前の論考「パンデミックをつくったのは誰か」では、「新型コロナウイルス」という“自然現象”と「パンデミック」という“社会現象”の二つを分けて、「まなざしのデザイン」の観点から考えた。その中で、今回のパンデミック現象は新型コロナウイルスそのものよりも、ウイルスの情報に反応して起こる社会の崩壊の方が危ないことにも触れた。新型コロナウイルスの危険度についてはまだ未知数な部分はあり、甘く見てはいけないのはその通りなのだが、だからと言って恐怖に怯えて冷静さを欠くと、ますます社会は混乱する。
こんな状況下における私たちのまなざしはいつも以上に何かにとらわれやすい。自分が見たいもの、あるいは見たくないものに沿った情報ばかりにまなざしを向けていないかどうかは確かめた方が良いかもしれない。不安や恐怖といった“感情”にとらわれてしまうと、何を信じて良いかわからなくなるため、根拠のないフェイクニュースや陰謀論に引っかかってしまいがちだ。それ以上に意識せねばならないのは、これまで“信頼に足る”と思われてきた機関や組織から流れてくる情報ですら注意深くなる必要があるということである。これまで当たり前だと信じてきたことが私たちのまなざしを曇らせていない保証はどこにもない。
私たちは情報を通じてしか出来事を知ることができない。だからこそ流れてきた情報が事実かどうかには注意を払う必要がある。特にウイルスは目に見えないものである以上、自分か周りの人が直接体験する以外ではその実態を知る方法がない。多くの場合、判断の材料になるのは、“何かの媒体”で発信される、“誰かが調べたデータ”であり、それもある部分に“フォーカスされた情報”だからだ。しかし、情報というのは純粋な「事実」だけでなく、ある立場から、ある「印象」を持って報じられることもある。それに、私たちがどのような「反応」として受け止めるのかが積み重なって、社会の空気が導かれていくのだ。
私たちはこの数カ月の間に陥ったパニックに自らも加担してきたことで、パンデミックという現象は既に起こってしまった。そして自分たちを自ら分断する選択をしたことで、社会はすでに機能不全に陥ろうとしている。これをきっかけにこれまでの世界の形が崩壊し、大きく変わっていくのは避けられないだろう。まだ実感は薄く思えるかもしれないが、おそらく1929年の世界恐慌の時よりも、そして2008年のサブプライムショックの時よりも、この新型コロナウイルスによるパンデミック後の方がより大きな転換が迫られるかもしれない。ウイルスの問題が首尾よく解決したとしても、もう元の世界が二度と戻ってくることはないと考えた方が良いだろう。
だがいつの時代にもいえるのは、世界は常に変化していて止まることはなく、前の時代が再び戻ってきた試しはないことだ。それは必ずしも悪いことばかりとは限らない。かつての日常は崩壊していくかもしれないが、見方を変えればそれは「次の日常の始まり」でもある。そんな始まりの時代を迎えるのに、私たちがこれから何を見つめていくのかはとても重要だ。
だから、ここで真摯に振り返らねばならないのは、これまでの自分の生き方や社会のしくみが全て良かったのかどうか、ということである。もちろん私たちはそれなりに頑張ってきたし、ささやかな幸せや豊かさを感じてきた部分もあるだろう。しかし自分の生き方に何の矛盾を抱えずに全て上手くやってきたとは必ずしもいえないだろう。そして、その理由として自分の努力が不足していたことだけではなく、歪な形をした社会全体のしくみの中でどうしようもできなかったことも多かったのではないだろうか。
私たちはこれまで経験してきたことに基づいて今を判断し、その延長線上に未来を想像することしかできない。しかし今私たちが見ているものは、これまでに経験したようなことがないことである。そんなときには、これまで知っていたはずのものがまるで違ったものに見える「風景異化」という現象が起こりやすい。これまでの常識や信念という色メガネが外れ、自分と世界との関係を新鮮に捉えるきっかけがやってくるのである。そこで、もし私たちがこれまでの常識では受け入れられないようなことをしっかりと受け入れて、まなざしを大きく転換させることができれば、私たちの未来は明るい方向に向かうに違いない。これから迎える社会の崩壊はたとえ避けられなかったとしても絶望的なことばかりではないだろう。それは、これから私たちが新たな社会を選択できるチャンスでもあるのだ。
