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シトロエンの2CVという車があるのをご存じでしょうか。「カリ城」(映画「ルパン三世 カリオストロの城」)の冒頭シーンで、逃げるクラリス嬢が乗っていた車です。何年か前、この2CVに乗せてもらったことがあります。仕事でお世話になっていた方が、キレイにレストアされたこの車を所有していて、筑波の道を小一時間ドライブしました。
エンジンが非力で車体を軽くする必要があったからでしょう。鉄板が薄く、空気や路面など、車外の環境がとても身近に感じられたのを思い出します。助手席に乗った感覚は、車というよりゴーカートやバイクに近い印象でした。いわゆる「快適」とは言えませんでしたが、助手席で2CV開発時の逸話などを聞きながら、普段は味わえないクラッシックな車の感覚を楽しんでいました。
何故こんなことを思い出したかというと、最近、1日だけ2CVのような車に乗る機会があったからです。
私は普段は、アウトランダーPHEVという車に乗っています。電気でもエンジンでも走るプラグイン・ハイブリッド車です。2013年の初代から乗り継いでいて、今乗っているのは2022年のGN0W型という大幅改良直後の車です。現在、江口洋介さんが出演しているCMは、2024年式のマイナーチェンジ版で、私の車はそのひとつ前のモデルです。自宅の屋根には太陽電池があり、快晴の日だけ車のバッテリーに充電します。街乗りは、ほぼ自然由来の電気だけで走ることができます。
初回の車検時、ブレーキとドアに異音がすることを伝えると、部品を交換してもらえることになりました。部品を取り寄せてもらい、交換のため1日入院する間、提案された代車が同じ三菱自動車の「ミニキャブバン」でした。
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「宅配などで使うような車なのですが、よろしいでしょうか?」というディーラーの担当者の言葉に、ちょっとだけ考えて「いいですよ」と返事をしました。今考えると、この言葉がちょっとした冒険の始まりだったのだと思います。旅の途中で偶然見付けた見知らぬ乗り物に乗るような気持ちで、割とワクワクしながら、車の入院当日を待ちわびていました。
当日の朝、アウトランダーPHEVを預け、代車について軽く説明を受けます。お借りしたミニキャブバンは、恐らく「6代目」で日本郵政が配達に使っているEV軽バン「ミニキャブMiEV」のベースにもなっている車です。
面白いことにシフトの外見はオートマなのですが、中身はマニュアル車なのだそうです。機械的にクラッチを切り替える「AMT(自動マニュアル・トランスミッション)」という機構を搭載していて、面倒なクラッチ操作の必要がありません。
トルクコンバーターがないため坂道では注意が必要で、変速時にはわずかなタイムラグもあります。シフトノブを見ると、PやDといったレンジ変更部の左にギアを上下に切り替える部分があります。F1にあるパドルシフトのような機構ですね。燃費よく走りたい人は、ここを使って自分でシフト切り替えをします。
保険の書面に必要事項を書き込んでミニキャブバンのキーをもらい、運転を始めます。ディーラーは幹線道路に面しており、日中の時間帯ということもあり、トラックや商用車の中で軽バンを運転することになります。
ただでさえ乗り慣れない車である上に、遮音性という概念が存在しないかのように車外の音はよく聞こえるし、路面の状況に車はダイレクトに反応するしで、正直「恐い」としか思えませんでした。普段乗っている車と比べると、ゴーカートに乗っているようなものです。アウトランダーの、遮音性が高くどっしりした車体がいかに安心感を与えてくれていたのかをとてもよく実感することができます。
幹線道路に出てすぐ、私の「ワクワク」は消えてなくなりました。運転直前まで、せっかくの機会なので高速に乗って海までドライブしようかと思っていたのですが、当日は雨だったこともあり、計画を変更しそのまま自宅に帰ることにしました。これでも家族のある身です。命は大事にしなければなりません。
代車として借りた車が、普段乗っているのとずいぶんグレードの違う車だったことで、いろいろ学びがありました。そもそも軽バンは真っ直ぐに走りません。路面の微妙な変化がハンドルを通して伝わってきます。トラックのような大型車が幹線道路につくった「わだち」にもタイヤが取られるので、パワステではないハンドルを細かく操作して、人間が直接制御して真っ直ぐ走らせる必要があります。
エンジンが非力でパワーがないため、踏み込めば踏み込んだだけ加速することもありません。幹線道路で流れに乗るために、アクセル操作に気を使います。
普段運転している車とはまるで運転フィーリングが違うのです。アウトランダーPHEVはとてもよくできた車で、どんな路面でも真っ直ぐ走り、アクセルを踏んだだけでほぼ素直に、必要な時に必要なトルクが出ます。
三菱自動車の技術フェローで、ランエボ(三菱自動車のランサーエボリューション)の開発にも関わった「制御の神様」ともいわれる澤瀬氏の話を聞いたことがあります。車というのは、ただタイヤを正確に回せば真っ直ぐ走るものではないのだそうです。四輪の回転を細かく制御して、タイヤと路面の摩擦の変化で生じる誤差を相殺しないと、真っ直ぐ進まないのだそうです。アウトランダーPHEVはアクセル操作に対応してリニアな加速が得られるのですが、これにはモーター駆動が大きく影響しています。たまにエンジン車に乗ると、変速時などの軽いショックを感じることがあります。
情報理論で有名なシャノンによれば、情報とは「差」から生まれるものです。変化があることで、私たちは何かを感じ取ることができます。
