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ネガティブの経済学04「パンデミックをつくったのは誰か」

「パンデミックをつくったのは誰か」

2020.04.14

Updated by Chikahiro Hanamura on April 14, 2020, 12:30 pm JST

だれもが同じ方向を向いているとき

今やどこを見ても人々の口からは新型コロナウイルスの話題しか出てこない。各種の大手メディアやインターネット、SNSではこのウイルスの話題以外はすっかりと姿を消した。未曾有のパンデミックに対していかに立ち向かうことができるのかに世界は完全に頭を悩ませている。この緊迫した事態は予断を許さず、パンデミックに一丸となって立ち向かう流れに逆らうような態度は許されない。そんな空気が世界中に漂っている。

「まなざしのデザイン」などを研究している立場としては、こういう状況こそ注意深くなる。ある状況に対して社会全体が同じ方向からまなざしを向けてしまう時に盲点が生まれるからだ。この新型コロナウイルス現象が発生してから、特にその報道や情報の出方、人々の反応や拡散の仕方を冷静に観察していたが、一連の流れにはずっと違和感を覚えていた。世界中の人々のまなざしが、まるである補助線に沿って導かれているように一つの方向へと見事に収束していくようなのだ。その流れの中にいると、様々な人々が様々な角度から様々な意見を表明しているように見える。だが少し離れて眺めると、実は視線が全て同じ方向を向いているのに気づくだろう。それはこのウイルス拡散という危機的な事態によって、いま世界中が死の恐怖と絶望に陥っているという認識である。

情報というのは“誰かが何かにフォーカス”することで生まれる。その情報は意識されなければ存在しないに等しいが、一度意識し始めると風景の全てがその補助線に沿って並べられる。目に見えない「新型コロナウイルス」という存在の情報を意識した途端に、昨日までと同じ風景にもかかわらず、すべての受け止め方は急変しパニックになる。大勢がその反応を示し、それが何度も繰り返されているうちに、次第に揺るぎない“現実”として振る舞い出すのである。

多くの人に現在共有されている一般的な考えを整理してみると、第一にこの新型コロナウイルスの流行は現在全世界に襲いかかっている未曾有のパンデミックであり、極めて危機的な状況であること。第二にこの新型コロナウイルスは感染力が強く、その対策として開発中のワクチンが有効であろうこと。第三に今回の事態が収束したとしても経済崩壊は避けられず、世界が大きく変わってしまうこと。多くの人の中で共有されていることは、概ねこのようなものではないのだろうか。

もちろんこの新型コロナウイルスの感染で死者が出ているのは事実であり、それに対する対策はしっかりと立てねばならない。しかしその前に確かめねばならないのは、今回の新型コロナウイルスの流行がここまでのパニックを起こすような「絶望的な状況」なのかどうかである。もしそうでないのであれば、これほどの騒動が起こっているのはなぜだろうか。そしてこの騒動によってこれから何が起ころうとするのだろうか。それを考えるには、たとえ馬鹿げていると言われることであっても、あえて問題の渦中から抜けて別の角度から補助線を引いて考えてみる必要がある。

無論、いたずらに人心をかき乱すことは本意ではないが、今すでに私たちの心の中はかき乱されている。そこに別の補助線を引くことで私たちが考える選択肢が増えるのであれば、一笑に付されても試してみる価値はあるだろう。そこに社会からはみ出したトリックスターの役割があり、そのアウトキャスティング思考による想像力を担保する余裕はどんなに厳しい時代であっても必要だからだ。

インフルエンザはなぜパンデミックにならないのか

まず医学的側面から考えてみたい。周知の事実だが、ウイルスは細菌の50分の1程度と非常に小さく、自らの細胞を持っていない。そのため他の細胞に入り込んでしか自己増殖できず、動物細胞に侵入したウイルスは細胞の中で自分のコピーを作って増えていく。そして重要なことだが、ウイルスそのものは私たちの日常生活のなかのごくありふれた存在で、多くのウイルスは野生動物や家畜、そして人の体の中に様々な細菌とともに既に共生している。というより、私たちの身体はこうした微生物なしでは成り立たない。

