西洋絵画と日本絵画の違いを端的にいえば、「立体的」か「平面的」かに尽きる。その重要な表現法として「影」の有無がある。「影」による明暗のつけ方によって絵は立体的にも平面的にもなる。
それではまず、西洋絵画の影表現をみてみよう。
本コラムで何度も触れているように、イタリア・ルネサンスは、神の視点を人の視点に取り戻すムーブメントだった。
ルネサンス以前の画家たちは、神が見た(と思われる)視点を再現することに比重が置かれていた。それは、神が天の高みから地上の隅々まで光を照らしているはずなので、地上は影のない世界となる。
そのイメージに近いものが映画にあった。スタンリー・キューブリック監督の映画『2001年宇宙の旅』(1968)のラスト、ベッドの前にモノリスが屹立しているシーン。そこは、いたるところに光源があって、影のない白い部屋になっていた。モノリスは、映画のなかで神のごとく君臨していたので、そのイメージは当たらずとも遠からずだろう。
▼図1──『2001年宇宙の旅』のワンシーン、影のない部屋。
その神の視点一辺倒だった時代に、すでに触れたようにペストやら天変地異やらで、神の権威が揺らぐ。神は、ひたすら祈っても助けてくれなかったからだ。
その不満を糧としたイノベーションがイタリアから興った。それがイタリア・ルネサンス。その中心となった表現が遠近法である。
もちろん、中世ヨーロッパ以前にも遠近法的表現はあった。古代ローマの壁画などに残されている。しかし、キリスト教権力で支配された中世は、前述したように平面的な表現を好んだ。光で満たされた表現である。
そして、ルネサンスがはじまった。遠近法とは、画家自らの目で描く対象を精確に把握しようとする技法である。その技法に数値を与えてリアルにしたのが、建築家フィリッポ・ブルネレスキとレオン・バッティスタ・アルベルティ。精確な遠近法が建築家のなかからでてきた、ということは象徴的だった。神の判断よりも人間の判断を重視することで、より精確なイメージが建築に必要だったからだ。
▼図2──遠近法理論で精確に描かれている。カルロ・クリヴェッリ〈受胎告知〉1486。(『イタリア・ルネサンス絵画』サラ・エリオット、森田義之/松浦弘明(訳)、西村書店1994)
遠近法を使うことによって、それまで追い求めてきた、見たままを精確に描くことにいっそう近づいた。しかし、その遠近法がレベルアップするのは「影」の表現が登場してから。
その功績は、やはりレオナルド・ダ・ヴィンチに帰する。レオナルドの膨大なデッサン・ノートには、斜線で表現された影が多く残されている。この影によって、それまでの単色画とは一線を画し、絵画にリアリティが加わった。
▼図3──ハーフシャドーを斜線で表現しているレオナルド・ダ・ヴィンチ〈若い女(天使?)〉1483-84頃。(『万能の天才 レオナルド・ダ・ヴィンチ』アレッサンドラ・フレゴレント、張あさ子(訳)、ランダムハウス講談社、2007)
そして、この斜線表現はアルブレヒト・デューラーに受け継がれた。
▼図4──斜線によるシャドー表現が際立つデューラー〈ヨハネ黙示録 黙示録の四騎士〉1498。(『gq No.1』、ジイキュウ出版社、1972)
一方、レオナルドは、影表現にもうひとつ功績を残した。それは、「キアロスクーロ」とよばれた、濃淡のつけ方だ。
キアロスクーロは、イタリア語で「明暗」という意味。明と暗の境目をはっきりさせるのは難しい。微妙に重なりあっているからだ。斜線の影もその輪郭をあいまいにしている。キアロスクーロは、そのあいまいさをグラデーションで表現する技法。レオナルドはこれで〈モナリザ〉(1503〜6)を描いた。いまでは当たり前の、わざわざ技法というほどのものではないが、当時は極めて新鮮だった。
▼図5──キアロスクーロを駆使しているレオナルド・ダ・ヴィンチ〈モナリザ〉(1503-06)。(「モナリザ」wikipedia)
このキアロスクーロを徹底的に強調したのがカラヴァッジョ。カラヴァッジョは、プロテスタント派と争っていたカトリック教会から、インパクトの強い絵を描け、と命じられ、陰影を極端に強調したとされる。このことで対象が神秘的になった。カラヴァッジョは、カトリック教会の要請に見事に答えたといえる。
