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AIを含めた新技術を理解し、活用できる人間になるために必要となる視点

2021.05.11

Updated by Ryo Shimizu on May 11, 2021, 06:59 am JST

 社会のAI化は静かに、しかし着実に進行している。
 しかし残念なのは、まだまだAIを活用するために絶対必要な視点を、うまく世間一般の人々と共有できていないことだ。

 それは何かと言えば、「AIは面白い」と感じることであり、別の言い方をすれば「AIを面白がる能力」を獲得することだ。

 普通に生きていると「面白がる能力」の獲得なんて馬鹿げた話だと感じるかもしれない。
 ところが世の中のエンターテインメントのほとんどは、それまで誰も面白いと思っていなかったものを、誰か変わった人が「面白がる」ことからスタートしている。

 たとえば、吉本浩二による漫画「ルーザーズ」青年漫画というものが存在しなかった時代、アメリカの雑誌MADに影響を受けて変わったセンスのイラストを描く青年の投稿を見て閃いた編集長が、周囲の反対を押し切って青年漫画雑誌の刊行を思いつく。まだ無名だったその青年に、編集長は「今日からモンキーパンチと名乗れ」と命じ、青年は渋々従う。そしてあの名作、「ルパン三世シリーズ」が生まれ、日本の漫画界の方向性を大きく変えていく様が描かれている。

 「面白がる」能力はリテラシーと非常に深い相関関係がある。

 あるメディアを面白がる事ができるかどうかは、そのメディアに対してアレルギー反応を持っていないことが大前提だ。

 たとえば、ゲームが初めて世の中に出てきたときには嫌悪感を持たれた。
 ゲームを遊ぶと脳がおかしな成長をするとか真剣に言われたものだ。

 ゲーム会社の広報担当自らが「ゲームは一日一時間」などと呼びかけなければならないほど、ゲームは熱狂的に受け入れられた。

 ゲーム以前では、アニメ、漫画、小説、テレビ・・・ありとあらゆるニューメディアが、オールド・タイプからの攻撃を受けた。

 服部桂著「マクルーハンはメッセージ」によれば、電話が普及し始めた頃、英国王室では電話の使用が禁止され、テレビが登場し始めた頃、アメリカの有名紙にはテレビを見て凶暴化する猫のニュースが掲載された。

 新しいメディアが登場し、受け入れられつつあるとき、そこに不気味を感じたり、恐怖を感じたりして受け入れられず、オールド・タイプからの攻撃を受けるというのはいつも起きていることだ。

 ところが残念ながらAIはまだそこまで行っていない。AIを積極的に攻撃する人がいないわけではないが、それは主に倫理的な問題からであって、AIをメディアとして攻撃している人はいない。それは残念ながらAIの持つ本当の能力、可能性が世間一般に理解されていないことの裏返しでもあるのだ。

 筆者の個人的な経験に照らせば、やはり今のAIは80年代の3DCG技術と近いものに感じる。ではここにAIを本当に理解するためのヒントが隠されているのではないか。

 ほとんどの読者にとって、80年代のゲームがどういうものだったか思い出す(または学ぶ)のは大変だと思うので、筆者の視点で整理してみよう。ちなみに筆者は1976年生まれで、80年代は小学生だった。

 80年代のゲームシーンの主役といえば、特に日本では、なんと言ってもファミコンだ。

 ファミコンの何が面白かったのかといえば、それまでただ見ることしかできなかったテレビ画面を、自分の意思で自由に操作できるようになったところである。自分が画面の中に入り込むような錯覚があった。

 これは今や当たり前のことなので忘れがちだが、ほとんど全てのファミコンの原体験はそこにあるはずだ。

 さて、一方で、ファミコンのすごさに夢中になりながらも、筆者自身は、「これでは物足りない」と思っていた。

 小学生だった筆者の家にはファミコンではなく当時最先端の16ビットパーソナルコンピュータ、PC-9801という名機があり、それが自由に使える状況ではあったのだが、値段で言えば、十分の一以下のファミコンと、「面白さ」の点で根本的に異なるものがあったのだ。

 筆者にとってコンピュータへの興味は、スターウォーズから始まった。もちろん第一作目に当たるエピソード4である。

 X-Wingによる三次元戦闘、R2-D2やC-3POといった愉快なドロイドたち。ドロイドには当然、AIが搭載されている(そう呼ばれてはいないが)。特にR2-D2は、ただ人間に使役するのではなく、密命を帯びて単独行動したり、敵基地をハッキングしたりと、人間よりも賢い振る舞いをするところが最高に良かった。

 筆者からすると、ファミコンゲームは確かにすごいが、それは見た目上のすごさに過ぎないと思っていた。少年の頃の筆者は、R2-D2に会いたかったし、R2-D2のような相棒と一緒に冒険に出かけたかった。

 X-Wingのような三次元戦闘にも憧れた。このド迫力の戦闘シーンは、第二次世界大戦の記録ビデオをもとに作られたことは有名だが、要は作り物の映画ではあったが、戦闘に関わる動きそのものは本物に由来していた。

