子供の頃、最も親しんだ書物といえば、漱石全集を別にすれば、宮沢賢治の作品でした。単行本としては、羽田書店版、横井弘三装幀・挿繪の『風の又三郎』と『グスコーブドリの伝記』、ともに表題作だけではなく、多くの短編が編集されていました。前者には「貝の火」、「ありときのこ」、「セロ弾きのゴーシュ」、「やまなし」、「オツベルと象」が、後者には「雨ニモマケズ」のほか、「北守将軍と三人兄弟の医者」、「祭の晩」、「ざしき童子のはなし」、「よだかの星」、「注文の多い料理店」、「烏の北斗七星」、「雁の童子」が含まれていました。他には、松田基次郎編『宮澤賢治名作選』も書庫の中にありました。
ところで、賢治の作品を読んで誰もが気付く一つの特徴は、独特のオノマトペがふんだんに盛り込まれていることです。「北守将軍」では、ソンバーユ将軍が人馬もろともに、三人の医者の許を訪れるときの、「ぎっ ばっ ふう」、「月夜のでんしんばしら」では「ドッテテ ドッテテ ドッテテ ド」、「風の又三郎」では「どっどど どどうど どどうど どどう」などなど、枚挙にいとまがありません。
これを、どのような抑揚をつけて、どのような間を考えながら 声に出して読むか。例えば「風の又三郎」は、実に多くの方々によって音読されています。今はYouTubeでも、出会うことができるようですから、試しに聞き比べてみては如何でしょう。
賢治は、音楽にもことのほか関心が強かった人です。別項(クラシック音楽とエンターテインメント )でも書きましたが、幼い頃からレコードに親しみ、浅草オペラの熱烈なファンであり、チェロを弾き、作詞は勿論ですが、作曲にも手を染めています。有名な『花巻農学校精神歌』の作曲は、友人の川村悟郎という人物に依頼しましたが、二人で夜遅くまで曲の推敲を重ねたという話が残っています。恐らく曲造りにも賢治は相当意見を出したに違いありません。『剣舞の歌』は、実際作詞・作曲の双方を担っています。
そうした背景の中で、作品の中に生まれるオノマトペには、賢治の音楽的な感性が働いていることは、推測に難くありません。『風の又三郎』は、何度も映画化されてきました。幾つかの例では、あのオノマトペは、「歌」としてメロディが付されて処理されました。
しかし、正直なところ、子供の頃に私が活字から読んだオノマトペと、映画における「歌」や、色々な朗読で聴くそれとの間には、どれも微妙なずれがありました。別段、自分の読み、あるいは、それを音に出してみるやり方が、正しいなどとは夢にも思っていません。要するに、眼で活字を読み取って、それを音声化する方法は、千差万別であって、「正しい」それ、などというものはないのです。例えば、仮に賢治が自作を読んだものの録音があったとして、それが「正しい」のか、といえば、それも「一つ」だ、と答えても構わないのでは、と思うのです。
この点は、音楽における楽譜と演奏との関係に似通っています。楽譜がある。それを、どう実際の音にするか。現代では、先行者がいるのが普通です。レコードにせよ、ラジオやTVにせよ、どこかで聴いた経験が、助けになります。助けになると同時に、制限にもなります。ここは、このように音化すべきなのだな、という縛りが、むしろ自分の理性と感性を働かせて、演奏にまで持ち込む過程を妨げることにもなります。認識行為の場面でよく使われる「ステレオタイプ」という概念が、ここでも機能しているわけです。
もっとも、文字で書かれたオノマトペをどう発音するか、ということには、楽譜を音にする場合よりは、はるかに大きな自由度が与えられているとは思います。楽譜では音の高低、長短は、楽譜に現れる記号の取り決めによって、ある程度明確に定められていますが、文字の場合は、その二つの限定は存在しないからです。