この世界の全ての物事は、とどまることなく移り変わっていく。だが、その中でも特に急激な変化が現れる“クリティカルポイント” をまさに私たちは迎えようとしている。そんな時代の大きな転換点において、次に進むべき方向を予測するには、どのような補助線の下に考えればよいのだろうか。具体的な予測に関しては、専門家たちが様々な観点から立てているが、時代が進んでいく方向性を見定めるためにはより大きな視座から眺めねばならない。現代に生きる私たちは、世界が直線的に進むと考えがちだ。しかし長い歴史においては、時代は循環するという考え方が主であった。
古代中国では世界の変化を予測する方法として「易」という統計的な理論が生み出された。その根本的な原理は「陰」と「陽」という二つの性質の違うものである。例えば女と男、夜と昼、植物と動物のように物質的なものにもこの陰陽の性質が当てはまるが、静と動、遠心力と求心力、収縮と膨張、下降と上昇などのように、動きや方向などにも同じく陰陽の性質がある。この陰と陽はどちらか一方が正しいというようなものではなく、どちらも補いあって二つで対になっている。
その二極の間を往き来しながらあらゆる物事は移ろっていくと易では考えるのだが、陰と陽がどこかの時点で急に反転してその方向を変えるタイミングがあるとされる。そのポイントを超えるとこれまでとは全て反対の方向へ物事は進み始め、それまで正解だったことが正解ではなくなるのである。それはあたかも上に放り投げたボールがあるところで止まり、今度は下に落ちてくるようなものである。その急な方向転換は自然現象にも社会現象にも当てはまるが、進む方向が変わっているのに、これまでの方向へずっとまなざしを向けていると、目指すものはどんどん遠ざかっていく一方だ。
2020年というこのクリティカルポイントを機に、私たちの文明の方向性もこれから一気に反対の方向へ向かおうとしている。その方向が変わり始める兆しは前々からあったが、特に21世紀に入ってからの20年間はそれが顕著に現れたように思える。多くの人は、世界がこのまま続けば私たちはますます貧しくなるという矛盾を感じていたのではないだろうか。9.11から本格化したテロの恐怖。リーマンショックに代表される金融の暴走。ウォール街の座り込み運動で浮き彫りになった格差の拡大。福島の事故をはじめとするテクノロジーの倫理問題。相次ぐ災害に見られる地球環境問題。ポピュリズム政権の台頭と民主主義政治の矛盾。協調性を失い機能しなくなった国際的枠組み。
文明が壊れていく足音が徐々に大きくなる中で、今回の新型コロナウイルスを発端とするパンデミックの情報拡散が起こった。そしてその対策として取られた世界規模のロックダウンによって、世界は完全に陰と陽が反転する瞬間を迎えたといえないだろうか。もしそうであれば、流れは正反対に進み始める。これまで正しいとされていたことが、必ずしも正解ではなくなる。これまで豊かだとされていたことが貧しくなり、これまで安全だといわれていたことが、危険になるかもしれない。
何もかもが正反対に進んでいく状況の中では、これまでの自分のあり方や社会のあり方を見直さねばならないことは確かだ。だが常識的だと考えられてきたことが反転する中で、これまで賢い判断だと思われていたことが、実は愚かな判断になることもある。だから私たちは個別のものを見直すに先立って、何を大切にして、何を捨て去るのかを選択するための“価値観”を見直す必要がある。
もちろん、具体的な選択肢は常に多方向に開かれている。だからシステム自体のバリエーションは様々に考えられるだろう。しかし、その大きな“システム”を考える前に、世界へ向けている自分自身の「まなざし」の方向性に注意する必要がある。それは見つめる先の対象物のことではなく、何を見つめて、何を大切にするのかという私たち自身の価値観のことである。その見つめる方向に私たちの行動様式や思考形態は導かれ、そしてその上に政治・社会・経済のシステムや技術などが築かれていく。だからもし最初に見つめる方向を間違えると、その先の全てを間違えてしまう。
