目の見えない人はどんな夢を見ているだろう? 誰もが気になる疑問かもしれません。私たちは、夢を「見る」と言います。この言い方が正しいならば、彼らは夢を「見ない」のか? はたまた視覚以外の感覚で夢を見るのか?——ところが実際に話を聞いてみると、見える人の夢と見えない人の夢の違いは、意外なところにあることが分かってきました。
視覚的な夢、触覚的な夢、味覚的な夢
まず、目の見えない人は夢を「見る」のか? 答えはイエスです。しかも、ただ夢を見るのではない。多くの人が、文字通り視覚的な夢を「見て」いるのです。インタビューしたある女性が不思議そうに言っていました。「夢の中では、私、見える人になっているんですよね」。もっとも、生まれつき全盲の方や幼い頃に失明した見た記憶がない方は、視覚的なイメージの概念を持ちませんから事情は異なってくるでしょう。しかし先行研究によれば*、わずか6歳で失明した人であっても、視覚的な夢を見ていることが報告されています。
もちろん、さらに話を聞いてみると、夢のすべてが視覚的ではないということも明らかになってきました。どうやら、盲導犬とソファのあいだに足を挟んでいる感触が再生される「触覚的な夢」や、物を食べているときの味が再生される「味覚的な夢」を見るという人もいるらしい。起きている間に使っていた能力が夢においても活性化されるという事情を考えれば、確かにこうしたことは自然でしょう。もっとも、特に「触覚的な夢」になると、それがどんなものか私には想像もつきませんが……。
多くの視覚障害者は、視覚的なイメージを使って生きている
そんな触覚や味覚の要素をはさみながらも、しかし大部分の視覚障害者が視覚的な夢を「見て」いる。これは意外な感じがするかもしれません。なぜなら一般に、「見えない人=視覚とは無縁な人」という固定観念があるからです。彼らは、目で見る代わりに、周囲から聞こえる音や頬に当たる風や靴底の感触をたよりに生活している。光とは切り離された闇の世界に生活している。そんなふうに思われています。
ところが実際には、先天的に全盲の方や見た記憶がない方でない限り、視覚障害者も視覚と無関係に生きているわけではないのです。もちろん、文字通りの目の機能を使っているわけではありません。外界からの情報の入手は、音や触覚を頼りにしています。しかしながら、それが頭の中で像をむすぶときには、何らかの視覚的なイメージに変換される場合が多いのです。手をのばしてコップがあればコップをイメージする、駅に行けば駅をイメージする。そんな具合に、音はその音源のイメージに、触覚は対象のイメージに変換されるのです。
イメージといっても、これは記憶の断片から合成されたものなので、現実の物や風景と一致するわけではありません。「目が見えないで幸せなのは、両親の顔がずっと若いことかな」とある全盲の方が冗談めかして言っていましたが、目が見えない人の場合は、失明したときまでの記憶で頭の中の世界が構成されることになります。また、このイメージはそれほど厳密なものではないようです。たとえば人について、声の肌理から顔の目鼻立ちを細かく想像するというようなことはなく、性別や体型や年齢などを総合した「気配」のようなものである場合が多いようです。
音からイメージへの変換 見えない人に背後が「見える」か
夢の話からは逸れてしまいますが、興味深い事実があります。目の見えない人の音からイメージへの変換は、その適用範囲が限定されているのです。複数の人に確認したところによれば、視覚イメージが作られるのは「前から来た音」のみで、「背後から来る音」は音のまま認識されるらしい。つまり、自分の目の前でしゃべっている人ややってくる電車は「見える」けど、後ろにいる人の声や電車の音は「聞こえる」にとどまるのだそう。変換としては同じ「音→イメージ」という作業なのに、変換される音とされない音があるというのは何とも不思議です。その理由はおそらく、その人が「後ろを見る」という状態を経験として持っていないからでしょう。言われてみれば、私たちの目が顔の前面についているかぎり、「見ること」と「前」は切り離すことができないわけですが、文字通りの視覚を使わなくなってからも、このことが条件として残り続けているというのは面白い現象です。
このように、目の見えない人は外界の知覚という意味での視覚の能力はありませんが、知覚した外界の情報を理解する段階では視覚的なイメージを使っているのです。このことが、おそらく彼らが視覚的な夢を見る理由でしょう。見えない人の視覚は、外界とは直接結びついていませんが、内側の世界とは結びついているのです。
目の見える人と見えない人の違いは、夢から醒めた瞬間に訪れる
だから、目の見える人の夢と見えない人の夢の違いは、むしろ視覚が外界と結びつく瞬間、つまり目覚めの瞬間にこそ訪れます。見える人の場合、目が覚めるとは何よりまず「まぶしい」経験です。カーテン越しの朝日がまぶたの隙間から入ってきて、目が光に慣れてくると天井が見え、やがてドアが見え、時計が見え、文字盤が見える…そんな感じでしょう。要するに、見える人にとって夢から醒めるとは「見えるようになる」ことなのです。
一方、目が見えない人にとって「夢から醒める」とは「何も見えなくなる」という経験です。眠っているあいだは、夢を見ているとすればいろいろなイメージが頭の中に浮かんでいます。そのように「見て」いたものが、目が覚めた瞬間にすべて消えてなくなる。たとえば怖い夢を見ていたりすると、その恐ろしいイメージがぱっとなくなって真っ暗になることで、ほっとするのだそうです。見える人と見えない人で夢そのものの違いは思ったほど大きくありませんが、夢から醒めた瞬間、片や見えるようになり、片や何も見えなくなる。ちょうど反転しているのです。
*保野孝弘ほか「視覚障害児・者の睡眠行動に関する研究」『川崎医療福祉学会誌』Vol. 6 No.2, 1996, pp. 223-236
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登録はこちら1979年東京都生まれ。東京工業大学リベラルアーツセンター准教授。専門は美学、現代アート。もともと生物学者を目指していたが、大学3年次より文転。2010年に東京大学大学院博士課程を単位取得退学。同年、博士号を取得(文学)。日本学術振興会特別研究員などを経て現職。主な著作に『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社)、『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』(水声社)、参加作品に小林耕平《タ•イ•ム•マ•シ•ン》(国立近代美術館)など。