コロナウイルスも自然の中にいるありふれたウイルスの1つである。歴史の長い間、コロナウイルスはずっと人とともにあったのだが、60年ほど前に“発見”されてから私たちの“意識に上る”ようになった。何種類もあるコロナウイルスの仲間による感染症もありふれたものであり、日常的にかかる風邪の10-15%程度は、コロナウイルスによって引き起こされている。

今回の“新型”コロナウイルスのように重症肺炎の原因となり、感染者を死に至らしめる可能性のあるものはコロナウイルスとして発見されて以来、SARSやMERSに続き今回の“COVID-19”で3度目とされる。ウイルスは世代交代しながら突然変異を繰り返して、重篤な症状を起こすように変異したというのが主な見方である。

厚生労働省の報告によると2020年4月11日の段階で把握されている日本における今回の新型コロナウイルスによる累積の感染者は6,005人、そのうちの国内の死者は累積で94人となっている。この感染による初の死亡者が出た2月13日から2ヶ月の累積だとすると、1日平均でに1.56人が亡くなっており、もしオーバーシュート(感染拡大)しなければ、日本では1年で560人程度が死亡することとなる。

ではそれは他のウイルスと比べて死亡者が多いのだろうか。例えば同じウイルスの代表であるインフルエンザ。日本では、2018年には3,325人がインフルエンザで命を落としたとされている。2017年の統計で見ると、インフルエンザで亡くなったのは2,569人(1日平均で約9.1人)、結核で亡くなった方々は2,306人(1日平均で約6.3人)、感染性胃腸炎で亡くなった方々は2,320人(1日平均で約6.4人)となっている。新型コロナウイルスの今後の死亡者数の行く末にもよるし、単純な比較にはならないかもしれないが、現段階ではインフルエンザの方がはるかに死亡者の数が多いことは分かる。

米国ではインフルエンザウイルスが原因で毎年少なくとも12,000人以上が死亡していると報じられている。CDC(アメリカ疾病予防管理センター)の報告によると特に2017年から2018年にかけてはインフルエンザウイルスの患者数は4,500万人に上り、61,000人が死亡したとされている。これほど多くの人が亡くなっているのに、インフルエンザウイルスにはなぜWHOはパンデミック宣言を出さなかったのだろうか。もちろん統計だけは全てではないし見方も様々なのだが、どの国でもコロナウイルスで死亡する人と比較して、通常のインフルエンザで多くの人が死亡している。だがなぜ今回の新型コロナに対してだけフォーカスしてWHOはパンデミック宣言を出したのだろうか。

新型コロナが原因なのか

考えられるのは今回の新型コロナウイルスの特徴として非常に感染力が強いことである。そのため無症状の感染者が17.9%だとはいえ、感染が拡大すれば死亡者数も加速していくという恐れはある。しかし厚生労働省のサイトには新型コロナウイルス感染症対策専門家会議の見解として、このように示されている。

「これまでにわかってきたデータでは、感染が確認された症状のある人の約80%が軽症、14%が重症、6%が重篤となっています。しかし、重症化した人も、約半数は回復しています。(下線部原文ママ)

つまり、医学的には感染者の80%が軽症であり、重症化した人の半数つまり7%は回復している。ということは新型コロナウイルスにかかっても約87%の人は回復すると統計は示しているといえる。

もちろんこれは統計上の話で、感染した方々は大変な思いをされているし、死亡者も出ているのは間違いない。だからこんな反論をしたくもなる。実際に中国やイタリアやイランでは大勢の死者が出ているではないか。それはどのように説明するのだ。やはり今回の新型コロナウイルスは、インフルエンザよりも非常に危険であり、感染力も致死率も高いのではないか。そうやって甘く見ていると感染が拡大し取り返しのつかないことになるのではないか。

確かに大勢が亡くなっているように見えるが、留意せねばならないのは、亡くなった方々が新型コロナウイルス“だけ”が原因で死亡したと本当に言えるのかどうかである。どんなウイルスや病原菌であっても、常に危険にさらされるのは、高齢者のような免疫が元々弱っている方々や、特に持病がある方々である。インフルエンザも近年の死亡者の8割以上は65歳以上の高齢者であるが、今回の新型コロナウイルスでもヨーロッパで死亡した人のうち95%以上が60歳以上だとWHOは4月4日に発表している。米国での死亡者数が多いのはワシントン州カークランドの老人ホームというクラスターで亡くなった高齢者たちも要因の一つである。