▼図6──暗闇の一部に光が当てられたようなカラヴァッジョ〈ゴリアテの首を持つダビデ〉1609-10。(「ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ」wikipedia)
カラヴァッジョの陰影表現は、その後、ジョルジュ・ラ・トゥール、レンブラント・ファン・レイン、ヨハネス・フェルメールらに影響を与えた。
余談ながら、この陰影表現の末裔が、ビートルズのアルバム・ジャケットに使われた、カメラマン、ロバート・フリーマンによるモノクロ写真(『ウィズ・ザ・ビートルズ』)。
そこでは漆黒のなかで、ビートルズ4人の、ハーフシャドーの顔が浮かんでいる。ビートルズたちは黒いタートルネックを着て撮影に臨んだという。顔だけが浮かび上がっているのでコラージュのようにも見えるが、一発写真。
▼図7──顔だけが浮かび上がっているザ・ビートルズ『ウィズ・ザ・ビートルズ』のジャケット、1963。
ビートルズがまだ下積みのハンブルク時代、親しかったカメラマン、アストリット・キルヒヘアがこのような陰影を際立たせた写真を撮っていた。ジョン・レノンはフリードマンに、キルヒヘアのような陰影の強い写真にしてくれ、とオファーをだしたそうだ。
その後、この表現を多くのミュージシャンも真似るようになり、アートの世界にも波及して、モノクロのハーフシャドウの写真といえば、「ビートルズ的」といわれるようになった。
ここで日本絵画の平面性についてみてみよう。西洋画との違いは、やはり一神教と多神教の違いに関わってくる。いや、遠近法的世界と点景的世界といったほうがよいかもしれない。
遠近法的世界は、焦点が2つある場合もあるが、それを見る視点はただひとつ。画家の視点だ。一方、点景的世界は、多くの視点が空間を超えて結びついている。つまり、見る視点は、どこから見てもよいほどいくつもある。
ルネサンス以前では、神が隅々まで照らしているので影がなかった、と述べた。日本では、ルネサンス以前と表現は似てはいるが、神による光ではなく、多くの視点のために影は一様でなくなったことで影表現が生まれなかった。いや、影のことを考えなかった、といったほうが近い。
▼図8──平面的に描かれた源氏物語絵巻の一葉〈宿木一〉平安時代末期。(「源氏物語絵巻」wikipedia)
ここには、「奥」のところで述べた、禁忌意識もあった。奥に入っていくことを禁じたことによる平面性である(高階秀爾『日本人にとって美しさとは何か』)。
もうひとつ、ひらがなや家紋に見られるように、平面性に基づいた形への執着があった。リアリズムよりも、形が持つイメージが重視されたのだ。
特にひらがなの登場は、漢字だけの堅苦しい世界に生命(アニマ)を与えた。
奈良時代からはじまって、平安時代に花開いた文化がある。模様のある紙を貼ったり、継いだりして、風景のイメージを表現した「料紙」とよばれた紙を下地に、歌人がそこに和歌などを記した文化である。
下地の自然のイメージと和歌が相乗効果で詠われた世界を濃密にする。これが料紙の効用。ここではいわゆる書道芸術とは別に、文字、特にひらがなを絵画の一部ととらえていたから表現の深みが増したのだった。
▼図9──料紙に描かれた平安時代の歌人の和歌。源重之の家集『重之集(本願寺本三十六人家集)』12世紀はじめ。
平安時代の和歌は分かち書きとか、散らし書きとよばれた、自由な文字レイアウトを基本としていた。そこで重要となるのは「余白」である。文字と料紙以外の余白の有り様によって、和歌はよりいっそう際立ってくる。
言い方を変えれば、和歌の、文字通り輪郭が浮かび上がる。その輪郭とはまさに形であり、その形を際立たせるのが余白である。
そして、余白によって形を際立たせようとしたところから、必要なものだけを描く、という方向に向かう。俵屋宗達や尾形光琳などの、不必要だと思われる背景を塗りつぶすか、カットして対象だけを描く手法である。
▼図10──背景を金箔で覆って風神雷神を浮かび上がらせている俵屋宗達〈風神雷神図(建仁寺蔵)〉江戸時代初期。(「俵屋宗達」wikipedia)
▼図11──尾形光琳も俵屋宗達と同様、背景を金箔で覆っている。尾形光琳〈燕子花図〉18世紀はじめ。(「尾形光琳」wikipedia)
俵屋宗達や尾形光琳などの、モティーフを際立たせるために背景をカットする方法を、美術史家の高階秀爾さんは、「切り捨ての美学」(高階、前述書)とよんだ。