もし、私たちがこれまでと同じ方向を見続けていると、いくらテクノロジーやシステムを進めたとしても、不安も苦しみも大きくなる方向へ踏み出すことになる。だが、今回の事態と時代の方向性を受け入れて、これまでの自分のあり方を見つめ直し、まなざしを別の方に向けることができれば、きっと未来は明るいものになるだろう。その向ける視線の違いは、初めはほんの些細なものに見えるかもしれない。しかし見つめる方向が少しでもズレると、そのずっと先の方に見える風景は大きく変わってくるのだ。だから私たちはここで冷静に自分のまなざしを見つめ、自覚的にどちらを見つめるのかを選択することが大切だ。
私たち個人が世界に向けるまなざしを選択することは人類全体の話でもある。私たちの意識が集まることで社会の価値観は決まり、私たち一人ひとりの選択によって、これからの社会は導かれていくからだ。だから、ここではこのパンデミック後に生きる私たちが向ける「まなざしのABC」の選択肢と、その先に見える風景について考えてみたい。
初めに私たちが向けるまなざしの「A」として、“Against(対抗する)”か“Along(寄り添う)”か、どちらを向くのかの選択肢がある。Against(対抗する)の方向を向くと、全ての物事は対立的に見え、敵と味方という対立構造の中で勝負や競争をすることが正解になる。これまでの社会は、このAgainstの方向で社会や経済のシステムが築き上げられてきた。だから、パンデミック後にも引き続きこのフィルターで世界を見ることを私たちが選ぶ可能性が大きい。なぜなら今、世間で聞こえてくるのは「ウイルスと闘う」「ウイルスに負けない」というフレーズばかりだからだ。それはこの社会がウイルスを人間にとっての敵や脅威とみなして、それに対抗するという態度で動いていることを端的に表している。
だが、そもそもウイルスというのはいつの時代でも人と共にある。もし今回の新型コロナウイルスが落ち着いたとしても、ウイルスがこれからも同じように私たちの周囲を取り巻くことに変わりはない。そのウイルスに対して私たちが敵意のまなざしを向けたままだと、この先もずっと怯えて暮らしていくことになる。Againstの方を向くと、ウイルスは排除して死滅させなければならない存在になる。変異するウイルスに対抗するために薬を飲みつづけ、新しいワクチンを打ち続けねばならない。“感染者”と“非感染者”という対立構造で人々は分断されたままで、互いに不信感を抱きながら暮らしていかねばならない。
私たちは余裕を失うと、何かに対抗するまなざしを簡単に持ってしまう。それは怒りを育て、その怒りは誰かにぶつけることでさらに大きくなっていく。その相手は愚かな政策を繰り返す政治家かもしれない。家に長時間にわたり閉じ込められてストレスの溜まった家族かもしれない。騒ぎ立てて不安を煽るマスコミやワイドショーかもしれない。あるいはインターネットで自分とは異なる意見を持った者かもしれない。自粛を無視して好き勝手に出かける人たちかもしれない。しかし実のところ、怒りたい人は、「怒りたいから、怒っている」のだ。その怒りをぶつける相手は誰でも良く、その理由も実は何でも良いのかもしれない。
その対抗のまなざしは国家レベルの話でも同様だ。パンデミックになる前からG7もG20もすでに機能しない状態が続いており、今のこの状況にもWHOも各国も協調性なくバラバラに対応している。アメリカはウイルスが発生した中国を攻めることで、米中戦争の頃以上に対立構造は深まり、関係はさらに悪化するだろう。国境を閉ざしたまま右往左往するEUも足並みが揃わずに経済対策で亀裂が発生したままであり、統一通貨ユーロも今にも解体しそうだ。
この状態が進むと、各国はますます自国の利益だけを考えるようになるだろう。中国政府が3月末に、日本の米の総生産量の6倍にあたる5000万トンの米を、世界中から購入しているように、食糧が最も深刻な問題になる。それ以外でも各企業がグローバルな流通網をやめ、サプライチェーンをそれぞれの国内へ移す傾向は進むだろう。観光やサプライチェーンだけでなく製造業やサービス業などに波及していけば、互いの国同士で投資して株を持ち合うことも減っていくかもしれない。技術も分断され、それぞれの国は自国の技術をますます隠すようになるだろう。そうやって相互依存が減っていくことは、戦争の抑止力も減っていくことを意味する。
それとともに深刻なのは、国際的な枠組みが必要な問題や、地球規模の危機に対する取り組みに対して、各国の連携は上手く機能しなくなる。気候の問題、生態系の問題、テクノロジーの問題、戦争とテロの問題などに対して、人類はこれまで以上に脆弱になるだろう。以前「Eの問題」という論考を書いた際には、それらを各国が持つ「Ego(自我)」として指摘したが、もし各国がAgainstの方向を向いて対立構造に陥ると、地球の危機に対してうまく対処できるとは思えない。