 そしてデス・スター破壊作戦を説明するワイヤーフレーム映像に心を奪われた。
 あれには世界中の少年が心を奪われたのではないかと思う。

 筆者は三次元コンピュータグラフィックスの本を買ってきて、立方体を出すプログラムを打ち込んでみた。
 忘れもしない、それから一生付き合うことになる、行列と三角関数との、初めての出会いだった。確か9歳のときである。

 もちろん意味などわからない。ただ、子供が与えられたおもちゃをわけもわからず弄くり回すように、三角関数に与えるθを変化させていって、立方体の描画が画面内でどのように変わるかつぶさに観察していった。

 ただ筆者を失望させたのは、その描画速度があまりに遅過ぎたことだ。
 ファミコンのような即物的な反応は不可能に近く、あまりにも描画が遅い。

 海外にはすでにAtariのスターウォーズのような、ワイヤーフレームで3D表現するゲームが登場していたが、これはベクタースキャンという特殊な方式のディスプレイを使わなくてはならず、新潟の田舎町で暮らす小学生に手の届くようなものではなかった。

 それで筆者は、次に似て非なるものを探し始めた。
 その頃、ゲームセンターには「スペースハリアー」というゲームがあり、これは擬似3Dゲームと呼ばれていた。

 完全な3Dでは、完全な計算が必要になるが、擬似3Dでは視点が一方向に固定されているため計算が省略できるのと、キャラクターの表現は直線ではなく、拡大縮小するスプライトによって擬似的に表現されていた。

 ところがスプライトというのは、この頃、ゲーム機特有の特殊なハードウェアであり、ビジネス用パーソナルコンピュータであるPC-9801には搭載されていなかった。

 結局、これも指をくわえてみているしかない。
 PC-9801で擬似3Dにも挑戦してみたが、とても実用的な速度で動かなかった。

 中学に上がる頃になると、C言語が使えるようになっていた。
 C言語を使って再び3Dプログラミングに挑戦するが、やはり思ったような速度が出なかった。

 こうなれば仕方がないと、一念奮起して自分でアセンブリ言語を使ってリアルタイムに3D処理をするエンジンを書くことにした。
 必要なパーツは断片的にあちこちの本に書いてあった。あとは繋げるだけだ。あまり頭を使う必要はない。

 中学三年生になる頃には、リアルタイム3D処理を行うライブラリが一旦は完成したが、プログラムが複雑になり過ぎたので一度捨てることにした。

 高校一年生の一年間を使ってゼロから書き直し、ゲームを作ったりしてみて、雑誌に投稿してみた。それで初めてプログラムをお金にするという体験をした。

 この当時、同級生たちから見た僕への反応というのは極めて冷ややかであった。

 学校にはパソコン教室があり、そもそも普通科ではなく情報科学科などといったご大層な名前がついていたのだが、情報科学についての専門家は誰もいなかった。

 情報科学の専門家がいないので、パソコンでリアルタイム3D処理ができることの意義、それがC言語から手軽に使えることの意義を理解してくれる人は周囲に皆無だった。

 その時代、少なくとも日本にはそうした技術は他に誰も作っておらず、必要としている人たちも確実にいたのに、誰もそんな馬鹿なことに時間を使おうとはしなかったのだ。何より、PC-9801はアーキテクチャが致命的にコンピュータグラフィックスに向いてなかった。

 同じ頃、海外ではより3DプログラミングしやすいアーキテクチャであったPC-AT互換機において、ジョン・カーマックが「Wolfenstein 3D」を発表していた。

 これも疑似3Dだが、迷路は本物の3D計算がされていた。

 翌年には通信対戦に対応したDoomを発表し、これが世界的なヒットとなったのだが日本にはPC-AT互換機が当時は普及しておらず、遠い風の噂として聞く程度の感想だった。

 同じ年、日本のゲームセンターではバーチャファイターが発表され、爆発的人気となっていた。

 3D化の波は確実に来ており、それは不可避なものだった。
 ところがまだまだ多くの人々、普通の人々は、3D技術に拒絶反応を示した。

 たとえば「3Dは酔う」とか、「3Dは複雑でわかりにくい」とか、「ドット絵の可愛さがいい」とかいう、「わかりやすいディス」に拘泥したがった。

 格闘ゲームでも、「バーチャ派」と「ストII派」みたいに、3Dを肯定する派閥としない派閥に別れていった。

 それは3Dコンピュータグラフィックス技術を初めて本格的なアーキテクチャとして家庭用ゲーム機に持ち込んだプレイステーションでも例外ではなかった。

 1994年に発売されたプレイステーションは、それまでのどのゲーム機とも違う、革新的なアーキテクチャを持っていた。
 持っていたのだが、それを活用したゲームというのはなかなかうまくいかなかった。

 初期の成功作は、アーケードですでにヒットしていたリッジレーサーだった。

 レースゲームという性質上、3Dが複雑である、という悪評とは無縁でいられた。自動車が3D空間であるレース場を走るのは当たり前であり、コースも一本道だから迷わない、というわけである。