背景を切り捨てることでモティーフの形はクリアになる。形を際立たせるという意味においては、これは西洋の博物画と重なる。
西洋の博物画は、観察し、記録するために、科学的知識をもとに描かれた。美しい博物画も多いが、目的はあくまで記録である。一方、江戸時代の絵画は、観察によるところは同じだが、目的が違った。形が持つ美を浮かび上がらせることである。
そして、前述したように、奥に踏み込まない(立体的にしない)で、輪郭が持つ力を強調する。この延長に、輪郭を重視した浮世絵の表現法があった。影が入り込む余地はなかったのだった。
明治になって、ヨーロッパから西洋画が入ってきた。影がついて立体的に見える写実画である。画家たちは衝撃を受けて、西洋画に走った。
平面的な表現の浮世絵の価値が下落したのもこのころ。明治政府が先頭に立って、江戸時代の文化を否定しようとした。
それらは、日本国内では価値が認められていないので、海外に二束三文で売られた。だから当時の絵画の主なものの多くは、欧米の美術館の所有になってしまっている。
特に浮世絵の扱いは、ひどいもので、ヨーロッパに輸出する陶磁器などの包み紙として使われたりした。これが、ゴッホやモネの目に止まり、皮肉にもジャポニスム(日本びいき)・ブームが起きた。アール・ヌーヴォーの流行も、日本の植物文様に刺激されたといえる。
▼図12──背景が浮世絵の模写で埋められている、ゴッホ〈タンギー爺さん〉1887。(「フィンセント・ファン・ゴッホ」wikipedia)
▼図13──着物、扇子、団扇と日本趣味が全面に満ちているモネ〈ラ・ジャポネーズ〉1876。(「クロード・モネ」wikipedia)
日本では、西洋から入ってきた写実画が隆盛を極めていったが、西洋では皮肉にも、ジャポニスムの影響などもあって、平面画をもととした20世紀に花開く抽象画の方向に向かう。2次元絵画である。
地図記号は、記号というよりも絵によるアイコンとしてはじまった。輪郭線を持つ具象画である。
歴史に残る地図のアイコンは、羅針盤が航海に使われるようになった14世紀後半のスペインの「カタロニア地図」に見られる。
カタロニア地図とは、マルコ・ポーロの『東方見聞録』や十字軍遠征などで地理の知識が増えたところから描かれるようになった地図。カタロニア語(スペイン、カタルーニャ地方の言語)からその名がついた。
カタルニア地図は、方位を示すための羅針図(コンパス・ローズ)の放射線がはじめて地図に描かれたことでも知られている。そこに、帆船や、イスラムの王スルタン、建物(教会、モスク)、国旗・豪族旗、らくだなどの写実的なアイコンを散りばめている。
▼図14──東地中海周辺を描いたカタロニア地図の一部、1375。(「Catalan Atlas」wikipedia)
ただし、地図制作者の関心は、自然がなす地形よりも、誰の領土か、ということに向けられていた。1490年にポルトガルで描かれたアフリカ沿岸地図では、十字架の記されているところがある。ポルトガルが発見した土地領有の印だ。
▼図15──ポルトガルの航海士、ディエゴ・カンが描いた、アフリカのギニア東岸からサンタ=マリア岬までのポルトラノ図(沿岸地図)。1490ごろ。(『地図の歴史』織田武雄、講談社、1973)
このカタロニア地図でも、同じような建物は似た絵が繰り返されていたが、16世紀には、その手法は加速し、写実的ながら、同じ内容を持った絵は同じ絵を流用するようになった。記号化がはじまったのだ。
そして、17世紀後半、ルイ14世が、測量に基づいた精確な地図作成を命じた。ルイ14世の時代は、ヨーロッパ一の強国となるなど、フランスの絶対主義の最盛期。ルイ14世は、自らの領土を確認して自己満足に浸りたかったのかもしれない。
そこで、パリ天文台長のジャン・ピカールがパリを通過する子午線の測量をはじめ、彼の死後にはカッシーニ一族にまかされ、カッシーニ一族の地図づくりがはじまった。
カッシーニ一族4代は、ほぼ一世紀をかけて地図づくりにまい進し、ここにおいて、近代地図の基本的な表現方法が確立することとなった。もちろん、従来の写実的な図は消え、教会、建物、風車、森林などあらゆるものが記号化されていた。