スイスのザンクトガレン州立病院の感染症専門医のピエトロ・ヴェルナッツァ博士はそのインタビューの中で、「Science」誌に掲載された研究から、中国で死亡した患者の90%は70歳以上であり、50%は80歳以上であることは確かであるという部分を引用している。またイスラエルの元保険省の局長でテルアビブ大学医学部の副学部長も務めたヨラムラス博士も、イタリアは元々呼吸器系の問題で非常に罹患率が高く、他のヨーロッパ諸国の3倍以上であり、コロナウイルスによる死亡者の年齢の中央値は81歳で、非常に高齢で衰弱している上、喫煙者も多いと3月22日のGlobesでのインタビューで答えている

WHOも新型コロナウイルスで死亡した人の約80%は、少なくとも一つの基礎疾患があるという発表しているが、加齢や持病が以前から免疫システムに負荷をかけていて、感染した時点ですでに弱っている可能性の方が高い。そうであれば、社会全体の活動を制限するよりも、重症になる可能性の高い特定の人々に最大限集中して冷静に対策を立てることの方が重要なのではないか。しかし今や社会はヒステリックな反応をしながら、あらゆることが新型コロナウイルスの感染の恐怖という一つの補助線に沿って情報拡散されているように見える。その状況に疑問を感じる専門家が世界にはわずかながら増え始めている。

社会の崩壊によって何が起こるか

ウイルスそのもの以上に深刻なのは人々のパニック反応と、人々の孤立と分断によるストレスと不安、そしてその結果として生じる経済と社会の崩壊だ。冒頭の第三に挙げた、「今回の事態が収束したとしても経済崩壊は避けられず、世界が大きく変わってしまう」ことは、ウイルスを恐れてパニックに陥った私たちが自らの活動を制限するほど進行していくだろう。今、大手メディアから聞こえてくる声は、口を揃えたかのように自粛や制限の大合唱だ。まるで唯一の具体的な対策として、活動を制限し人と会うことを避けるしかないという風潮である。だが封鎖し隔離することは、本当に感染者や死者を減らすのに有効なのだろうか。例えばフランスでは国家封鎖を開始した3月17日には感染者が9,134人で死者は11人だった。しかし厳密に封鎖しているにもかかわらず、その3週間後の4月10日には感染者は124,869人になり死者も13,197人にまで増えている。実態はよく分からないが、数字の上だけでも妙な違和感は感じないだろうか。

個人的な立ち位置としては、これまでの資本主義経済に基づく人類の経済活動に対しては、人の生き方としても地球環境に及ぼす悪影響という意味でも限界に来たと考えている。だから今の経済を自制的に縮小方向へ転換することには賛成だ。このネガティブの経済学もそうした意図の下で綴っている。実際に生産活動や観光行動を少し控えたことによる地球環境の改善の報告も耳にする。だからこうした機会は、私たちの経済の偏りや文明の歪さに対してまなざしを向け直すよいタイミングになると強く思っている。

しかし一方で、今回の騒動はあまりにも過剰な反応であると感じている。これまでも度々見られたようなウイルスの流行というある特定の情報がフォーカスされることで、世界中がまなざしを向け、異常なまでに恐怖と混乱の反応が起こる。そして半ば強制的に経済活動を縮小させられる事態が広がることに、別のスケールの意図が見え隠れするように思える。

特に欧州各国では、パニックが広がり、足並みを揃えて都市封鎖や経済活動を低下させることで、世界市場でもこれまでにないぐらいに落ち込んでいるようだ。観光産業やエンターテインメント産業などの集客産業だけではない。中小企業や小規模なスタートアップ企業、小売商店などはすでに苦境に立たされているか、今後消費が落ち込むことでさらに苦しくなるだろう。そのうち大企業も危なくなり、株価もどうなるかは分からない。