これも、別項(現代日本語考 2)でも書きましたが、日本語の発音は、現在は五十音という限定のなかにあります。そして、大和言葉は、必ずしもその限定のなかに閉じ込められていたわけではなかったことも、少し触れました。
考えてみると、今は詩や文章の朗読ということが、比較的ポピュラーになっていますが、少し前までは、漢詩を朗々と謳い上げるという習慣はありましたが、大和言葉に関してはどうだったでしょうか。宮中で行われる「歌会始」では、その年(実際は前年ですが)に入選した和歌が、天皇家の方々のお歌とともに、独特の節回しで詠まれますが、あの節回しを「自然な」と受け取る人々は、そう多くはないと思います。
雅楽では、竜笛、篳篥(ひちりき)、笙などの伴奏入りで、漢詩を数人で歌う、という方法があります。材料は『和漢朗詠集』などから採られています。この歌謡集は、紫式部のパトロンであった藤原道長の娘が入内する際の引き出物だったそうで、標題通り、漢詩ばかりではなく、和歌も含まれています。
私が中学生から高校生の頃、父親の暗黙の教導があったのかもしれませんが、漢詩ないしは漢詩風の詩文を暗記、朗詠することに淫していました。例の『垓下の歌』(別名「抜山蓋世」)はお好みでした。書き下しにすると、こんな風になるのを今でも覚えています。
力山を抜き 気は世を蓋ふ
時利あらず 騅の逝かず
騅逝かざるを 奈何せん
虞や虞や 若を奈何せん
念のために書いておくと この主人公は項羽、「騅」(すい)は彼の愛馬の名前です。「虞」は無論項羽の愛妾。「若」はここでは「なんじ(汝)」と訓じます。さらに念のためですが、項羽というのは楚の名将、秦との闘いでは盟友であった劉邦が、漢の覇者となり、彼との闘いに天運尽き、最後の戦いとなった「垓下の戦」で、死を覚悟した彼が、虞美人に贈った詩が、この歌ということになっています。もう一つ、漢軍にすっかり囲まれてしまった項羽の軍に、周囲から楚の歌が聞こえてくる、四面とも、楚の人々は漢に降ってしまったのか、という思いに打たれる、というところから「四面楚歌」という言葉が生まれました。
ただ、中学生の頃、この詩を覚えて吟ずる習慣ができたと書きましたが、いわゆる「詩吟」つまり剣舞などとともに、独特の節回しで高らかに朗吟する方法を学んでいたわけではありません。実際、成人になってからも、詩吟は私の性には全く合いませんでした。
和詩ではありますが、漢詩書き下し風のものとして、当時の私を魅了していたのは、土井晩翠の『星落秋風五丈原』でした。さて、全文憶えているでしょうか。もっともこの詩は(一)から(七)まである長大なもので、覚えたのも、とても全部というわけにはいかず、七節ある第一部だけですが、第一節は大丈夫でしょう。
祁山悲秋の風更けて 陣雲暗し五丈原
零露の文は繁くして 草枯れ馬は肥ゆれども
蜀軍の旗光無く 鼓角の音も今しづか
丞相病篤かりき
日本語ですから訳す必要はないでしょうが、レトリックもあるので、余計とも思える解説を試みます。「祁山」(「きざん」と訓じます)は「岐山」の方が普通でしょうか、五丈原を懐に抱く山地の名前です。季節は秋、「夜更けて」では当たり前、「風更けて」にレトリックの妙があります。「零露」は露が結んでしとどなる様でしょうか、それが草葉の上に印を結んで著く、その草も枯れがちの秋です。陣馬はたっぷりと食を得ましたが、蜀軍の士気は、今は落ち込んでいる。師たる孔明は今死の床にある。なお「丞相」は、どういうわけか(多分、父の読みに従ったのだと思います)、私は「じょうしょう」と読んでいましたが、むしろ本来は「しょうじょう」でしょうか。『広辞苑』では「しょうじょう」を見出し語に掲げ、「じょうしょう」は「見よ<しょうじょう>」となっています。
もう一つ、大好きな節を引かせて下さい。
四海の波瀾収らで 民は苦み天は泣き
