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スーパー書評「漱石で、できている」5夏目漱石『こころ』ではなく『行人』 漱石における「性」の問題

スーパー書評「漱石で、できている」5
夏目漱石『こころ』ではなく『行人』 漱石における「性」の問題

2020.06.05

Updated by Youichirou Murakami on June 5, 2020, 11:02 am JST

漱石というと、国語の教科書などに取り上げられるのは、ほとんどの場合『こころ』のようです。実は、私にとって、漱石の小説のなかで、生涯繰り返し読むことに消極的な唯一のものが『こころ』なのです。子供の頃は、世評も高いし、読み始めたら、親友を裏切る「先生」への共感とも反感ともつかないアンビヴァレントな思いに浸ったことも度々で、他の作品ともども何回か繰り返し読んだものです。だから、広く支持を獲得した作品であることは理解できますし、漱石自身この小説には愛着を持っていたともいわれてきました。その理由も判らないわけでもありません。

スーパー書評「漱石で、できている」5夏目漱石『こころ』ではなく『行人』 漱石における「性」の問題

構成上、前半と後半(中間部もありますが)が、大胆に異質の性格を持たされ、時間の逆転も無理がなく、小説技巧の上でも、そうした工夫が目覚ましい効果を上げている、とも考えられます。また先生の自殺が、単に個人的な人生上の問題ではなく、乃木希典の自死に象徴される明治の精神への殉死という意味を持たされている点も、小説のスケールを大きくしているのでしょう。今でも本は売れ続けていて、販売実績では恐らく、あらゆる「本」の中でも文字通りベスト・セラーであるとのことです。

しかし私は、むしろその構成そのものも、あまり賛成できないと思っています。第一部と第三部が異なった第一人称になる、ということからくる幾つかの難点は、大きなものではないかもしれませんが、それでも無視できないように思われますし、先生と奥さんとの関係は、明らかにきれいごとに過ぎます。奥さんが、<K>とのことについて、ほとんど何も知らない様子に描かれているのも、如何に夫である先生から暖かく庇護されているにしても、奥さんの「人間性」を疑われても仕方がないとさえ、私には感じられます。

あれだけのことが過去にあって、奥さんの胸の中には、普通の女性ならとても先生と安穏に暮らすことができないほどの、もっともっと深い闇か、少なくとも動揺がなければならないはずです。<K>とのことを、どこか他人事のように語り手に語る「奥さん」なるものは、私にとっては、とても現実離れして見えるのです。

そもそも漱石は、語り手にしても、先生にしても、事細かに過ぎるほどの心理描写を施すのに比して、「奥さん」(静という名が与えられていますが)に関しては、ほとんど触れないままに放置するのも、不自然との感じを与えます。静という女性は一体「誰」だったのか、読者は霧の中に置かれたままです。

『こころ』への思いはここまでにしましょう。私にとって、『虞美人草』や『三四郎』に匹敵するインパクトがあったのは『行人』であり、『それから』であり『門』でした。ここでは『行人』を取り上げます。

漱石のいわば永遠の宿題と言われる「弟・嫂」問題を引き延ばした小説に過ぎない、という批判は一面の真理を衝いているかもしれません。実際、和歌山行きの件、兄が自分の妻の節操を弟に試させる、という極めて非常識な場面が、いわばこの小説の最大のハイライトと解すれば、まさしくこの小説は、それに尽きるということになってしまいます。

未読の方のために、ごく簡単な粗筋から始めましょう。登場人物は、大学に務めているらしい家長の長野一郎、隠居の父親は旧武士で謡曲などを嗜む常識人、母親、一郎の細君の直子、弟の二郎(この小説の語り手)、妹の重子、二郎の友人三沢、一家と繋がりのある岡田、その妻兼子、一家の召使い貞子、その見合いの相手の佐野、そして一郎の友人で理解者Hさん。

冒頭に、三沢という人物が旅先で血を吐いてある病院に入院、友人の二郎が見舞う、という本来はエピソードでしかない話が、相当の分量を費やして語られます。三沢が担ぎ込まれる前、宴会で酒を無理強いした芸妓(文中は常に「あの女」と呼ばれます)も、同じ病(漱石自身の宿痾であった胃潰瘍)で入院していること、三沢の心の方向がその女に惹かれているらしいこと、何度か訪れるうちに親しくなる看護婦にも、美しい人とそうでない人とがいる、そうした状況のなかでも、三沢と二郎の間には、何も実現しない実質的に空疎な空間(「中心を欠いた」と表現されている)の中で、微細な嫉妬や見栄が顔を見せる有様(漱石のより直接的な言葉を引けば「性の争い」)が、例の漱石らしい筆致で描かれるのです。