 ところが他のゲームはそれほどだった。本格的に3Dが受け入れられるには、1997年のファイナルファンタジー7の登場まで待たなければならなかった。

 このFF7の出現で、ゲームの演出というのは3Dでやるのが正しいのだと初めて世間に認識されたと、個人的には思う。ドット絵的なローレゾなデフォルメと、高価な3Dグラフィックスワークステーションで時間をかけてレンダリングされたハイレゾな背景がうまく融合して独特の世界観を紡ぎあげた。

 FF7は凄過ぎた。映画の世界がスターウォーズ前とスターウォーズ後に分けられるとすれば、ゲームの世界はFF7前とFF7後に分けられる。それくらいのインパクトがあったように思う。

 こうした技術の進歩の裏側にいた人々は、常に「3Dって面白いじゃん」という気持ちを持っていた人々だ。
 「3Dを使えばヒットする」という人たちではない。

 「面白いから、なんとかこれを活かしたい」と考える人たちだ。

 たとえば今のAIというのは、学習にも推論にも非常に長い時間がかかる。

 学習に数日から数ヶ月、推論に数秒、ということはざらである。

 それは3Dもそうだった。

 1977年のスターウォーズ・エピソード4で使われたワイヤーフレーム映像は、大型コンピュータを利用して数ヶ月かけてレンダリングされたものだった。

 それがわずか数年でリアルタイム処理されるようになり、20年後にはFF7になっていくのだ。

 AIも、学習や推論が高速化されるのは時間の問題だ。実際、半導体の進歩とソフトウェア技術の進歩の両方によって、年々、劇的に高速化されつつある。

 大量の学習が必要と思われたことも、最近は0-shot学習のように、事前訓練済みモデルだけで済むようになってきた。つまりこれは実質的に学習時間がゼロになったことを意味する。

 あとは、これを「面白がる」ということをどう捉えるか。「どう面白がれ」ばいいのか。

 一つのヒントが、筆者も夢中になってるAIのひとつ、BigSleepに熱中している人々がいることである。
 BigSleepとは、与えられた言葉にしたがって、AIが勝手に絵を描く仕組みで、オープンソースで公開されている。

 アメリカの人気掲示板Redditでは、BigSleepの作品コンテストが勝手に開催されている。

 これまでAIというのは、主に精度に注目されてきた。
 精度への注目というのは、論文を書いたり比較したりする上ではわかりやすい。

「あの論文の手法よりも、こちらの論文の手法の方が精度が高い」というものの方が論文になりやすい。

 しかし、BigSleepへの注目では、論文の精度ではなく、AIから生成された創作物の面白さという点に注目されている点が、これまでのAIと論点が異なってきている。これは好ましい兆候だ。

 「面白い」ことと、それがエンターテインメントとして商売になる、ということには時間的なギャップがある。

 たとえば、「人狼」ゲームのルールは1930年から存在するが、カードゲームとして商品化されたのは21世紀に入ってからだ。日本で普通に遊ばれるようになったのはもっと後になってからと言われる。

 「人狼」ゲームの最先端が最近スマホ、PC、ゲーム機で大流行している「Among Us」であり、最近のYouTubeのノリなんかもうまく取り入れている。

 Among Usの成功は、人狼のルールを完全に消化した上で、アレンジしたことだろう。何より発明と言えるのは、宇宙船の閉鎖環境という状況設定を導入することで、非言語で言葉の通じない相手とでも人狼ができるようになったことだ。

 
 AIでも、たとえばGPT-3を使ったAI Dungeonのような例がなくはない。

YouTubeでは早速、多くの人々がAIダンジョンで遊んでいる

 実際に遊んでみると、AIダンジョンはかなり興味深いものではあるが長く遊ぶには、遊ぶ側の想像力が過度に要求されることに気づくだろう。

 AI Dungeonについてはまた改めて紹介したい。

 重要なのは、「面白がる」能力であり、「面白がる」能力というのは、「面白がらされる」能力とは違うということだ。

 つまり、3Dでも漫画でも、「それどこが面白いの?」という反応しかできなかった人は、結果的に時代に取り残された人である。つまり、「面白い」ものは向こうからやってくるもの、と思っている人、ということだ。

 時代の先を行くには、誰も面白いと思っていないようなもの、面白いと思っている人が極端に少ないようなものを、「どうすれば面白くできるか」貪欲に考える意思と能力が必要なのだ。

 これは決して特別なことではないが、そのようなスタンスを常に保ち続けるには努力が必要になる。
 しかしAIを理解し、誰にも思い付かないようなことに活用していくためにはそういうことが必要なのだ。

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清水 亮(しみず・りょう)

新潟県長岡市生まれ。プログラマーとして世界を放浪した末、 '17年にソニーCSLとWiL LLC.とともにギリア株式会社を設立し、「ヒトとAIの共生環境」の構築に情熱を捧げる。 '17年より東京大学先端科学技術研究センター客員研究員を兼務。著書として「教養としてのプログラミング入門(中央公論社)」「よくわかる人工知能 (KADOKAWA)」「プログラミングバカ一代(晶文社)」など。

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