特に深刻なのは、非正規雇用やアルバイトなど安定した職につけない社会的弱者である。休業になればアルバイトの人はどうやって家賃を払うのか。ネットカフェに寝泊まりするしかない人は急に閉鎖されるとどこで眠るのか。むしろ感染して死に至るよりも、急激な社会変化による経済苦で死に至る数の方が、これから深刻になるかもしれない。

こうやって人々がバラバラにされ、不安と不信の中で消費が落ち込んでいくとスモールビジネスやファミリービジネスはどんどん潰れていく。そして企業も経営的に破綻し、経済と社会が崩壊してしまった後に、一体誰が利益を得るだろうか。それはおそらく資金力を持ったグローバル企業であろう。中小企業が培ってきた技術や設備、不動産や人的資産を安価で根こそぎ手に入れるであろうことは想像に難くない。ましてや今回のような世界規模のスケールで人々がパニック反応を起こした結果、誰が追い詰められ、誰に対して利益をもたらすのかは明白だ。実際にこれまでも金融や経済の操作によって、特定の人に利益が集まっていく状況は何度も経験してきたはずである。私たちが過剰に騒ぎ立てて混乱を起こし、不信と不安が広がることで社会が壊れるほど、ますます得する者がいることは確かである。

もしパンデミックを演出するなら

とはいえ、もし医学的に大きな問題にならないウイルスであったとしても、確かに中国やイタリア、イランなどの状況は深刻なように見える。他国と比べて死者も急増しているのも事実だからだ。しかしそれらの国々で流行しているのは、そもそも他国で流行しているものと本当に同じウイルスなのだろうか。より強力なタイプのように思える上、政府高官から感染したイランのように、感染の経路や拡散時の状況には奇妙なものがある。苦境に面している国々の顔ぶれを見ると、世界の政治的なパワーバランスが関係していると勘ぐりたくもなるラインナップに見えてこないだろうか。

新型コロナウイルスが人工的につくられたという報道も一時見られたが、もし仮に、ウイルスそのものよりも今回の一連の騒動が“偶然”発生したのではなく、“演出された出来事”であるというように考えてみれば何が見えて来るだろうか。つまり「人々のまなざしをデザインする立場」から、今回の一連のパンデミック騒動について思考してみるのである。起こっている出来事を「起点」から考えるのではなく、「終点」から考えてみると、これから起こる出来事もある程度予測ができるようになる。だからこんな事態に不謹慎だと怒られる空気を無視して、もし自分が何らかの意図をもってこのパンデミックという現象を演出する立場だったら一体どういう手順を踏むのかを思考実験してみる。

当然だがまずはじめにウイルスの情報が必要だ。ウイルスはインフルエンザのようなありふれたものよりも、コロナのように過去にパンデミックを起こした実績のあるものの方が情報としてフォーカスしやすい。エボラ出血熱のような強力なウイルスにフォーカスするのも良いかもしれないが、地域性も強いため拡散する可能性としてリアリティは低い。そして実際には大勢死なれると都合も悪いので、感染力は強いが致死率は低いものが良い。その方がもし感染すると死ぬかもしれないという恐怖だけを伝播できる。

特に今回の「新型」のようにこれまでに無かった強力な感染力を持ったものは好都合だ。実際にターゲットとなるウイルスに加えて、その他のウイルスや実験室でつくられた強毒性の強いものがいくつか混ざっても、同じウイルスの仲間として見分けがつかないかもしれない。

次に発生源の情報はどこが良いだろうか。自然に起こってもおかしくないような場所を選びたい。中国の武漢のような都市は好都合だ。そこそこ規模も大きく、またハクビシンやセンザンコウのような動物を食べる独特な食文化もあるので、ウイルスが自然に人に感染してもおかしくはない。中国はFacebookのようなSNSは規制されているし、当局が情報統制するため諸外国に真実が伝わりにくいので、それも好都合だ。

ではその情報を流行させる時期はいつが良いだろうか。リーマンショックが起こった2008年と比べると、今はスマホとSNSが深く人々の生活に浸透し、世界中に情報拡散できる条件は整っている。そしてこの10年ほどの間に世界中を覆い尽くした観光産業による大規模な人の移動は、感染する危険性に対する不安をいとも簡単に広げる。しかも今や経済はすっかりと観光に依存しているため、感染のパニックは移動を制限し経済崩壊へとつながるだろう。さらにいうと、ここ最近は映画やドラマや物語の形を借りて、こうしたパンデミックが起こった場合に人々がどう反応するのかは、大勢の頭の中にあらかじめイメージとして埋め込まれている。だから一度情報が広まると、恐怖と不安は勝手に伝染していく。

