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80点の文章の書き方

2025.04.03

Updated by Ryo Shimizu on April 3, 2025, 09:47 am JST

 最近、よく知らない人から「文章うまいですね」と言われる。
 それはサッカー選手に「サッカー上手いですね」と言うようなものだ。僕は16歳の頃から商業誌で文章を書いてる。散々鍛えられたし、普通の人とは異なる訓練を積んできた。
 大概、そう言うことを言ってくる人は、自分で同人誌を書いているか、Webのライターをやっているかで、要は文章に多少なりとも気を使って生きているひとだろう。ただ、何も僕のメインのフィールドと関わることがなかったので、僕が売文業を始めてもう35年のキャリアであることを知らないのだろう。35年もやってりゃ、上手くならないほうが難しい。

 だが、今は媒体にそう言うタイプの「ライターを育てる力」そのものが喪失してきている。昔は、編集者といえば、文章の達人だった。
 将来は作家か、フリーのジャーナリストを志すような人が編集者に入門し、会社で鍛えられ、文章の書き方、伝え方、取材の仕方のイロハを学ぶ。
 その編集者が、持ち込みのライターの原稿を直す。そうやってライターは自分の考えや取材した事実を文章にする方法を学んでいった。

 今はそんな贅沢な人の育て方をしている会社はなくなり、文章は下手をすればとってだし、紙媒体ならまだ紙の制約があるが、Web媒体では企画の内容も推敲せず、とにかくノルマとして本数をこなせ、という指導をする編集部が増えた。現在のWeb媒体の衰退は、その結果が招いた必然的な惨状と言える。

 ということは、文章を訓練する方法、プロのライターになる方法が今は失われているのだ。

 それでも商業誌や商業媒体なら、最低でも担当編集か、小さな編集部でも編集長がチェックするから、あまりに酷い文章にはならないのだが、同人誌となるとチェック機構が働かないのでお手上げである。

 新宿ゴールデン街には、作家やライター、その卵たちが集まる習性があるらしい。
 時折、彼らが書いた同人誌などを見せられるのだが、ほとんどの本は、読むに耐えない。ただ、同人誌なので、「好きにすれば」としか言いようがないから、わざわざ指摘することもない。金を払って酒を飲んでるのに、タダで教える義理もない。

 ただ、最近つとに思うのは、AIが今のまま進歩する世界では、実は自分の考えを正しく文章化しておくことがとても大切だということだ。
 AIは文章を読める。人と会話もできる。しかし、人と会話したくらいで、その人の考えが全部わかったりはしない。会話というのはごく刹那的なもので、そこに正解はない。
 ある意味で、その人のあるテーマにおける正解は、科学者なら論文、文芸者なら単行本に書かれているはずで、そこに全てが書かれているわけではないが、少なくとも数時間の会話をしたくらいでは到底辿り着けない情報量と、「本質的な真実」が込められている。

 誤解を恐れずに言えば、「すべての人が自分の考えを文章として書き残しておくべき」だと思う。それは生活するためではなく、少しでも長生きするためだ。
 
 しかし、肝心の「自分の考えを表明する」技術が下手くそではどうしようもない。いくらAIでも、下手くそな文章ではその人の真意を汲み取ることは難しい。AIだって使える時間は有限だから、文章の冒頭を読んで「価値の低い文章」だと判断したら破棄するかもしれない。それは未来社会における第二の死と言える。

 そこで提唱したいのは、「80点の文章」を書く技術をまず身につけるということだ。100点の文章、120点の文章を書けるのは天才と呼ばれるごく一握りの人間か、相応のキャリアを重ねた人間だけだ。素人として雑文を雑分をしたためてきた人たちにまず言いたいのは、「とりあえず80点の文章を書けるようになろう」ということなのだ。

 では、80点の文章とは何か。
 もちろん「いい文章」の基準は人によって異なるが、僕が思う「80点の文章」は、「読者を意識しない」文章である。

 こうすると、おそらくライター養成学校などで言われることと最初から真逆のことを言ってると思うかもしれない。しかし、「読者の存在を意識から消す」ことは、「読者を意識して尚且つ読みやすい文章にする」ことより遥かに簡単だ。

 「読者を意識して尚且つ読みやすい文章」は、90点以上の文章だが、これを書けるようになるまでには相当な時間がかかる。
 それよりまず、文章の基本的な「型」を身につけるためには、「読者の存在を意識から消す」方がやりやすい。