しかし、もう一方の「A」であるAlong(寄り添う)の方へまなざしを向けるのならば、正解は全て反対になる。寄り添う方向を向けられたまなざしは、自分と相手のどちらか一方の勝利という対立構造を目指さない。互いを補完し合うものと考えて、調和し共生する方向を模索する。コロナウイルスですら敵ではなく、寄り添うべき相手になる。社会的距離を保ち、互いを警戒することも意味を持たなくなるだろう。
そもそも40兆個ほどの細胞を持つ私たちの身体の中には、100兆個ほどの微生物が共生していると言われている。しかも皮膚や腸内や歯垢などに住み着いているこうした微生物が私たちの健康や体型だけでなく、思考や精神状態まで司っていることが最近の研究では明らかになりつつある。まさに私たちという存在自体が、ウイルスや細菌などの微生物叢と一体であり、様々な生命の助けを借りて私たちは生きている。そのバランスが崩れたときに問題が起こるのだ。
だからより添う方向からまなざしを向けると、コロナウイルスは敵ではなく共生する相手となる。ウイルスや細菌を敵意のまなざしで排除するのではなく、どうすればうまく付き合い共に生きて行けるのかを模索することを考えるのが正解となる。感染しないようにするだけが方法ではない。感染しても自身の免疫や体内に既にいる無数の微生物とのバランスの中で、ウイルスが悪さをしないような状態を普段から作るようにする。一度感染することで体内に抗体を上手く生み出すことも、私たちの身体が持っている共生の方法である。その自然の治癒力に寄り添って生きることも、私たちには選択できる。
そもそもこうしたウイルスが人間に感染するきっかけとなったのは、人間が自然に対して歪なことをしてきたことに原因があると考える研究者も多い。切り開いてはいけない森林を開発し、行き場を失った動物たちが人間に近づくことでウイルス感染が始まることもある。また、生産性を上げるために高密度で飼育している家畜にはストレスがかかり、さらに大量に与えられた抗生物が体内の微生物叢のバランスを崩したことも原因になっているかもしれない。これらは自然に寄り添った方法だと果たしていえるのだろうか。
寄り添うまなざしとは、人と自然との関係を新しく見つめ直すことでもある。このパンデミックの影響で人が来なくなった多くの動物園や水族館が閉館に追い込まれる可能性があるという。これまで動物と触れ合う機会を提供してくれるこうした施設に私たちはお世話になってきた。しかし、これからの世界でも動物たちに檻は本当に必要なのだろうか。人間だけの都合で物事を進めるのではなく、他の生命に寄り添いながら、共生の道を模索することはできないのだろうか。それぞれの現地の生態系を守り、地球全体を豊かな動物園や水族館として見つめ直すという選択肢はないのだろうか。
そのまなざしは、災害に対しても同じように向けられる。地震や台風や洪水に対して対抗するのではなく、それが起こることを前提にした社会を考える道が私たちには開かれている。自然は常に同じような表情をしているわけではなく、動的なバランスの中にある。その動きに寄り添う方向に社会のカタチを変えていく方向へと私たちは踏み出すこともできるのだろう。
ウイルスや災害の被害は「確率的」であるが、経済崩壊による生活苦は「確定的」である。今回のパンデミックによる都市封鎖で、世界の労働人口の約8割に当たる27億人が影響を受けている。その影響で世界中の33億人の労働者の81%が、職場の全面的または一部閉鎖に直面しており、2億人近くが失業する可能性も国際労働機関(ILO)が指摘している。別の団体の報告では1日1.9ドル以下で生活する貧困層が約5億人増えるという予測もある。これまで飢餓で苦しむ人が8億人以上もいる今のシステムをこのまま続けていくと、たちまち食べていけなくなる人が膨大に増えるだろう。
現在、世界の食糧生産量は毎年26億トン以上で、世界中の人が十分に食べられるだけの食糧は生産されているという。もし各国が本気で寄り添うまなざしを持つことができれば、その延長線上には戦争も国防もなくなる。2019年の世界の防衛費は1.73兆ドル(約190兆円)にも上るが、互いに対抗するために毎年使っていたそのお金を、全て飢餓と貧困の救済に使うことを選べばどうなるだろうか。
