昔、ネスカフェ ゴールドブレンドの名CMに「違いのわかる男」というシリーズがありました。それぞれの分野で道を究めたような有名人をフィーチャーしたもので、人々の憧れを誘ったものでした。今回は、情けないことに「違いの判らない男」としての私の話です。
永年チェロを弾いているというと、よく受ける質問の一つに「チェリストでは誰がお好きですか」というものがあります。私の中にも、一応の回答の準備がないわけではありませんが、好き・嫌いについて言及するためには、そもそも一人ひとりの演奏家の違いを少なくともある程度は判らなければなりません。
それくらいは、私にもできるつもりです。まず、パブロ・カザルスの音は本当に独特で、カザルスのレコードがかかっていたら、私でも恐らく一音聴いただけで、それと判断するでしょう。今、日本でも最も人気のあるチェリストの一人、ミシャ・マイスキーの音も独特で、聴けば「ああミシャだ」と思います。
話は脱線するようですが、現ラトビア共和国のリーガ出身のミシャが初めて来日したのは、確か一九八〇年代半ばだったと思います。そのとき私は、NHKテレヴィジョンでインタヴュー番組をつくっています。真冬の八ヶ岳中腹のとあるホテル、外は雪が霏々として舞っており、室内では暖炉に燃える炎の暖かさが、画面に豊かなコントラストを生む中、とてもスリリングな時間でした。
初めての日本での演奏活動ということで、まだ日本の聴衆に馴染みがあったわけではありません。彼は、英語が達者だったので、インタヴューは英語で進められました。さし当たりは、彼の波乱に満ちた身の上話が主な話題だったのですが、中でうっかり私が「では、もう故郷には未練はないのですね」と質問したときだけは、柔和な彼の表情が引き締まり、毅然とした声で、ソ連は私の<home country>ではない、と言い切ったのが忘れられません。彼は、その頃すでにイスラエルの国籍を取得していたのだと思います。
ソ連政府に謂われもなく(いや、ソ連政府としては、ドル稼ぎも含めて「謂われ」は十分にあったのでしょうが)投獄されたことや、そこから釈放(というか国外追放)になるまでのいきさつも、オフレコの約束で詳しく話してくれましたが、ここではこれ以上は書きません。ソ連政府の非道に対する彼の感情を別にすれば、ユダヤ人の家系に生まれたミシャではあっても、やはり彼はロシアの演奏家だと、私には思われます。チェロの師であったばかりでなく、ソ連で苦境に喘ぐ彼を何くれとなく庇ってくれたのは、まさしくロシアの巨匠ロストロポーヴィチでしたし、そのロストロポーヴィチが、国外へ出たら何としてでも会って助言を貰え、と勧め、結局「最後の弟子」ともなったピアティゴルスキーも、元はといえばロシアのチェリストだったからです。
さらに脱線すれば、ミシャはとてもおしゃれで、演奏会でも燕尾服のような堅苦しいものは着ず、大抵はシルクの胸の広く空いた(そこから自慢の胸毛がよく見えます)ブラウスで演奏します。時にはその上にジャケットも着ます。楽屋には長い衣紋掛けが用意してあって、純白から漆黒まで同じデザインで色調の違うブラウスが何着も並んで掛かっています。ステージ毎にそれらから選んで着替えているのです。
すっかり話が外れてしまいました。ミシャの音も、直ぐに判ると思います。しかし、その上での音楽としての価値判断になると、「好き・嫌い」は多少あっても、私はおよそ区別を立てることができないのです。音だけについて正直にいえば、ある種の人々にとっては「神様」以上のカザルスの音よりは、ミシャの音の方が私は「好き」です。カザルスの音の「勁さ」が、時にやりきれなさを誘うことがあるからです。だからといって、カザルスが到達した「音楽」そのものは、前人未踏、「後人」も到達不能の域であることは、もとより否定すべくもありません。
ところで、話は変わるようですが、私の密かに敬愛する作家、原尞氏に『ミステリオーソ』(ハヤカワ文庫JA)というエッセイ集があります。原氏はジャズ・ピアニストとしての経歴が長く、いわば音楽の専門家でもあります。ところが、いわゆるクラシック音楽には唯一の例外を除いてほとんど関心がないと書かれています。その唯一の例外がモーツアルト。『ミステリオーソ』の一節によれば、あるときある曲(「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク」だったそうですが)を聴いて、二、三カ月ほどの間に二百枚以上、モーツアルトの曲ばかりレコードを集め、それを二年間集中的に聴いていたのだそうです。
それだけでも、驚くべきことだと思いますが、その後が凄い。厳選された僅かな例外を除いて、レコードの大半は手放すことにした、というのです。その選択基準が、私にとっては、ほとんど言葉を忘れるほどの驚異としか表現しようがないのです。例えばこういった感じです。