一転、隠居した父母、長兄の一郎夫妻、重子という妹に、お貞さんという召使いで構成される家庭のなかで、二郎が暮している日常へ、筆は赴きます。父親は、刀を腰にさしていた時代を経験に持ち、精神的潔癖症の一郎から見れば「俗物」に見えるものの、それなりの常識人として性格付けられています。

一方で一郎は、そうした常識の基準から見れば、ほとんど精神を病んでいると思えるほど、感性的、理性的双方に潔癖で、周囲の人間は、時に眉を顰め、時に腫物に触るように振る舞わざるを得ません。一郎のそうした鬱屈した情念は、とりわけ最も愛おしんでいるはずの細君に向かいます。結婚する前、どういう経緯か、またどの程度の仲だったのか、作者は具には語りませんが、二郎と知り合いであったという点が、一郎を悩ませるのです。その関係は、冒頭に登場した三沢が、後に二郎に「君がお直さん抔の傍に長く喰付いているから」というような言葉をかけることで暗示されます。そういう発言があることは、三沢も直子を昔から知っていたようにも受け取れますが。

後で、そうした一郎を、暖かくゆったりした人柄で包んで、信頼し合える人間として、三沢の保証人でもあるHさんという友人が登場しますが、全体として一郎が心を許している、あるいは許すことができる相手は、家族の中には誰一人居らず、Hさんただ一人、という一郎の孤独が浮き彫りになります。

かつて、長野家の食客の身分だった岡田は、兼子という伴侶を得て大阪にいます。岡田の世話で、長野家の召使いをしていた貞子が、佐野という見合い相手と結ばれることになります。一郎は、嫁いでいく直前の貞子を自室に呼んで、三十分ほども話をします。一郎は、貞子の素朴で飾らない、ただそれだけの人柄を、男女という意味を越えて愛していたようで、このとき貞子が何をいわれたかは本人を除いて誰も判りませんが、部屋を出てきた貞子の目には涙が宿った痕跡があり、それも含めてこの寸劇を故意に冷然と、かつ強く意図した活発さで直子があしらっている様を、作者はかなり執拗な筆致で描きます。

本編の語り手である二郎は、高等教育を受けた上で、設計事務所に勤務するごくありふれた勤め人として描かれています。嫂に対しては、邪な思いを持っているわけではありません。ただ、若い男として、同年輩の美しい女性に感じる、不可解さと裏表になった魅力に、時に動揺させられることは確かです。それが最も露骨に現れるのは、後に独り下宿した二郎の許を、直子が日暮れてから独りで訪れたときでした。無論、だからといって、社会の規矩を超える意志はさらさらなく、兄に対して後ろめたい気持ちは、少なくとも表面上は持ち合わせていません。

しかし、兄の自分(と細君)に対する暗い疑惑を感じるにつけて、後に触れる和歌山のエピソードによって、兄弟の間が完全に離反した後、家から出て独立することを決めます。兄にそのことを報告に行った二郎は、「一人で(出るの)かい?」と問われて、呆然とします。

その前に、問題の和歌山行きのエピソードが挟まります。貞子の結婚が大阪の岡田の口利きで纏まり、そのため、一家で関西に旅行していた中で、一郎に説き伏せられた二郎は、直子と二人で和歌山へ行くことになります。その際、二郎は一郎に「直の節操を試して貰いたい」といわれるのです。明らかにこれは、常軌を逸した依頼です。そのとき一郎は、お前はお父さんの気質を継いで正直な性格だから、信頼して頼むんだ、といういい方をします。ところが事後、一郎は、お父さんのような虚偽の人格を受け継ぐお前の報告など聴くものか、とまるで反対のことを二郎にいう場面もあります。無論、二郎は兄の依頼を断るのですが、次第に追い詰められて頷いてしまいます。