いつかは見なむ太平の 心のどけき春の夢
群雄立ちてことごとく 中原鹿を争ふも
たれか王者の師を学ぶ
丞相病篤かりき
最後の一言は、この第一部のすべての節の最後に、リフレインとして付けられています。後の部でも、時にこのリフレインは現れることがありますが。とにかく、このリフレインが何とも言えないではありませんか。なお、第一部の七節のうち、最初の四節はリフレインを入れて七言、後半の三節はリフレインを入れると八言になっています。
解説は不要とも思いますが、これは、『三国志』における蜀軍の名将諸葛孔明の最期を謳った詩です。ご存じのように、魏との闘いのただ中、五丈原において孔明は病没しますが、その際、将を失った蜀軍与し易しと、魏軍の軍師司馬懿(しばい=仲達)は、退却する蜀軍を追討するうち、蜀軍の激しい反撃に遭い、孔明の死の報は、魏軍を欺く諜報であったとの疑心暗鬼の懼れから、兵を引いてしまう、というくだりが続きます。いわゆる「死せる孔明、生ける仲達を走らす」の故事です。
こうした詩文は、声に出さないまでも、頭の中で否応なく声に出して読んでいます。その心地よさ、それは音楽にも近い風情の与えるものでしょう。レトリックとしては、類似の言葉を重ねる、対立する語を並べる、類似の音を連ねる、などがあります。漢詩の平仄のように、脚韻を完璧に踏む、というような原則は見られませんが、厳密な七・五のリズムの中で、流麗に綴られていく音の流れは、それを追体験する人間に、確かな悦びを生み出します。
この七・五の音節原則は、どこに源があるのでしょうか。漢詩の定型は、五言、七言が基本です。いわゆる「古詩」も、「排律」も、「律詩」も「絶句」も、すべて、七もしくは五の数の制限のなかで歌われるものであり、対句などのレトリックも、むしろルールの一つでしたから、日本の音律も辿れば、漢詩の大和言葉版へ行きつくとも言えましょう。言うまでもなく、万葉の時代から、和歌は五・七という調べを基に作られていました。
その源の詮索はともかくとして、歌としての七・五の調子は、平安時代に、一世を風靡した「今様」に直接は由来する、というのが定説のようです。「今様」は、文字通り「今風」であり、当時流行した「流行歌」一般を指すことばです。後白河法皇が熱中し過ぎて、一時期声が出なくなった、という話が伝わっています。その真偽はともかく、後白河法皇の命で『梁塵秘抄』という歌集が編まれたことは、法皇の趣好を端的に表しています。
実は、こうした世界が「音楽」の意味であることは、この「梁塵」という言葉からも推測できます。この漢語は、「魯の虞なる人が歌を歌うと、その声が余りにも朗々として見事だったので、梁の上の塵までが動いた」(「発声清越、歌動梁塵」)という故事に由来しています。魯の虞さんは、さしづめ、希代の声量を誇ったマリオ・デル・モナコに匹敵する名歌手だったのでしょうか。
いずれにしても『梁塵秘抄』は「歌集」と書きましたが、普通歌集というと、和歌を集めたものをいうわけですが、ここでの「歌集」は、シューベルトの『冬の旅』や『白鳥の歌』を「歌集」と呼ぶのと同じ意味で使われていると考えて下さい。類例としては、『冬の旅』よりは、『白鳥の歌』の方が適切でしょうか、『冬の旅』は、全体の構成が作曲者自身の構想による、一つの大きなテーマの下で編まれた歌集ですが、『白鳥の歌』と名付けられたものは、文字通り「白鳥は最後の鳴き声が美しい」という言い伝えに沿って、シューベルトが晩年に書いた歌を、後世の人が特段の主題なしに、単に集めて編集した歌集です。『梁塵秘抄』は、「最後の歌」たちではありませんが、その時代に流行した歌を、グランド・テーマなしに集めたものと考えられます。
