photo by 佐藤秀明
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忘れることは正常な精神活動の一部。それでも思い出さなくてはならないこと
科学技術社会学(STS)、特に英米系の研究者の間で、近年その重要性の再評価が進む哲学者の中に、ホワイトヘッド(A.N.Whitehead)とデューイ(J.Dewey)という、かなり個性が違う二人の哲学者がいる。
前者は、ラッセル(B.Russel)と共同で大部の数学基礎論をモノしたことで有名だが、晩年アメリカに渡り、そこで『過程と実在』に代表される独自の形而上学的な「有機体の哲学」を完成した人である。その内容を簡単に要約するのは困難だが、内的自然としての意識と、外的自然としての宇宙全体を理論的に統合することを目標としており、特定命題を細かく分析、吟味することを主流とした、英米での分析哲学の流れの中では非常に異質であった。
他方デューイは、そのプラグマティズム哲学と実験的実践の主張で特に教育分野で有名だが、STSでは民主主義と科学の関係、あるいは「公衆」の生成についての彼の議論がSTSの中心的関心と密接にかかわっている点が認められ、近年再評価が進んでいる。
この二人は、ある時期を同じアメリカで過ごしているが、前者はもともと数学者であり、そのためか観念の働きについて強い関心があり、『観念の冒険』という一種の啓蒙書に近い本も書いている。後者のプラグマティズム哲学の関心は、特定状況における行為や実験である。
ここで私の関心を引くのは、この方向性の違いが政策という局面でどういう現れ方をするか、という点である。政策についての考え方は、極端にいえば二種類ある。一つはいわば理論先行で、特定の理論の権威に基づいて、トップダウンでそれを作成し、実行するものである。もう一つはその逆で、我々の日常的実践と深く関連づけながら、ボトムアップ的にそれを考えるやり方だ。
プラグマティズム哲学の本場アメリカの政策学では、後者の方が強いかというと、実はそうでもなかったらしい。伝統的にはむしろ論理実証主義、つまり理論先行の思考方法が主流であったという指摘がある。近年の公共政策における政策(社会)実験の称揚は、まさにこうした理論、観念先行の政策観に対する強い修正、あるいはアンチテーゼという意味合いがある。
この観点からいうと、近年一部でやたらと喧伝されている、「エコ・マルクス主義が世界を救う」といった言説は、その主張の表面的な現代性に比べて、どこか時代錯誤的な雰囲気がある。それは、現実におこなわれたマルクス主義的政策の長い(負の)伝統について、意図的に沈黙しているからである。
震災のような大きな危機があると、必ず「この悲惨な現実を決して忘れてはならない」という主張が繰り返されるが、残念ながらそれは実行されない。忘れることは我々の正常な精神活動の一部だからである。それゆえ、忘れてしまったものについては、折りに触れ思い出す必要がある。それはマルクス主義に基づく様々な負の社会実験も同じことである。
※本稿は、モダンタイムズに掲載された記事の抜粋です(この記事の全文を読む)。
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