特に昨年は米中貿易戦争やEUの弱体化に見られるようにポピュリズムと自国ファーストの風潮が最大限高まり、人々の連帯は薄れている。不安が広がる準備が万端に整った時に、“偶然”に発生したウイルスの情報にフォーカスする。大手メディアはショッキングなニュースには飛びつきがちなので、連日取り上げれば人々は確実に注目し始める。そのタイミングで、強力なウイルスがピンポイントで要人や有名人などに感染するとさらに混乱が広がるだろう。そうなると都市封鎖などを招いて経済活動も低下させられるかもしれない。危険性について警告を唱える学者や専門家のメディア露出を増やせば、ただごとではないというトーンで情報が流れる。それが何度も繰り返されるほど人々はさらに不安に陥る。こうやって情報を適切なタイミングでタイムラインに乗せていけば劇的なパンデミックが次第に現実感を増していく。

単純な思考実験だが、もし自分がこのパンデミックを演出する立場であれば、こうしたプロセスを踏むだろう。こうしたことを述べると、おそらくフェイクニュースや陰謀論と言われて一蹴されることは分かっている。確かに、このような騒ぎを企む“悪い奴”が向こう側にいるという短絡的な対立構造は人を不信にし、かえって混乱を招く危険性があることも承知している。実際として、こういう意図をもってパンデミックを演出する「誰か」が存在するのかどうかは分からないし、それは特定の誰かと指せるようなものではないのかもしれない。もし仮に誰かいたとしても表には見えるようなものではないだろう。映画に没頭していると、その映画を作った人に意識が向きにくいように、騒動の渦中にいるとその騒動を仕組んだ誰かにまなざしは向きにくい。

一方で我々が考えているほど、世界を動かす力学は単純ではない。この情報化社会の中では、何を“ファクト”として、何を“フェイク”とするのかの境界は曖昧である。私たちが真実や嘘としていることの多くは目にしたものではなく、何かの媒体で得た“情報”であることがほとんどだからだ。特に今回は目に見えないウイルスが相手である上、遠く離れた世界の実態は何らかのメディアから発信された「情報」に頼るしかない。

だが、どのような情報をどのように報道するのかは“誰か”が決めているのである。だから流れて来る情報をそのまま事実として受け止めても良いのかどうかは考えねばならない。私たちの受け止め方や見方が、このパンデミックという現象をつくるのに加担していないとは言い切れない。騒動とは一人の人間が作るものではないからだ。

事実とは見方によって大きく変わる。トンキン湾事件のように真実とフェイクは時として正反対になることがあるのは歴史の中ではよくあることだ。不安が広がっている時には、人はネガティブになるだけでなく簡単に騙されるものだ。しかし人は自ら一度信じ込んでしまったものを、改めて“嘘”や“誤解”であったと見なすのには勇気と証拠を必要とする。急速に伝染した恐怖と不安に疲れた今だからこそ、そもそもの前提を冷静に見つめ直し、自らの認識に修正をかける必要はないのだろうか。

パンデミック後の世界

もしこの思考実験をさらに進めるのならば、次に何が起こるかが見えて来る。このような世界レベルのパンデミック現象を演出しようとするのであれば、それ相応の見返りが裏側にないと動機にはなり得ない。だから、もしそれを企んだ者がいるとすれば、問題を起こして人々をパニックへと導いて、それで終わりということはないはずだ。その後で、必ずやって来てこう言うだろう。「この危機的な事態を乗り越えて元の世界に戻るにはこの方法しかない」と。そしてきっと素晴らしく見えるソリューションを提示するはずだ。