この世界に今必要なことは、起こってしまったパンデミックの責任を問い正すことではない。こんな時だからこそ、自分だけのことを考えて互いに対抗心を燃やすのではなく、困った人に寄り添っていくことが大切になるのは、子供でもわかる理屈だ。このパンデミック後の世界では、私たちはこれまで以上に寄り添うことが必要になることはいうまでもないだろう。
私たちのまなざしの「B」は、“Better(より良く)”なのか、“Balance(バランス)”なのかの選択である。これまでの世界は、Betterつまり、より良くなることを目指してきた。今日は昨日よりも良くなり、明日は今日よりももっと良くなる。そうやって常に良くなることを目指して私たちの文明は努力を重ねてきた。しかし、どこまで行けば終わりがくるのだろう。今あるものに満足できずに、もっと良い状態を目指すことが正しいという前提で私たちはやってきたが、それはこの先の社会でも本当に正しいのだろうか。この“より良くなる”ことを目指すまなざしを反転させない限り、この先どんなシステムやテクノロジーを採用しても永遠に満足できない可能性がある。
私たちの全てのシステムやテクノロジーはすべて、このBetterを目指してどんどん発展してきた。もっと便利で良いものをと膨大な種類のものを増やしてきたが、その結果、何を選択すれば良いのか途方に暮れてはいないだろうか。私たちが楽しく生きるために、果たしてこれほど多くのバリエーションが必要なのだろうかどうかは疑問である。しかも消費の中心がデジタルへと移るにつれて、商品もサービスもアップデートされていくスピードは加速している。今あるモノで十分なのに、すべてのものは時代遅れになっていき買い替えざるをえなくなる。気がつけば私たちは、毎年何かを取り替えねばならないようなことになっていないだろうか。
私たちの欲望はとどまることを知らない。だがとりわけ厄介なのは、欲は私たちにとって気分が悪いものではないことだ。食べたいときに食べることができて、欲しいときに欲しいものが手に入る状態は誰にとっても心地よい。だからより多くを手に入れることが正解だったし、そのためにシステムを発達させてきた。しかしいつのまにか、“欲しいもの”ばかりに囲まれていて、本当に“必要なもの”が手元にない状態になっていないだろうか。気がつけば何でも購入していて、家で生産しているものは何もなくなってしまった。そして生活の中には、あったら便利で楽しいけど、そこまで必要のなかったものばかりかもしれない。そんなことにもこのパンデミックで気づいたのではないだろうか。
今、家に閉じ込められている私たちは、本当の自由とは何かを見つめ直す時間を持っている。これまではより多くの場所にアクセスできることが自由だと感じていたが、今回移動が制限されることで、アクセスそのものが本当に必要だったのかどうかを考え始めているかもしれない。毎日オフィスに通って働くということすら、必要だったのかどうか分からない仕事もあるだろう。それ以上に、働くということの意味そのものすら、私たちは今考えさせられている。人にとって働くことは大切だが、それは“雇用”を意味するだけではないだろう。
これまでの流れが反転するパンデミック後の世界は、よりシンプルな方向を選択する方が正解になる可能性が高い。欲しい商品やより便利なサービスを生み出すために人生のほとんどを費やすのではなく、本当に必要なものを生み出すことが大切だと、私たちは気付き始めている。食べること、眠ること、微笑んで暮らすこと。そんなシンプルな生き方をするのに本当に必要なものはそれほど多くはない。そして大切なことはそれほど頻繁にアップデートされないものだ。
反転する世界では、これまでの文明の中心から遠くにいる人ほど自由に近くなる。生活のほぼ全てをシステムに依存して生きることができた豊かな者ほど、このままシステムが崩壊することで多くを失うかもしれない。一方で、貧しくてシステムから距離が遠く、何でも身近なところでやらざるを得なかった者ほど、自由になっていくだろう。Better(より良く)を目指すあまり、適正なBalance(バランス)を欠いた社会の矛盾が今、ここで清算されようとしているのかもしれない。