直子は、漱石の定番で「謎の女」です。生来「温かい女」とはいえないにしても、こちら側の手加減によっては、相当の愛嬌を搾り出すこともできる人、と二郎は考えていますが、一郎への接し方は、一郎の機嫌を取り結ぶことをすっかり諦めたように、二郎の目には見えもするのです。それが一郎には、どうしようもない冷淡さ、不親切に映ります。しかし、二郎にいわせれば、夫である一郎も同じような性格であり、それがこの夫婦の不幸の始まりでは、とも思っているのです。二郎は直子に、せめて自分に対するのと同じように、兄に対しても接して欲しい、と頼むのですが、二郎自身、この頼みの言葉の中に偽善が隠れていることを自認しています。妹の重子は、一郎への同情から、直子への敵意を隠しませんし、その反動で、何かというと二郎に「早く貴方の好きな嫂さんのような方をお貰いなすったら」などと憎まれ口を叩きます。

一郎の求めに応じた二郎と直子は、二人だけで和歌山に出かけ、家族の許にその日のうちに帰る予定が、台風のために帰れなくなり、やむなく宿屋に一泊することになります。この事件の処理を巡って、一郎と二郎は決定的な離反を迎え、二郎は家を出て独りで下宿をすることになるわけです。

先に触れたように、ある夕景、実家への帰り、直子が突然二郎の下宿を訪れます。そのときの直子は、日ごろ長野家で一郎と接している彼女とはすっかり違って、気安く、打ち解けて振る舞う(ように二郎には映る)のです。二郎にとって、このような直子は、男の心にくすぐりと動揺を埋め込む「謎の女」として強烈な印象を与える存在です。その直子の言動が、意図したものか、意図せずか、そこは、漱石は書かないで放置しますが。二郎は、一郎の苦しみの極小さな一端を共有したかのように感じます。

最後の部分は、一郎の精神状態に対する家族の不安が募り、二郎がHさんに一郎を旅に連れ出してくれるように懇願することから始まります。Hさんの旅先からの状況報告が、この複雑な物語の終結になります。その中には、一郎が過去に直子に手を上げたこともあった、という件があります。その時の一郎は、殴れば殴るほど自分の品性が下落する思いに駆られたことを告白します。あたかも、妻がそれを望んでいるかのようでさえあると。

穏やかで包容力に富んだHさんとの旅のなかで、一郎の神経は少しずつ沈静化するらしいところで物語は終わります。その前に、二郎にとってはひどく気になる一言が残されます。Hさんとの会話のなかで、一郎は家族についていろいろと触れることはあっても、二郎の名は全く出て来ない、という点です。

さて、ここで扱われているのは、広い意味では「性」の問題だといえましょう。エロティシズムの匂いもしないにも拘わらず、まさしく性が主題になっています。最も直接的には、色情狂などという言葉が使われる場面もありますが、旅行先の宿屋で、二郎は母と、隣室には一郎夫婦が寝ている場面で、二郎も母も、隣室の「静かさ」に、神経を尖らせている描写、翌晩にも全く同じ種類の描写がしつこく繰り返されます。現代文学ほどの露骨さは全くないのですが、むしろそうであるがゆえに、逆にそうした何気ない筆遣いの中に性が密かに隠される、という事態は、気付いていて良いことのように思われます。

あるいは一郎は、ある日、結婚を間近に控えた貞子に、「結婚は顔を赤くする程嬉しいものでもなければ、恥ずかしいものでもないよ、それどころか結婚して一人の人間が二人になると、一人でいた時よりも人間が堕落する場合が多い」と説教します。貞子は途方に暮れるのですが、この一郎の言葉の裏には、性的な経験をすることが女性を変えてしまう、という彼の思いが込められていると思われます。未経験な若い女性にとって結婚が「恥ずかしい」ということ自体が、性の問題を意識せざるを得ないことを意味しています。

中学生から性的経験をすることがそれほど珍しくない放縦さに溢れている現代とは、およそ無縁な社会が、当時は成り立っていたことを忘れるわけにはいきません。その晩、食事の際、給仕に出た貞子が、そっと席を外してしまうのを、一郎は、二郎が何かとからかうからだといった上で、「お貞さんは生れつきからして直とは丸で違っているんだから、、、」といいます。この時直子は、二郎に微妙な目配せを送った上で、芳江(一郎夫婦の間のただ一人の子供)をわざわざ呼んで、席を立っていきます。この一郎の発言は、直子と結婚した際に、彼女がすでに性的経験を持っていたという疑いを一郎が持っていた可能性を暗示させます。

