方は難しいだろう。外観からは何度も見ていたが、初めて内部や上階に足を踏み入れた石井建築もあって、貴重な体験だった。とくに1970年代の計画学的なプログラム、空間の構成、完全な記号引用型のポストモダンになる前の複雑なデザイン操作などは、もっと再評価されてよいだろう。また唐破風など、飛雲閣の造形を引用した直島役場(1983)[8][9]では、驚くべき和洋折衷の天井(折上格子天井+ドーム!)をもつ議場や、弟子の山田幸司に影響を与えたのではないかと思う和風+ハイテクの部屋が印象的だった。一方、役場の背後に登場した直島ホール[10][11]は、環境の装置として建築を位置づけ、好対照をなす。
三分一博志は、リノベーション建築の犬島精錬所美術館(2008)に続き、直島ホールによって、二度目の日本建築学会賞(作品)を受賞した。一見すると、入母屋風の造形だが、伝統的な屋根の形式として使ったわけではない。上部に穴を開け、風を内部に巻き込む装置として、従来の形状の意味を再定義している。実際、夏に二度、この空間を体験したが、人工的な空調を使わずとも、周囲よりも熱気を感じない環境が形成されていた。ゆえに、直島ホールは肌で感じる建築と言える。彼は現地の集落の綿密なリサーチを経て、島に流れる風の方向を見定めた上で、様々な模型のスタディと風洞実験を重ねて、効果的に空気が動く屋根の形態を検証した。直島ホールの集会所棟も、寄棟造を連想させる大屋根の下に小さな屋根の部屋が並ぶが、これも快適な風環境をつくることを主眼にして導かれた。
直島ホールの入母屋の屋根が大地に届くかのような外観は、見たことがないプロポーションとなり、巨大な竪穴式住居のようにも見える。また大きな天井面はすべて漆喰の仕上げであり、これも驚異的な空間体験をもたらす。この建築が直島町役場の隣にたつのも興味深い。屋根の扱いがまったく違うからだ。石井が飛雲閣の屋根の立面を記号的に引用したのに対し、三分一は断面が重要な環境装置としての屋根である。また役場は「日本」的な枠組を意識した挑発的なポストモダンのデザインだが、ホールは直島という固有の場所にふさわしい形態を求めたものだ。風だけではなく、水や光など普遍的な自然の要素も巧みにとりこみ、21世紀型の環境の建築をめざしている。彼はやはり風の道を意識した改修・増築による直島の住宅も設計したほか、島の価値を再認識する提言を行い、建築を通じて地域性を発見しているのだ。
さて、直島建築のシンポジウムにおいて、筆者は浅田彰氏と話す機会を得たが、彼は一刻も早く悪しきポストモダンの役場をぶっ壊して、三分一による新役場を建てるべきだと発言し、会場を沸かせた。が、これらは時代の変化を示す証言者である。また丹下健三の香川県庁舎を含む、金子知事が推進した高松のモダニズム建築群に触発されて、三宅町長が直島で一連の石井建築を生みだした経緯を考えると、歴史的な意味をもつのではないかと思う。
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登録はこちら建築批評家。東北大大学院教授。著作に『現代日本建築家列伝』、『モダニズム崩壊後の建築』、『日本建築入門』、『現代建築に関する16章』、『被災地を歩きながら考えたこと』など。ヴェネツィアビエンナーレ国際建築展2008日本館のコミッショナー、あいちトリエンナーレ2013芸術時監督のほか、「インポッシブル・アーキテクチャー」展、「窓展:窓をめぐるアートと建築の旅」、「戦後日本住宅伝説」展、「3.11以後の建築」展などの監修をつとめる。