これまでと反対方向に進み始めているのに、前と同じ方向にまなざしを向けて「より良くなりたい」と願っていると、きっとどんどん苦しくなっていく。だから今こそ私たちは問いかけることができる。本当に商品やサービスのバリーションはこんなに多様性が必要なのだろうか。本当に通信速度を上げるために5G、6Gとより強い電波を飛ばす必要があるのだろうか。本当に私たちの五感を喜ばせる刺激的な映像や音をこんなにも次々と生み出す必要があるのだろうか。まなざしを切り替えて、より多くを望まず無駄なものを省いていき、適正なバランスはどこかを見つめる。きっとその方が本当の意味でBetterな状態になっていくだろう。
私たちのまなざしの「C」は、“Control(管理する)”なのか、“Cooperation(協力する)”なのかの選択である。これまでの国際的な流れとこのパンデミックに対する国家や人々の反応を見ていると、濃厚なのは前者だ。このような災厄が二度と起こらないように権限を集中させてControl(管理)する方向を各政府が選択する可能性は高い。この選択は遠い将来ではなく、すぐにやってくるかもしれない。しかも分断された私たちが恐怖にまなざしを奪われて判断力を失っていくほど、一方的にコントロールする権限が誰かに渡ってしまうことになる。
その決定が向かう先は、全体主義的で中央集権管理型の社会である。それが“国家規模”で行われるか、それとも“世界規模”で行われるかはわからない。ただそのための技術的・社会的な条件は、このパンデミックを理由に主要な各国ではほぼすべて整ってくるだろう。今や私たちは監視され、管理されるには最適な時代にいる。これまでの歴史の中で、これほど管理がしやすい時代はなかったと間違いなくいえるだろう。それは、この10年の間に技術的にも社会的にも一気に整ってきたIT技術とスマホの普及、そしてトラッキング技術の進歩によるところが大きい。今後5Gが整備され、AIが進化すればさらに進むだろう。
その管理体制を最も体現している国は中国ではあるが、デジタル決済と、位置情報システム、顔認証技術と何億台もある監視カメラとによって、ほぼ13億人全ての人々の活動を追跡することが可能である。もちろん技術的には中国以外でも、すでに私たちが今どこにいて、何を買っていて、どんな情報を閲覧しているのかは、すべて把握することが可能だ。スマホやパソコンといったデジタル世界での活動が増えるほど、私たち自身の情報は追跡される。その結果、私たちがどういう関心を持っていて、どんなことを考えているのかは今やAI(人工知能)の方がよく知っている。
だから私たちがControlの方向を選べば、プライバシーなどという言葉が死語になるような管理社会が実現する方向へ進んでいくかもしれない。そうなると次にやってくるのは「生体情報の管理」である。脈拍や脳波、血圧や心拍数といった私たちが身体の中で無意識で行っている活動は、私たちですら把握していない。それを絶えず追跡することができれば、私たちがどういう対象に快楽を感じ、何を恐れるのかが手に取るように解析することができる。生体情報は嘘をつくことができない。
もし、生体情報を誰かが管理する方向になれば、その情報を持つ者は私たちの健康や精神の状態について私たち以上に把握することが可能になる。その情報は解析され傾向が把握されることで便利になるというメリットもあるが、もし信用できない者が管理すれば私たちの不安や欲望もコントロールされる方向へ進む可能性もある。私たちのまなざしは、私たちすら気づかない無意識のレベルで操作される条件が整うだろう。その情報を手にする「誰か」というのは政府かもしれないし、企業かもしれない。
問題が発生したときに誰かに対策を考えてもらって、その指示に従ってさえいれば良いというマインドが育つほど、権限はある特定の人々へ集中していく。もし私たちが、自分のまなざしの方向を誰かに決めてもらうようになると、コントロールの権限を他人に明け渡してしまうことになる。そうなると権限を持つ者が都合の良いようにコントロールすることを許すことになる。もし、問題ではないことを問題に仕立て上げられ、必要のない解決策に納得させられてしまっていたとしても、それに気づくことが難しくなる。
ウイルス感染の危険を予防するために、生体情報を集約して健康や行動の管理を適切に行う、というもっともらしい理由を各国政府がつけるには、今回のパンデミックというのは最高の口実である。個人の健康状態を集約して把握管理し、何かあったときに対応できるようにと、感染者追跡アプリや腕時計型端末が義務化されるのかもしれない。生体情報を管理するための機器を皮膚下に埋め込むことを推奨する可能性もある。あるいはワクチンを打つ際に、一緒にマイクロチップを注入する可能性もあるだろう。
