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村上陽一郎

続・学術会議問題 手続きの合理性と学問の自由は別次元にある

2020.10.13

Updated by Youichirou Murakami on October 13, 2020, 12:17 pm JST

拙論(学術会議問題は「学問の自由」が論点であるべきなのか?)に対して、ご賛同、ご批判を多くいただいたようです。私の論点は、現政権の今回の措置への援護と受け取られた方もあったようですが、趣旨はそうではありません。注意深く書いたつもりだったのですが、何分にも急いで書きましたので、誤解が生じた向きもあったので、多少の補足をしておきます。

学者の団体として歴史を辿れば、イギリスの王立協会、フランスのアカデミー・デ・シアンスなど、海外にも古くから類例が多々あります。最古の一つといわれるイギリスの場合、ロイヤル・チャーター(「勅許」とでも訳せばよいのでしょうか)によって成立しましたが、一応、独立の機関として発足しました。しかしフランスの場合は、王室からの支援を得て、現在では国立となっています。ロシア(ソ連邦の時代も)でも国立であることに変わりはありません。日本でも、日本学士院は完全に文部科学省管轄の国立機関です。自然科学にある程度限定すれば、英国科学振興協会(BAAS)やそのアメリカ版(AAAS)の方が、類似の団体と思われるかもしれません。

しかし、そもそも様々な分野の学者が、国家規模で集まろうという意図を持つものでしょうか。学者・研究者の間に、そのようなインセンティヴは一般に希薄なのです。政治的な権力や強力な支援組織がイニシアティヴを取る、あるいは、その機関に所属することが学者としての高い名誉の保証となる、さらには、団結して国民全体に学問の重要性を訴えなければならない差し迫った事情がある、といったことでもなければ、学者・研究者はそうした活動に身を捧げようとはしないのが普通です。

いろいろな事情でそうした機関が必要と考えた国家が介入する形で、機関を設定するのが、結果的に最も自然な形になります。ただし、専門学会は別です。専門を同じくする研究者が、科学者共同体を作るのはそれも自然なことで、そこで行われる研究活動の内容に、国家や政府が干渉すれば、それこそ「学問の自由」が問題になります。

戦後の一時期の日本学術会議は、ある政党のヘゲモニー下にあった、ということは前稿で書きました。そこでは、そのイデオロギーの影響下の外にあるような学者の中には、立候補しても組織票で落選させられたり、推薦されなかったというような事態もありました。今の輿論風にいえば、そこでも「学問の自由」はなかったことになります。

いや、そんなことをいえば、それこそ学問の殿堂であるはずの大学においてさえ、人事委員会の推薦候補が、教授会において特定の政党勢力の組織票で、「拒否」(現在の新聞用語です)された事例もありました。政治的思惑が学問の世界に介入するのは、決して稀なことではないのです。

ただ、形式的にいえば、現在の学術会議の場合は、首相がいみじくも述べたといわれるように、予算を出し運営の支援をしているのは「国家」である、という事実は曲げられないのです。そして、その運営する機関に、誰を招きいれるか否か、という話です。戦前の一時期の日本のように、特定の思想を持つ人々を投獄、処刑したり、かつてのソ連圏のように、政権のイデオロギーに反対する学者を、投獄し処刑した、などという話とは、まったく次元の違う話です。今日の小事は明日の大事だ、という方もおられるかもしれませんが、次元の違う事柄が、繋がるはずもありません。

個人的な「感想」をいえば、今回の推薦された候補者の中から政権が任命を見送る方々を選んだことに全面的に賛同しているわけではありません。私見をいえば、個々の方々のお仕事に関する私の無知もあるかもしれませんが、その決定を訝しく思う方が先に立ちます。何故この方が、との思いもあります。しかし、そのことと政権が推薦候補者の一部を見送ったことの合理性とは別の問題であり、「学問の自由」云々の問題に抵触することには全くならない、という点は確認しておきたいのです。

[10月22日 追記]
いろいろと、私の目に触れないところで、私論に対して激しい批判があるとのこと。不思議でなりません。

私の論点は、極めてシンプルです。今度の出来事で「誰か、実際にご自分の研究の自由を侵害された被害者がおられますか?」この一点です。

かつて、学術会議が政党的な力に支配されていたとき、そうでない傾向を持つ研究者は、意図的に排除される傾向にありました。私は、それを「研究の自由」の侵害とは見ていません。

最初の文章でも、そう書いたつもりです。「今の論調からすれば、『学問の自由』の侵害になるのでしょうが」という意味の書き方はしましたが。それは、そのことで、その人が研究遂行上何の害も被っていなかったからです。

「被害者」(あくまでも、研究遂行上の、です)はいない。だから、論理的には、抽象的な「学問の自由」論で攻めても、政府側は痛くも痒くもないのは当然です。

もちろん、問題を「学問の自由」論に読み替えることで、政府の失点を稼ごうという政治的意図であるならば、それは一つの政治上のマヌーヴァ―でしょう。そして、そのマヌーヴァ―は、新聞世論の人々の同調を得る意味では成功していますが。

本来、筋が通った戦いの攻め口は、今までは曖昧な形で慣行とされてきた「仕来り」を、今回は何故破ったのか、という一点でしかないはずなのです。そこは、追求してみて欲しいと思っています。


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村上 陽一郎(むらかみ・よういちろう)

上智大学理工学部、東京大学教養学部、同学先端科学技術研究センター、国際基督教大学(ICU)、東京理科大学、ウィーン工科大学などを経て、東洋英和女学院大学学長で現役を退く。東大、ICU名誉教授。専攻は科学史・科学哲学・科学社会学。幼少より能楽の訓練を受ける一方、チェロのアマチュア演奏家として活動を続ける。