写真:Digital Images Studio / shutterstock
機械ばかりが優秀なのか。月の撮影を推し進めたラジコン技術から考える
2024.05.14
Updated by WirelessWire News編集部 on May 14, 2024, 11:33 am JST
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2024.05.14
Updated by WirelessWire News編集部 on May 14, 2024, 11:33 am JST
2024年1月、SLIMの無人月面着陸が成功した。半世紀以上前からソ連やアメリカが熱心に月へ機械や人を送りこんできたが、実はこのときに使われていた技術は現在の感覚からしてみると非常にアナログに近い。それでもなぜこれほどの偉業を為すことができたのか。科学ジャーナリストの松浦晋也氏が解説する。
「大陸間弾道ミサイル」を言い訳にしてロケットを開発したセルゲイ・コロリョロフ
初期の旧ソ連宇宙開発を主導したセルゲイ・コロリョロフ(1907-1966)は、月の探査が終生の夢だった。
1950年代、彼は第1設計局(OKB-1)という組織を率いて「R-7」という大陸間弾道ミサイルを開発した。重量3トン超の核弾頭を、アメリカにまで届かせることができる大型ミサイルだ。これだけの能力があると、人工衛星の打ち上げも可能になる。彼はソ連首脳部を説得して衛星を開発。1957年10月4日、R-7によって史上初の人工衛星「スプートニク1号」の打ち上げに成功した。
もちろん彼はロケットが欲しかったのであって、核弾頭をアメリカまで届かせることができる大陸間弾道ミサイルというのは、政治向けの言い訳であった。ロケットができれば次は衛星であり、月/惑星探査機であり、有人宇宙船である。
ここでもコロリョフは、同じ論理を使ってソ連首脳部を説得した。「衛星を打ち上げられるようになれば、国防上便利な通信衛星や偵察衛星も打ち上げて運用することができます。もちろん有人宇宙船や月/惑星の探査は国家の威信を向上させるでしょう」。
その結果、コロリョフのOKB-1の仕事は激増した。ロケットの改良に加えて、通信衛星、偵察衛星を開発し、並行して有人宇宙船も月/惑星探査機も開発しなければならなくなったのだ。結局、1965年になって月/惑星向けの探査機の開発は、ラヴォーチキン設計局に譲らざるを得なくなった。
その時コロリョフは、「私は同志諸君に我が夢の殆どをやろう」と言ったと伝えられる。その10カ月後、コロリョフはガンの手術の予後不良で死去した。
誰も見たことのなかった月の裏側を知るために
このような経緯があったので、初期のソ連の月探査機は、OKB-1が設計/製造したものだった。
最初の月探査機「ルナ1/2号」月面への人工物体到達を目的としたもので、最小限の科学観測機器しか積んでいなかった。1号は月を外して飛び去り、結果として太陽を巡る軌道に入って、史上初の惑星間軌道を巡る人工物体となった。ルナ2号は1959年9月14日、月面晴れの海に激突し、月面に到達した史上初の人工物体となった。
続く「ルナ3号」は、月の裏側の撮影を目的としていた。月は常に地球に同じ半球を向け続けており、有史以来裏側を見た者はいなかった。その裏側に探査機を送り込んで、撮影しようというのである。そのために、ルナ3号は当時の技術の粋を凝らして設計された。
※本稿は、モダンタイムズに掲載された記事の前半部分です。
(「月の撮影を推し進めたラジコン技術」について続きを読む)
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