そのことは、「景清」風のエピソードが語られる場面でも現れます。一郎が「男は情欲を満足させるまでは」相手への想いを募らせるが、事が成就した後は想いが低下するのに比して、女の方は関係が付くと夫からその男を益々慕ふ様になる」と発言したときの、直子と一郎の心理的やり取りの描写は、読者の心にも暗い影を落とすほどリアルです。

直子に対する一郎のその妄念は、結婚後の彼女の性的な貞潔への疑いともなって、自分の心に執りついて離れなくなっているのでしょうし、むしろ一郎の性に関する偏った思いがその源にあるようでもあります。だからこそ、実の弟に直子と二人だけの旅を強要するという愚挙へと走ることにもなる。無論、とんでもないこと、と拒む二郎に、そんな下等な行為を直子に仕掛けてくれなどと頼んでいるのではない、と一郎は言い訳をしますが、ここで試されているのは、むしろ、一郎自身の性への妄念であり、翻って考えれば、二郎の性的潔癖さであるかのようにさえ思われる言動です。

今回この原稿を書くに当たって、何十回目かに原文を読んで、自分が永年誤読をしていた一文があったことに気付きました。終わりの方での、Hさんの手紙の中です。そこで一郎は、繰り返し貞子の名前を出します。そして、彼女が幸せな人間であることを強調します。Hさんは、それほどいうなら、「お貞さんと結婚していたらどうだったのだろう」と疑問をぶつけます。すると、相変わらず一郎は「君は結婚前の女と、結婚後の女と同じ女だと思っているのか」と例の自論で切り返します。その後に、自分と結婚したがために直子を「どのくらい悪くしたか分らない」と本音を吐きます。この一連のやり取りの前、一郎の言葉をHさんが引用しているところがあります。

「僕はお貞さんが幸福に生まれた人だと云った。けれども僕がお貞さんのために幸福になれるとは云やしない」。

この後半部分の「ために」というフレーズを全く逆に理解していたことに初めて気付いたのです。恥ずかしいことです。私は、一郎が「お貞さんが幸福であるためになる存在」ではない、という意味で解釈していたのです。ここは明らかに「一郎が、お貞さんのお蔭で幸福になれる」のではない、という意味でした。語用法からいっても、そうでしかない。あくまで、ここは一郎の自我の立場の発言なのに、私は一郎に期待する道義心の側に軸を置いて読んでいたことが判明しました。六十年以上に亘る誤読でした。

スーパー書評「漱石で、できている」5夏目漱石『こころ』ではなく『行人』 漱石における「性」の問題

少し脇道に逸れましたが、ここでも一郎は、結婚することが絶対的に女性をスポイルする、という抜き難い信念に執りつかれているわけです。無論そればかりではないにせよ、スポイルされる原因の中に、性的経験が含まれていることは明らかでしょう。「どんな人の所に行こうと、嫁に行けば女は夫のために邪になるのだ」。これも一郎の言葉です。

もっとも、『行人』をそういう面だけで規定してしまうのは間違いでしょう。特に後半には、識者が一般に指摘するように、ニーチェに基づいた人間の「孤独」が主題になっていることも確かでしょう。人間と人間とを結ぶ絆を表現した独文のフレーズ(文中にはニーチェに類似のフレーズがあるといわれますが)<Keine Bruecke fuhrt von Mensch zu Mensch>も引用されています。直訳すれば、「人間と人間とを結ぶ橋はどこにもない」ということになるでしょうか。しかし、性はそうした「橋」のかけがえのない候補でもあるはずなのです。

少し性に重心を置き過ぎた書評になったかもしれません。まあ評子が、性的にすっかり枯れてしまった年齢の人間であるということで、ご勘弁を願えれば、と思います。

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村上 陽一郎(むらかみ・よういちろう)

上智大学理工学部、東京大学教養学部、同学先端科学技術研究センター、国際基督教大学(ICU)、東京理科大学、ウィーン工科大学などを経て、東洋英和女学院大学学長で現役を退く。東大、ICU名誉教授。専攻は科学史・科学哲学・科学社会学。幼少より能楽の訓練を受ける一方、チェロのアマチュア演奏家として活動を続ける。