 最近読んだ(読まされた)いくつかの同人誌で、「なんて下手なんだ」と思った文章を例にとると、「読者を意識し過ぎて変な人になってる」ものが圧倒的に多い。

 たまにいるのだが、普段は普通の人でも、自分の憧れている人や偉い人の前だと舞い上がってしまって不審者みたいな動きになってしまう人というのが一定数いる。
 周囲の人からは割と無神経だと思われている僕だって、そういうことが全くないわけではない。僕の場合、そういう相手に対峙するときは、事前に「相手だって人間だ。ただのおっさんだ」と心の中で唱えることにしている。

 普通の人にとって「他人の視線」を感じるのはとても緊張感を伴うことだ。
 「変な人だと思われたらどうしよう?嫌われたらどうしよう」という「読者への意識」が、文章をヘンテコなものにしてしまう。

 ヘンテコな文章とは、妙に説明的過ぎたり、妙に馴れ馴れしかったり、妙にテンションが高かったり低かったりする。

 そこから逃れるために、まずは一旦、読者を意識から追い出す。
 大抵の人が「読者を意識しよう」と言われて思い浮かぶのは、自分の友達だったり、恋人だったり、密かに思いを寄せている人だったりする。だから、必要以上に文章はヘンテコになる。

 自分が舞い上がらないために、どうすればいいか。
 どうしても意識から読者を追い出せないのだとしたら、「未来の自分」に向けて書くようにしてみよう。

 その「未来の自分」は、年老いて、もう若い頃の記憶を無くしている。今が自分にとってどういう状況なのかわからない。半分ボケている。
 そんな「未来の自分」に向けて書くと、肩の力を抜いて自然な文章を書くことができるようになる。

 相手が「未来の自分」なら、嫌われてもどうでもいい。未来の自分が今の自分を嫌いだということは、何かその後に大きな成長があったということだ。過去の自分に嫌悪感を抱くということは、その人にとっての全身なのだ。その人とは、自分自身なのだから、自分のその時の考えをストレートに表現するのがいいのだ。それが結局、未来の自分(読者)へのご褒美になる。

 文章というのは、いくつかの目的があり、目的によって書くべきトーンやマナーが違う。
 商業媒体のレビュー原稿なら、読者を強く意識しなければならないが、個人ブログや同人誌なら、「未来の自分」に向けて書く文章くらいがちょうどいい。

 5回に一回くらい、自分のことを知らない読者を意識してもいいが、読者はそんなに作者に興味を持たないのが普通だ。

 僕も、時折、イベントなどで「ファンです」と握手やサインを求められることがあるが、彼らと少し話すと、「今までどんな仕事をされてきたんですか?」と聞かれて面食らう。まあ面食らうことにも慣れてしまった。今までどんな仕事をしてきたか。それは他の本に書いてあることなのだ。逆に言えば、僕の来歴と無関係に、僕の文章のファンになってくれる人がいるというのは光栄なことだ。

 文章を書く原動力は、憤りであることが多い。
 とても穏やかで優しい、凪のような心境の時に文章を書こうとは思わない。

 文章をたくさん書く人間というのは、常に何かに憤っていたり、疑問を感じていたり、修正を試みていたりする人間なのだ。この生き方は、疲れるからあまりお勧めはしない。

 ポジティブな内容の文章でも、その裏側には表に出さないネガティブな感情がある。
 ネガティブな出来事の後に、ポジティブな出来事に遭遇した時、前半経験したネガティブなエピソードを意図的に省略して、ポジティブな経験だけを書く。そうすれば、その人はとてもポジティブな人に見える。

 ネガティブな経験がないとポジティブな経験も言語化するのは難しくなる。
 何かを食べて「うまい」というのは小学生でも言える。

 なぜ「うまい」のか。
 それを説明するのではなく、感じさせて初めて伝わる文章になる。

 未来の自分が読んだ時、「あれはうまかったなあ」と思い出せるようになるきっかけは、決してそのものの味や素材ではないはずで、むしろそこに至るまでの苦労や雰囲気、ちょっとした出来事にトリガーがある。

 僕がこの文章を書いているのも、あまりにも下手な文章を読まされて辟易したというネガティブな経験が原因であり、次に再びそういう経験をすることを回避したくて「ましな文章の書き方」を書いているのだ。
 無料で公開されている記事には常に目的がある。

 それは世の中を少しだけ自分にとって好ましいものに変えたいという利己的な野心から生まれる。
 少なくとも本欄はそのような目的で書かれている。
 あとはささやかな原稿料のため。
 

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清水 亮(しみず・りょう)

新潟県長岡市生まれ。1990年代よりプログラマーとしてゲーム業界、モバイル業界などで数社の立ち上げに関わる。現在も現役のプログラマーとして日夜AI開発に情熱を捧げている。

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