バリリ弦楽四重奏団による『弦楽四重奏全集』(ウェストミンスター盤)はモノラルで古い録音だったが、「ハイドン・セット」のある一つのフレーズが唯一正しい演奏なので残した。
ロベール・カサドジュのピアノとジョージ・セル指揮の『ピアノ協奏曲』八曲(CBS盤)は、ピアノの音の柔らかさとクリーヴランド管弦楽団の完璧さが絶妙なので残した。
ブルーノ・ワルターの『フリーメイソンのための葬送音楽』(CBS盤)はその静謐さと強靱さの対比で残した。
そして、手放した方については、こんな具合です。
ベームとベルリン・フィルの『交響曲全集』(グラモフォン盤)は残したかったが、一部のオーケストラの雑さが気になって手放した。
グレン・グールドの『ピアノ・ソナタ全集』は、天才の面白おかしい演奏ではあるが、奇矯さが鼻につくので手放した。
その間には「世評高いカラヤンの指揮は録音が良いだけ」の「拙速な」代物で「そもそも一枚も買ったことがない」というコメントも挿まれています。
少し引用が長くなりましたが、これを読まれて、驚嘆、感嘆されない方があったらお目にかかりたい。あ、このいい方が、そもそも、もしかしたら、(いや、きっと)間違っているのかも知れません。自然な記述ではないか、と思われる読者の方が多い、むしろそうなのかもしれないのです。
つまり、そこのところが、私が「違いの判らない男」である所以なのであります。何がいいたいかというと、私には、とても、本当にとても、原氏が書いておられるような判断ができないのです。これは、皮肉でもなければ、まして批判でもありません。真率な言明です。
確かに私は、昔のバリリ四重演団(特にチェロをブラベックが弾く時代)は大好きですし、カサドジュのピアノも大好き、ジョージ・セルの時代のクリーヴランド管弦楽団は本当に素晴らしいし、ワルターも好きです。長くなるので引用はしませんでしたが、その後に書かれているマリア・ピレシュは、ピアニストとして最も好むアーティストです。
ですから、原氏の判断には、百パーセント同意します。しかし、他を捨てるか、といえば、これは全く違います。弦楽四重奏団なら、昔のカペーもブダペストも、ジュリア-ドも、アマデウスも、現代のアルバンベルクも、ボロディンも、アウリンも、かつての巌本真理弦楽四重奏団も、東京クヮルテットも、クァルテット・エクセルシオだって、どれも時には聴きたいのです。それぞれに問題があったとしても、すべてが聴くに価するしバリリと甲乙付け難いと思うところがある、そう考えてしまうのです。カラヤンについては、ほとんど同意したくなりますが、それでも彼の指揮したもの、特にワーグナー作品などは、ああ、流石ベルリン・フィルだな、と聴くことも決して少なくありません。
昔、三年間にわたって『レコード芸術』という雑誌で、新譜紹介の一端を受け持っていたことがあります。何が困ったといって、否定的に評価する対象が全くない有様だったので、自分は批評家という役割は全く果たせない人間だ、と自らに引導を渡しました。
批評や評論について、忘れられないことがあります。カザルスが来日したとき、カタルーニャ出身の彼は、フランコ政権を承認している国では演奏会はしない、という原則を貫いて、日本でも自分の演奏会は開きませんでした。しかし、公開レッスンでは、自ら楽器をとって弾きましたし、愛弟子の平井丈一朗氏の演奏会では、オーケストラ伴奏の指揮もしました。
その演奏会のプログラムに妙なことが起こりました。ある部分に白紙が貼ってあったのです。私は帰宅して、その白紙を丁寧に剥がしてみました。そこには、呆然とする文章が載っていました。カザルスの年齢からくる衰えを考えれば、日本で演奏会を開かないのは、己を知る賢明な振る舞いだ、という意味のことが書き連ねられていたのです。亡くなった方だから、実名で書いても良いでしょう。筆者は、当時最も有力な音楽評論家の一人だった山根銀二でした。
戦後、戦争協力者として山田耕筰を徹底批判(というより排斥)したほどの「戦後民主派」の山根です。カザルスの反フランコ主義を知らなかったはずはありませんし、主義からいえば、むしろそのことを強調して取り上げても良いはずでもありました。私にとっては今でも、主催者によって隠されなければならなかった山根のこのカザルス論は、およそ理解の外です。
ここで書きたかったことは、評論家という立場に立つ、ということは、権威に対して積極的に否定的に批判することと同義なのだろうか、という点です。もっとも山根の戦略には、「反権威主義的権威主義」とでもでも表現すべき傾向がありました。武満徹には、その作品を「音楽以前」と批評された経験があるはずです。批評家が山根のようであるべきだ、とは私は全く思いませんが、しかし、批評という言葉の中に、どこかに「否定的」な要素が組み込まれている、というのは、現代社会では自然なことのようです。時に「否定的」であること、それは批評ということの本質を形作る、と考えられます。