企業であれば、ソリューションや便利さというものを通じて生活に入ってくる。自分の健康状態を自分で把握するためのとても便利なツールであるといいながら、魅力的に見える商品やサービスの中に、私たちが生体情報を喜んでその企業に提供するようなプログラムを提案してくるだろう。もちろんそれは、彼らの触れ込み通りに役に立つ面もあるのだが、それ以上に私たちが提供するものの方が大きいはずだ。
私たちが批判しやすいのは、明らかに間違っていることや、愚かに見える行為をしている者である。だが、本当に狡猾で頭の良い者は、見えるところでそんなヘマはしない。誰もが納得しそうな魅力的な提案を装うか、誰かをスケープゴートにして皆のまなざしを集中させておいて、裏でこっそりと悪事を企むのである。もしくは、とんでもないスケールで堂々と大胆な悪事を働く。そうすると実際には悪事に見えないことを理解しているのである。明らかに悪人に見える者は、本当に愚かであるか、あるいは誰かに演出されている可能性がある。悪人を仕立て上げてそこにフォーカスさせるのもまた、私たちのまなざしをデザインしようとする詐欺師の手法の一つなのだ。
だから私たちは適切なリーダーシップが取れない政府や政治家を単に批判することよりも、Control(管理)を自らの手に取り戻し、信頼のおける人々とCooperation(協力)する選択があることも覚えておかねばならない。それを選択するためには、それぞれが自分の頭で思考して問題の本質を見抜く知恵と、実際に行動する勇気が必要になる。様々な困難を乗り越えていくのは一人では難しいかもしれないが、顔の見える人々とともに知恵を交換し、私たち自身の管理を私たち自身が行うという道は開かれているのだ。こんなときだからこそ協力し合わねばならないし、弱い者同士だからこそ協力し合わねばならない。様々な知恵を持ち寄り、大きな力に頼らず、互いを信じる勇気が揃えば、私たちはこれまでよりも自由になるだろう。
Against(対抗する)かAlong(より添う)か、Better(より良く)か Balance(バランス)かControl(管理する)かCooperation(協力する)か。これら対になった「まなざしのABC」は、私たちがこれから選択していくことができるものである。一方はこれまでの私たちのまなざしだが、もう一方はこれまでは選ぶことが困難だったまなざしである。しかし世界の進む方向が反転しているのならば、その可能性に賭けてみる価値があるのではないだろうか。ここでの選択が私たちだけでなく、私たちの子孫も自由にするかもしれないのだから。
ここで描いたそれぞれの未来はいずれも必ず起こるという「予言」ではない。むしろこうして考察することで、絶望的な予想が外れてくれればと願うための「注意書き」だ。そのことで、私たちが間違った選択をしないように意識できれば、考察した甲斐があると考えている。しかしそのためには、私たちはまなざしの向こう側に見える風景を認識するよりも先に、それに視線を投げようとする自分自身のまなざしについて意識的にデザインする必要があるのだ。
※本論考の背景を知りたい方は、筆者の「まなざしのデザイン」(NTT出版、2017)、本論考の先を知りたい方は、筆者の「ヒューマンスケールを超えて」(ぷねうま舎、2020)をご参考ください。
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登録はこちら1976年生まれ。博士(緑地環境計画)。大阪府立大学経済学研究科准教授。ランドスケープデザインをベースに、風景へのまなざしを変える「トランスケープ / TranScape」という独自の理論や領域横断的な研究に基づいた表現活動を行う。大規模病院の入院患者に向けた霧とシャボン玉のインスタレーション、バングラデシュの貧困コミュニティのための彫刻堤防などの制作、モエレ沼公園での花火のプロデュースなど、領域横断的な表現を行うだけでなく、時々自身も俳優として映画や舞台に立つ。「霧はれて光きたる春」で第1回日本空間デザイン大賞・日本経済新聞社賞受賞。著書『まなざしのデザイン:〈世界の見方〉を変える方法』(2017年、NTT出版)で平成30年度日本造園学会賞受賞。