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エリートと教養7 現代日本語考 承前

エリートと教養7 現代日本語考 2

2020.08.03

Updated by Yoichiro Murakami on August 3, 2020, 16:14 pm JST

前回、標準語での発音の平板化が顕著である、という説があることを紹介しました。「あかとんぼ」や「でんしゃ」では、かつては冒頭のシラブルにアクセントが置かれていたのが、今は、どこにもアクセントが置かれない、平たい発音がむしろ普通になった、という論点でした。そういわれてみると、とても不快な発音群があることに気が付きます。

エリートと教養7 現代日本語考 承前

「ライン」、「リスナー」などの外来語、今は英語の<line>や<listener>と同じように発音する(第一シラブルにアクセントを置く)場合と、第二シラブルにむしろアクセントがあって、全体に平板に発音する場合とが、二分されていて、意味も違ってきているのが現状のようです。アナウンサーでさえ、「ライン」を平板に発音して、SNSにおける特殊なサーヴィスを表現しているようです。

つまり、SNSサーヴィスの一つは「ライン」であり、「そのラインで考えると」などというときは「ラ」にアクセントを置く、という使い分けが出来上がっているようです。まるで商標登録のような形になってしまって(当事者にそのような意図はなかったでしょうが)は、どうこうしようもありませんが、何故、英語本来の発音とは異なる不思議な発音が生まれたのか、それは未だに不可解、というよりは不快です。私は、個人的には、ライン・サーヴィスには全く縁がないので、まあ、厭わしい平板な「ライン」という言葉を発する機会もなくて済んでいることを嬉しく思っています。

でもラジオで、タレントとか、DJといったような人が「リスナー」と平板に発音するのを聞くと、私の耳は即座に「塞いでくれ」と叫びます。ほんとうに聞き苦しい。そう発音するべき何の理由もありません。何故英語本来の発音をしないで置こうとするのでしょうか。

「ドラマ」、「ギター」などにも、似たような現象が見られます。もっともこれらは、外来語本来の発音が第二シラブルにあります。しかし、明らかに原音の佇まいを残した発音ではなく、どこか独特の臭みのある「ドラマ」であり、「ギター」です。もっとも、正確に言えば、「ドラマ」の場合は、原語は二つのシラブルで成り立っていて、日本語のように、「ド・ラ・マ」と三つのシラブルに分かれてはいませんので、<dra+ma>という発音になり、第一シラブルにアクセントが置かれます。

脱線しますが、このようにヨーロッパ語系の言語(ばかりでは、実はありませんが)でしばしば起こる、複数の子音が積み重なって、それに母音が送られて初めてシラブルが生まれるような音韻形は、日本語には基本的にないといえます。ですから、原音通りの発音をすることが、日本語で育った日本人には、原理的に難しいといえます。例えばドイツでは、ポピュラーな姓の一つである<Schmidt>あるいは<Schmitt>ですが、日本語でカナ書きすると「シュ・ミッ・ト」と三シラブルになりますが、本来の発音は一シラブルに過ぎません。一息で言い切らなければならないわけです。英語の同じ姓<Smith>も原音は一シラブル、それが日本語では「ス・ミ・ス」と三シラブルになります。

日本語では、五十音表が示すように、「ア・イ・ウ・エ・オ」の五つの母音に、<k・ s・ t・ n・h・m・y・r・w>を前置することで音韻体系が成り立っています。

勿論それは建前で、西日本ではこの音韻体系が厳密に守られるのに反して、特に江戸・東京の方言では、後置された母音が省略される傾向が見られるのは注目すべきことかもしれません。例えば「いただきます」など「す」で終わる文尾では、関西では<su>とはっきり母音を強調するのに反して、東京では<~まs>という発音になりがちです。「百」の発音も、関西では「ひゃく」となりますが、東京では<ひゃk>に近くなります。例えば日本人の英語の発音では、西の言語系の人ほど、子音だけの(シラブルにならない)発音が苦手のようです。子音が伴っている母音を自覚的にはっきり発音する傾向が強いからです。

この問題でいつも面白いと思うのは、英語のポピュラーな単語<beautiful>の発音です。東京で育った人は「ビューティフル」と発音した際、「ティ」の部分がほとんどシラブルにならない形で発音しがちです。他方、西の方で育った方は、「ティ」をはっきりシラブル化して発音する傾向が強い。実は、この語の発音は、明らかに西の方の発音傾向が利することになります。何故ならこの語は、明確に三シラブルで出来ていて、<ti>は立派に一つのシラブルだからです。

さらにいえば、古い日本語では五十音より遥かに豊富な音韻があり、例えば子音でも<f>と<h>の区別があったり、<k>と<kw>とが区別されたりしていました。今でもこうした区別が残っている地域が、西日本、特に九州や四国には見られます。最近は少なくなったかもしれませんが、実際私の前半生には「火事」を「くゎじ」、「化学」を「くゎがく」と発音される方に出会うことが良くありました。母音にも色々な異型がありましたし、今でも地域によっては、その異型が維持されているところもあります。