ヨーロッパ語の「批評」に当たる言葉(クリティーク)は、これも現在では、「誤りを見つけること」あるいは「否定的な判断」という意味に傾いているとされますが、原語であるギリシャ語やラテン語では、「判断すること」あるいは「分別すること」の意味で、「否定的な」意味合いは含まれていませんでした。などと別のところから助け船を出そうとしても、私のその意味での「批評」能力の欠如は、特に音楽の分野では明らかなようです。
ところで、先に引用した原氏のコメントの中で特に心を抉るのは、バリリについての評言です。ハイドン・セット弦楽四重奏曲、第一四番のなかの「ある一つのフレーズが唯一正しい演奏」である、という判断は別の意味でも凄いからです。
ハイドン・セットというのは、モーツアルトがハイドンに、あるいはその弦楽四重奏曲に対して、深甚の敬意を表して書き上げて献呈の辞を書き込んだ六曲の弦楽四重奏曲を指します。一四番といえば、その第一曲(K.387)ですが、バリリが「唯一正しい」と書かれているからには、原氏は少なくとも複数の他のグループと比較されたに違いありません。それらが何であるかは、文面からは判りませんが、原氏が書いておられる時期に、バリリの他に原氏のレコード・リストにあり得たグループといえば、ジュリアード、ブダペスト、アマデウス、スメタナ、ラサール、ウィーン・コンツェルトハウス、ボロディンなどの弦楽四重奏団が考えられます。
それらのうちのどれだけが比較の対象になったかは詳らかではありませんが、それらを聴き比べた上で、しかも「正しい演奏」と言い切るためには、第一ヴァイオリンからチェロまでの四声部について、譜面を精査しておかねばならないでしょう。それだけの気の遠くなるような努力を重ねなければ、やはり「批評」などはできないのだ、ということにもなります。言葉を換えれば、原氏の上述の判断は、まさしく最も厳正な意味での「批評行為」である、といわねばなりません。『レコード芸術』時代の私の仕事ぶりと比較して、恥じ入るばかりです。
話を戻すと、私はそういうわけで、例えばコンクールの実況録音などを聴いてさえ、コンテンダーたちの演奏に感心してしまうのです。勿論、「ああ、この人はテクニックばかりをひけらかすことに重点を置いているなあ」あるいは「表現が若いなあ」などとは感じます。しかし、テクニックだけの人であっても、自分はとても及ばないことを自覚している身としては、そこまでテクニックを磨き上げるのに要したであろう努力に敬意を表したくなるし、音楽の表現に必要な最小限のテクニックを身につけるだけでも大変なことだ、とつい思ってしまいます。
しかし、間違えていただきたくないのは、これまで述べたことは、私が自分の「謙虚さ」を喧伝しているのではない、という点です。もし、そう受け取られてしまったら、私はこの文の全てを撤回します。要するに、世の中には「違いの判らない」人間もいるのだ、ということを理解していただければ、それで十分なのです。その締めくくりに、批評家失格で「違いの判らない男」の自己弁護ではなく、とお断りして次のエピソードを記しておきます。
若きピアティゴルスキーが初めてカザルスに会って、自分の演奏を聴いて貰った時のことです。ピアティゴルスキーは、すっかり緊張してしまって、自分ではまことに惨めな結果に終わってしまったことを恥じるばかりだったといいます。しかしカザルスは、聴き終わって、「とても良かった、素晴らしかったよ」と賞賛してくれたのです。そのときピアティゴルスキーは、その賛辞に喜ぶどころか、カザルスにある種の不信感を抱いたのだそうです。
何年か経って、お互いに立場も変わった頃、何度目かの対面で打ち解けた会話になったとき、ピアティゴルスキーは率直にその時のことをカザルスに話しました。あれほど酷い演奏に何故褒め言葉を下さったのですか、と。カザルスは、ちょっと容を革めて楽器を取り上げて弾きながら、「君はあのとき、このフレーズを、この指使い、このボーイングで弾いたでしょう。あれは私にとっては、とても新鮮で素晴らしかったんだよ。こちらのフレーズでも、同じようなことがあった。ねえ君、貶すことは批評家に任せておきなさい。若い人に向かうときは、良いところを見つけて褒めてあげるようにしなさいね」。
おすすめ記事と編集部のお知らせをお送りします。(毎週月曜日配信)
登録はこちら上智大学理工学部、東京大学教養学部、同学先端科学技術研究センター、国際基督教大学(ICU)、東京理科大学、ウィーン工科大学などを経て、東洋英和女学院大学学長で現役を退く。東大、ICU名誉教授。専攻は科学史・科学哲学・科学社会学。幼少より能楽の訓練を受ける一方、チェロのアマチュア演奏家として活動を続ける。