ちなみに、カッシーニ一族は、三角測量で地図をつくったため、地図の至るところに計測した三角が描かれた。その網の目状から、3D画像における網状の構造を示した図も三角法でつくられるところから、「カッシーニの三角測量」とよばれているらしい(ミカエル・ロネー『ぼくと数学の旅に出よう』)。
▼図17──ジョヴァンニ・マラディとジャック・カッシーニによるフランスの三角測量図(部分)、1744。(『地図を作った人びと──古代から観測衛星最前線にいたる地図製作の歴史』ジョン・ノーブル・ウィルフォード、鈴木主税(訳)、河出書房新社、1988
明治政府は、近代国家に生まれ変わるにあたって、国の地図作成の必要性を痛感した。特に軍用として重要だったから。江戸時代の地図は浮世絵師の仕事だったが、明治では洋画家が担当した。
そこで地図のベースは、明治6年(1873)年、フランスの地図を参考にした彩色地図。そこに、ドイツ式を参考にした地図記号が加わった。ドイツにない神社や温泉はオリジナルでつくった。
▼図16──『地図記号うつりかわり──地形図図式・記号の変遷』日本地図センター(辺)、日本地図センター、1994
明治18年(1885)発売の5万分の1の地図では、75種の記号が掲載された。これが明治後期ともなると一挙に300種まで増える。日本には家紋という記号をつくってきた歴史があるので、記号化には自信があったのだろう。ちなみに、オリンピックにおける競技のピクトグラムは、1964年の東京オリンピックではじめてつくられた。
こんなにたくさんあった地図記号も、太平洋戦争後、半分の150種に減り、定着する。といっても、ドイツやスイスの地図では略字も含めてそれぞれ130種、120種と日本の記号数は多く、記号へのこだわりは強い。
地図記号というものは、もともと真上か真横から見て輪郭をとったものが多く、立体的に描くというようなことはほとんどなされない。ところが、日本の地図記号のなかには注目すべき表現があった。立体的に見えるようにする工夫である。
明治になって、西洋画の影響で、影を使って立体的(奥行きがある)に見えるように描かれた絵画が増えたことはすでに触れた。地図記号も、彼ら洋画家がデザインしたことで、立体性がつけ加えられた。つまり記号に、影がつけ加えられたのだった。
たとえば病院記号は、明治24年(1891)に初登場したとき、十字記号の右・下側のアウトラインが左より少し太く描かれている。その後、十字は同じ太さになったが、その周りについた枠の右側を太くしている。
▼図18──病院の地図記号の変遷。左:明治24年(1891)版、中:明治28年(1895)図式、右:昭和30年(1955)に制定された現在の図式。(『et(エ)──128件の記号事件ファイル』松田行正、牛若丸、2008)
裁判所記号は、江戸時代の判決が書かれた立て札がモティーフとなっていたが、それも立体的に見えるように右側を太くしている。錠前を象った刑務所(のちにパノプチコン・タイプとなり1965年に廃止)の錠前も立体的だ。
▼図19──上、裁判所の地図記号の変遷。上左:明治18年(1885)図式、上右:昭和30年(1955)に制定された現在の図式。
下、刑務所の地図記号の変遷。上左、明治18年(1885)図式、上右、明治28年(1895)図式。昭和40年(1965)に廃止。(『et(エ)──128件の記号事件ファイル』松田行正、牛若丸、2008)
圧巻は、記念碑・煙突。どちらも厚みプラス、地面にその影が落ちている。影の長さを見ると、太陽が天頂に近い昼前後と思われる。
▼図20──上、記念碑の地図記号の変遷。左、明治16年図式、右、昭和35年(1960)に制定され現在に至る。
下、煙突の地図記号の変遷。左、最初の煙突記号は、煙突を真上から見たものだった。中心の点は円のなかが詰まっている、という意味。漢字の「日」や「月」ももともとはなかが横線ではなく点で、これも中身がある、という意味。
そして、中、煙突に自体の影と地面に落ちた影がつく。右、昭和35年(1960)に現在の均等な線のものになる。(『et(エ)──128件の記号事件ファイル』松田行正、牛若丸、2008)
地面に落ちる影は、畑や樹林にも適用された。広葉樹林・針葉樹林・ヤシ科樹林・桑畑だ。しかも、広葉樹林・針葉樹林・ヤシ科樹林の影は、グラデーションのように、徐々に小さくなる三点リーダー「…」で示され、のちに横線のみとなった。