もう一つ、時々噴き出したくなることがあります。「それは、私(わたくし)的にいえば」などという表現です。お聞きになったことはありませんか。「自分の立場からいえば」、「私にいわせれば」といったような意味の発言だと推測はしますが、「~的」という言葉の濫用がここまで来ると、ほとんど呆然とします。まあ「的」の濫用はいまに始まったことではなく、すでに大正時代にも問題になったことがあるはずですし、自分自身でも論文などを書くときに、自分を戒めることもないではないのですが、余りといえば余りです。

ところで、最近気にかかることを前回も幾つか書きましたが、今回も少し書いてみましょう。何かに感動したり、心を動かされたときに出てくる言葉、「高い!」、「凄い!」、「うまい!」など言葉を中途半端に止める、つまり「高っ」、「凄っ」、「うまっ」という表現が大流行りなのは何故でしょうか。その方が気持ちの高揚が伝わる、ということなのでしょうか。私には、どうも流行、それもTVに出てくる一部のタレント(?)さんたちの口真似をしているだけのように聞こえてしまうのですが。

もう一つ、そうした間投詞として圧倒的な使用頻度を誇るのが、前述の「凄い」と「やばい」です。この「やばい」は、主として犯罪者や反社会的勢力の間で使われてきた言葉で、真っ当な人間が使うべき言葉ではない、まことに「やばい」言葉とされてきたものです。それが、女子高生までが平気で使う、しかも、肯定的な判断のときにさえ使うのは、本当に聴き辛いものです。

こうした状況を見ていると、どうも言葉を使う、ということが、言語中枢へ送り込まれた感覚刺激を中枢で読み取った上で、それへの判断の結果としての反応を改めて言語化して言葉が発せられるのではなく、刺激をそのまま言語化しているような、短絡的な状況が言語活動のかなりな部分を占めているのではないか、と疑いたくなります。そういう感覚刺激と直結した言語活動があることは否定しませんが、僅かでも、自分のなかで言葉を探す、この事態に適切に表現できる言葉は何か、という反省的な営みが全く欠如しているのを見ることは、人間としてはとても悲しいことです。

今の自分の感覚をどう言葉で表現するか、そうした反省なしに、皆が使っている常套句を反射的に使うことで仲間入りをする、だからこそ、美味しいものを口に含んでも、気持ちの良い音楽を聴いても、あるいは財布を忘れてレジに立ったときも、口から発せられる言葉は一様に「やばい」になってしまう。そんな風に考えたくなります。

ある方が書いておられましたが、「気の置けない仲間と」談笑されたのか、酒を飲まれたのか、その辺は判りませんが、その種の文章を書いたところ、一読者から「その表現は誤用です」というクレームが来たというのです。「やばい」が「やばくない」場面にも今は平気で使われる、と先に書きましたが、表現の意味が完全に逆転してしまうことが、ここでは起こっています。そのクレーマーは、「気の置けない」を「気の許せない」の同類語である、とでも勝手に決め込んで投書されたのでしょう。いくら言葉は流動的だ、とはいっても、これでは辞書があることさえ意味を失いそうです。これもむしろ、「気の置けない」と「気の許せない」を感覚的に同類と捉えてしまった、反射型の反応に由来する現象の一つかもしれません。

エリートと教養7 現代日本語考 承前

念のためですが、「置く」には、心隔て、遠慮、かすかな警戒・不信、気兼ね、気後れ、などをする意味があります。すでに『源氏物語』にも「心置く」というような表現として使われています。「心置く」、とても奥床しい言葉遣いではありませんか。そもそも、「心置きなく」などは、今でも常套的に使われる表現ではないでしょうか。それが「置けない」と否定されているのですから、そうした遠慮など無用な、という意味になります。そもそも、そうしたクレーマーは、投書される前に、辞書を覗いて確かめるという僅かな努力さえ惜しんだのでしょうね。

ラ抜きに関しては、もはや、後戻りできないところまで来ているようです。NHKだけは、TVで発言者がラ抜きで話しているときでも、画面の下に出る文字情報では、律儀にラを入れた表現に直しているようですが。しかし、いくらそちらへ趨勢が流れても、例えば「出れる」という言葉の汚さ、書くだけで怖気を振るうような感じで、自分ではそれこそ絶対に使いませんが、自分の中でもやや曖昧な事例が出てきてしまって、書く時に一瞬躊躇う場面があることは、情けないことですが告白しておきます。

何だかこれを書いていると、自分が「言葉警察」になったかのように思えてきます。でも誰かが言わないと、いや、言ったところで、馬の耳に念仏かもしれませんが、多少とも言葉に気を遣う風潮を世の中に醸成できれば、という老婆心(あ、これも老爺心という言葉の方が適切でしょうが、生憎こればかりは辞書にもないので)の発露に過ぎないのでしょう。

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村上 陽一郎(むらかみ・よういちろう)

上智大学理工学部、東京大学教養学部、同学先端科学技術研究センター、国際基督教大学(ICU)、東京理科大学、ウィーン工科大学などを経て、東洋英和女学院大学学長で現役を退く。東大、ICU名誉教授。専攻は科学史・科学哲学・科学社会学。幼少より能楽の訓練を受ける一方、チェロのアマチュア演奏家として活動を続ける。