恐怖に怯え、不安に駆られた人々には、もう判断力が弱っている。藁をもすがる気持ちで差し伸べられた手を取るだろう。だがその安心感の見返りとして一体何を要求されるのだろうか。それは便利さや救済を表面上は装ってはいるが、相当高価な代償にちがいない。もしその救済者が積極的に騒ぎを企てたものであったのならば、私たちの生活や状況が今よりも良くなる方向であるはずはない。これまで以上に私たちから利益を得るために、不安に陥れした上で助けるフリをするのだから。

問題を起こして人々の心を揺らがせ、そこに颯爽と救いの手を差し伸べる手法。それは詐欺師の手口から果ては悪魔の取引まで、人のまなざしをデザインしようとする者が使う常套手段の一つである。ただ、今回の世界的なパンデミックのような規模で展開されると、それがたとえ仕組まれたものであっても信じがたい。「大きすぎる嘘はバレない」のである。だが、もし仮にそうであったとしても、私たちがこの問題に対してパニックを起こさず冷静に対処するならば、その先の手口は意味をなさなくなる。

少々悪ノリして荒唐無稽な物語にまで想像力を膨らませたが、本意としては陰謀論を語ることにあるわけではない。悪事を企てる者がいてもいなくても、問題をさらに悪化させるのは私たちの恐れや感情的な反応、そしてパニックである。目に見えないウイルスは人々がパニックに陥るには最大の感染力を持っているが、ウイルスは単にそのパニックの対象物の一つに過ぎない。その対象は気候かもしれないし、大量破壊兵器かもしれない。今度は隕石かもしれないし、宇宙人かもしれない。絶えず問題は起こるのだが、起こる対象物は何であれ、それに対する私たちの反応次第でその次の結果が決まるのだ。だからこそ私たちはこの状況に対して、空気に飲まれず、感情的に反応せず、冷静に真実を見つめながら、適切な対処をしていく勇気を持つ必要がある。

新型コロナウイルスが医学的にどういう危険度を持っていようと、社会的にはパンデミックという現象は既に起きてしまった。この後に私たち自身がどういう選択をするのかが重要である。この混乱を利用しようとする狡猾な者の甘い言葉に乗ると、矛盾に満ちた私たちのこれまでの社会システムを、さらに加速させるソリューションを選択することになるだろう。それは、これまで以上の便利さや快適さを常に求め、私たちの欲を回転させ、同時に不安と不満足を膨らませながら、富の格差の拡大に加担し、加速する消費と生産のサイクルに、時間もエネルギーも搾取され消耗し、身心の健康にも他の生命にも地球にも負荷をかけるような世界である。

しかし一方で、今回の騒動をきっかけに私たちは新しい道へ踏み出すこともできる。それは自分の愚かさを常に戒め、既にあるモノや少ないモノでも満足して最大限の喜びを感じ、五感の刺激を追い求めず、できるだけ心穏やかに暮らし、他の生命を平等に慈しみ、ウイルスも含めた全ての生命と共存する覚悟を持ち、困難な状況があっても感情的に反応するのではなく、智恵を分け合い、人々と協力する世界である。その一歩として、これまでの自分のあり方を見つめ直すという、自らへの“まなざしのデザイン”が今こそ必要ではないだろうか。

※関連文献 「まなざしのデザイン」「ヒューマンスケールを超えて」
「まなざしのデザイン」では物事の見方に対する具体的な手法が掲載されており、「ヒューマンスケールを超えて」では宗教学者の鎌田東二氏と自分自身の見つめ直し(メタノイア)について対談している。

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ハナムラチカヒロ

1976年生まれ。博士(緑地環境計画)。大阪府立大学経済学研究科准教授。ランドスケープデザインをベースに、風景へのまなざしを変える「トランスケープ / TranScape」という独自の理論や領域横断的な研究に基づいた表現活動を行う。大規模病院の入院患者に向けた霧とシャボン玉のインスタレーション、バングラデシュの貧困コミュニティのための彫刻堤防などの制作、モエレ沼公園での花火のプロデュースなど、領域横断的な表現を行うだけでなく、時々自身も俳優として映画や舞台に立つ。「霧はれて光きたる春」で第1回日本空間デザイン大賞・日本経済新聞社賞受賞。著書『まなざしのデザイン:〈世界の見方〉を変える方法』(2017年、NTT出版)で平成30年度日本造園学会賞受賞。