▼図21──広葉樹林・針葉樹林・ヤシ科樹林・桑畑のそれぞれの地図記号の変遷。左側が明治・大正・太平洋戦争前。右端が昭和40年(1965)に制定され現在に至る記号。(『et(エ)──128件の記号事件ファイル』松田行正、牛若丸、2008)
立体性を拒否してきた日本の表現法のなかに、西洋画の影響で、立体性が入ってきた。しかし、それまでの平面性も捨てがたい。そこで登場した表現が、線に強弱をつけたり横線による影表現である。
ちょうど、明治に欧米からヨコ組みが入ってきたとき、ヨコ組みもどきとして、右から左に読む一行一字のタテ組みを採用したことに似ている(別稿で詳述する)。影や厚みを持った記号は、いわば立体もどきである。
また、地図記号というものは、シンプルであればあるほど見やすくなる。平面性は欠かせない。そこに影らしきものという微妙なニュアンスをつけ加えたことは、一休禅師が掃き清められた庭にわずかな花びらを散らすこととつながっているようにも感じる。
この「微妙なニュアンス」は、松岡正剛さんに言わせれば、「ひとつまみの不純物」ということになりそうだ。「ひとつまみの不純物こそ全体の純粋の加速装置である」(松岡正剛『雑品屋セイゴオ』)。ほんのちょっとの不純物によって全体が生き生きとしてくる、というのである。その不純物が、記号にとってさして必要のない厚みや影。その不純物が単なる地図記号に深みをもたらしている。
また、植物テーマの家紋のほとんどがコンパスひとつで描けるというのを子ども番組で観たことがある。ほんのちょっとした曲線も円の一部なのだ。この地図記号も、厚みや影、ディテールをなおざりにしない感性の延長上にあるように感じる。
ちなみに、地図記号も永遠に使われるわけではない。需要が減るなど、時代に合わなくなって廃止された記号、時代の要請で新しく生まれた記号もある。
たとえば、戦後、新しく生まれた記号としては、博物館、図書館、老人ホーム、電子基準点など。戦後数十年で廃止された記号は、火薬庫、宮殿、専売局、水車、銀行、古戦場、都道府県庁、牧場、電報・電話局、工場、採石地、重要港、その他の樹木など。
図の一番下の桑畑の地図記号も2013年に廃止され、桑畑は、「v」のような畑の地図記号に代替されることとなった。
桑は、蚕のエサとなる。戦前の農家の約4割は桑畑を持っていたという。蚕が吐きだす糸が生糸になり、灰汁などで煮ると絹糸になる。
日本の製糸業は、明治以後、世界でも有数の輸出産業となり、日本の近代化を支えた。
したがって桑畑は、生活を支える大事な「おカイコ様」を育てるための畑であり、人びとは桑畑を神聖視した。何かとんでもない災厄が降りかかってきたときに唱える、例の「くわばらくわばら(桑原桑原)」も、桑畑の神に助けを求めるおまじないだという説もある(佐藤健太郎『世界史を変えた新素材』)。
ところが化学の発達で、ナイロンやポリエステルなどの合成繊維が発明され、絹の需要が大幅に減った。そのため桑畑をほかの畑に転用したり、残された桑畑の管理も滞るようになった。そして、とうとう地図からも消えた(佐藤、前掲書)。
参考文献
『デザインってなんだろ?』松田行正、紀伊國屋書店、2017
『RED──ヒトラーのデザイン』松田行正、左右社、2017
『日本人にとって美しさとは何か』高階秀爾、筑摩書房、2015
『線の冒険──デザインの事件簿』松田行正、角川学芸出版、2009
『地図の歴史』織田武雄、講談社、1973
『ぼくと数学の旅に出よう──真理を追い求めた1万年の物語』ミカエル・ロネー、山本和子/川口明日美(訳)、NHK出版、2019
『et(エ)──128件の記号事件ファイル』松田行正、牛若丸、2008
『雑品屋セイゴオ』松岡正剛、春秋社、2018
『世界史を変えた新素材』佐藤健太郎、新潮選書、2018
おすすめ記事と編集部のお知らせをお送りします。(毎週月曜日配信)
登録はこちら書籍を中心としたグラフィック・デザイナー。「オブジェとしての本」を掲げるミニ出版社、牛若丸主宰。「デザインの歴史探偵」としての著述にも励む。著作は、「和」のデザインとして、『和力』『和的』(どちらもNTT出版)。近年の著作として、『デザインってなんだろ?』(紀伊國屋書店)、『デザインの作法』(平凡社)。歴史的デザイン論として『RED』『HATE!』(どちらも左右社)など。