軽バンに乗り換えたことで最近の「良くできた車」の制御について、改めて考えて感心させられました。理屈としては分かっていたつもりでも、実際に車を操作して得られる「リアルな情報差」を体感できたことは、恐いながらもとても良い体験だったと思います。
愛車が入院中、春休み中だった子供達を軽バンに乗せたのですが、乗り心地の違いにずいぶん驚いて、そして文句を言っていました。子供ながらに、技術の進歩を実感できたのだと思います。
考えてみると、2CVに比べたらミニキャブバンだって、いろいろと進化した素晴らしい車です。2CVの頃の車は、外気温が低いときはチョーク(燃料と空気の混合気を濃くする仕組み)を操作してエンジンを掛ける必要があります。始動に失敗することもたびたびです。その上扱いが悪いとエンストしてしまいます。普通に動かすのにドライバーの技術が必要な車なのです。
ミニキャブバンはエンジン始動は一発ですし、多少荒い運転をしてもエンストすることはありません。エンジンが電子制御になり、ガソリンの噴射量やタイミング、吸気などが適切にコントロールされるようになったおかげです。
現代の自動車が持つ「よくできている感じ」、真っ直ぐ走る、静かである、滑らかに加速する、というような感覚の裏には「モデル化」という考え方があります。路面の状態、タイヤの摩擦、車体の挙動、エンジンやモーターの特性。それらを数式によって記述し、コンピュータが絶えずそのモデルを参照しながら、運転者の意図に応じて最適な動きを導き出している。まさに「制御の塊」です。
例えば、天気予報も「モデル化」の一例です。過去の気温や湿度、風向きといった膨大なデータをもとに、数時間後の天気を予測しています。自動車の制御もこれと同じように、「未来を読む力」によって成り立っています。
「モデル化」とは、いくつかの段階を踏んで進められるプロセスです。
第一に必要なのは、「現象の数値化」です。人が五感で感じる温度や振動、あるいは道路の凹凸といった現象を、そのままでは機械が扱うことはできません。センサーを使ってそれらを数値として測定し、デジタルな世界に置き換えることで、初めて対象を「扱える情報」とすることができます。温度は摂氏何度、振動は加速度何G、タイヤの回転は毎分何回転というように、連続的な現実が時系列に並ぶ数値の集合へと変換されていきます。
次に「変化の数式化」が行われます。ただの数値の集まりでは、依然としてバラバラなデータに過ぎません。それらの数値がどのように変化するか、例えば加速度と時間の関係、あるいはタイヤのグリップと路面温度の相関関係などを、関数や方程式の形で表現することで、現象の「構造」が明らかになります。この段階で、現実の中にあるパターンや法則性が抽出され、再現可能なデータとして記述されます。
そして最後に、その数式を用いて「予測」が可能になります。現在の速度と路面状況を入力すれば、数秒後に車がどのように動くかを見積もることができます。これにより、制御系は先回りして対処することが可能になり、安定した挙動や快適な乗り心地を実現するのです。つまり、モデル化とは現実世界をデータとして把握し、それに基づいて未来の状態を計算し、行動を決定する一連のプロセスなのです。
こうした仕組みがあるからこそ、車は真っ直ぐ走り、エアコンは適温を保ち、洗濯機は適切な力加減で衣類を洗うことができるのです。私たちが無意識に享受している快適さや便利さは、実はこうした数学的な土台の上に成り立っています。
コンピュータが行っているのは、方程式の「実行」に他なりません。入力された情報をもとにモデルに当てはめ、必要な計算をして、その結果を基に行動する。その過程はすべて、数式と論理に基づいています。複雑な現象を整理し、予測や制御を可能にするために、「数学」が現実世界を橋渡ししているのです。
数学の魅力は、こうした現実を整った形で捉える力にあります。無秩序に見える現象の中にパターンを見出し、数式として記述することで、私たちは現象を「扱えるもの」として手に入れることができます。これはまさに「混沌の中に秩序を見出す力」で、現代の技術の根幹を成すものです。
私たちが何気なく暮らす日常には、こうした整った数学の世界が深く静かに浸透しています。車も家電もスマートフォンも、すべてがモデル化された世界の一部として、私たちに快適さや安全を提供してくれています。いろいろなテクノロジーに囲まれなから現代を生きる私たちにとって、世界は「整って」見えます。それは数学があるおかげです。
ただし忘れてはならないのは、現実の世界そのものは、必ずしも「整ってなどいない」ということです。数式にできる範囲は、あくまでも「近似」であり、私たちの身の回りには、計算通りにいかない揺らぎやノイズ、不確実さが常に存在しています。だからこそ、車であればたまには2CVや軽バンのように制御の届きにくい「生の現実」を体感することも、大切なのかもしれません。
私たちは、「整った世界」が大好きなのです。乱れた現実や予測不能な状況に対して、そこに秩序を見出し、法則を見付け出し、モデルとして記述する。その営みには、実用的な意味だけでなく、どこか知的な喜びがあります。
でも、こうも思います。もし「整っていない世界」に、もう一度出会ったとしたら。私たちは、そこから何を学び、何を見付けることができるでしょうか。その一歩先に、新たな技術や、まだ見ぬ世界が広がっているかもしれません。
株式会社マインドインフォ 代表取締役。東進デジタルユニバーシティ講師。著書に『Pythonで学ぶはじめてのプログラミング入門教室』『みんなのPython』『TurboGears×Python』など。理系の文系の間を揺れ動くヘテロパラダイムなエンジニア。今回の連載では、生成AI時代を生き抜くために必要なリテラシーは数学、という基本的な考え方をベースにお勧めの書籍を紹介します。