こうして、詩文を歌にする、あるいは歌様の朗読をする、というのは、どの文化圏にも培われてきた、一つのエートス(文化的習慣)と言ってよいでしょう。そうしてみると、漢詩あるいは漢詩風の和詩を、暗唱するという習慣も、昔の日本では、かなりしっかりと確立されていたことになります。
かつての私の経験からすれば、そうした漢詩の存在や、それを口ずさむ時の喜びを教えてくれたのは、まさしく父親でありました。中学の国語の先生の期末試験は、島崎藤村の『晩春の別離』という詩を一人ずつ暗唱させるものでした。全文ではありませんでしたが、これは今でもすらすらと出て来ます。
時は暮れ行く春よりぞ また短きはなかるらむ
恨みは友の別れより 更に長きはなかるらむ
君を送りて花近き 高楼までもきてみれば
緑に迷ふ鶯は 霞空しく鳴きかへり
白き光は佐保姫の 春の車駕を照らすかな
これより君は往く雲と ともに都を立ち出でて
懐へば琵琶の湖の 岸の光に迷ふとき
東胆吹の山高く 西には比叡比良の峯
日は往き通ふ山々の 深き眺めを伏し仰ぎ
いかに優れし想ひをか 沈める波に湛ふらむ
まだ数節続きますが、敢えて記憶のままを文章にしましたので、漢字の使い方などで、藤村の原文とは違っているかもしれません。その辺はご容赦を願います。この詩も七・五の調べによっています。
藤村の『千曲川旅情の歌』も、その前半部分(「小諸なる古城のほとり」)は暗唱できますが、それは、後に声楽を勉強中に、弘田龍太郎の作曲になる歌として記憶したからです。大学生になった頃には、『椰子の実』でもそうですが、藤村特有の叙情性は、美しく、心を打つものであることを重々認めながら、それがどこか鼻について、彼の作品自体をあまり好まなくなりました。しかし、土井晩翠の詩と藤村のこの二つの詩は、自分の一部のようになってしまった感があります。
この文章が、自分の記憶や詩文の暗唱能力をひけらかすような感じを与えたとすれば、それは全く、私の表現力の至らなさであります。書きたかったことは、詩と音楽的な世界とはいつも背中合わせのもので、それはもともと人間の言葉の中に、音楽的要素が常に寄り添っているからだ、という点にあります。
他方、八十代も半ば近くになって、深い悔恨があるのも確かなことです。例えば、漱石や鷗外を考えてみて下さい。彼らのような天才を我が身に比べるのは、身の程知らずですが、そうではなく、彼らは、もちろん英語やドイツ語に堪能であった一方で、漢詩にも(当然漢文一般にも)、充分な能力を持っていました。それは読解という点に限りません。漢詩の平仄をきちんと弁えて、弁えているだけではなく、それを使って、平然と漢詩を書くことができたのです。それは、彼らの文才とはほとんど関係がなかったはずです。
つまり、彼らの世代の基本的な教養の中に、そうした能力が含まれていたと考えるべきです。そして、我が身と引き比べたときに、自分には、その能力が全く、完全に、欠如していることに暗然とします。父親の世代には、その習慣は辛うじて引き継がれていたはずです。彼の書棚にあった『唐詩選新釈』(文学士 佐久節 著、弘道館、昭和四年刊)は、今も私の座右にありますが、それは父がどれほど、魂を籠めて熟読玩味したかを示す徴で溢れています。彼の日記はほとんど残っていませんが、それでも時に、自作の漢詩めいたものが綴られています。しかし、彼は、私にいろいろなことを「強要」しましたが、その中に、漢詩に関する教養は含まれていませんでした。その愛読書を、時に私が勝手に持ち出して読むことを、咎め立てはしませんでしたが。どうも、私くらいの世代から、漢詩に関する基礎教養は怪しくなったようです。当然、自分の子供の世代にも、それを伝えてはいません。もともと、自分に能力がないのですから、次の世代に伝えることなど全く不可能だったことになります。
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