original image: sanderstock / stock.adobe.com
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グライダーを考えてみるといい。グライダーはエンジンを持っていないから、 風上に向かって進もうとすると高度を大きく失うことになる。着陸に適した地点よりずっと風下に行っちゃったら、打てる手はひどく限られるものになるだろう。風上にいるべきなんだ。だからぼくは「夢をあきらめるな」のかわりにこう言おう。「風上をめざせ」。(ポール・グレアム「知っておきたかったこと」)
最近、柄にもなく「教養」について考えたりします。それは、著者に恵贈いただいた山崎良兵『天才読書 世界一の富を築いたマスク、ベゾス、ゲイツが選ぶ100冊』を読んでいるためかもしれません。
「天才読書」とは、それこそ「流血試合」並みにインパクトのある四字熟語ですが(熟語?)、副題にある通り、イーロン・マスク、ジェフ・ベゾス、そしてビル・ゲイツという新旧の(それぞれ1970年代、1960年代、1950年代生まれ)テクノロジー企業を率いて「世界一の富を築いた」人たちの愛読書にフォーカスした本です。
この3人を含む著名人の愛読書を一望できるウェブサイトが実は既にあり、ブックリストを作るだけなら、『天才読書』の著者が「はじめに」で書くように、完成までに足かけ3年もかかるわけはありません。それだけ時間がかかった理由についても著者は書いていますが、この本の帯にある「知性をアップデートする21世紀の教養」という文句がポイントではないでしょうか。
近年「教養ブーム」と言われ、「教養としての〇〇」というタイトルの本が数多く出版されています。そうした意味で、『天才読書』もビジネスパーソン向けの「教養本」の一つといえるでしょう。今年はレジー『ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち』も話題になりましたが、『天才読書』の著者は、お役立ちなブックガイドでありながら、なんとしてでも「ファスト教養」と一線を画す「文脈」や「幅」をマスク、ベゾス、ゲイツの3人の愛読書を通して示したかったからと推測します。
著者はこの3人全員にインタビューしたことのある貴重な経験の持ち主ですが、文章にもっとも熱を感じるのは、著者の同世代であるイーロン・マスクについての章です。実は2022年は「イーロン・マスク本」の年でもあったのですが、『天才読書』でイーロン・マスクによるTwitter買収までちゃんと触れられていることから、この本の制作が刊行ギリギリまで続けられた苦労が察せられます。
ワタシ自身は、Twitter買収後の騒動について、イーロン・マスクという人について大方批判的ですが、それはともかく彼が破天荒なイノベーターなのは認めざるをえません。『天才読書』のイーロン・マスクの章を読みながら、「世界を救いたい」「人類の絶滅を防ぎたい」とか言い出し、誇大妄想的とも評されるマスクの哲学の根底に「長期主義(longtermism)」があると分析する記事を読み、ある人物並びに今年刊行されたその人物の伝記を連想しました。
その人物とはスチュアート・ブランドであり、今回はジョン・マルコフが書いた彼の伝記『Whole Earth: The Many Lives of Stewart Brand』を取り上げたいと思います。
実は、前回の「クリストファー・アレグザンダーと知の水脈の継承」にもスチュアート・ブランドの名前が出てきますが、思えばこの文章自体「批判的継承」がテーマでした。批判的継承には教養が必要であり、クリストファー・アレグザンダーと同じく広く後進に影響を与え、また何度も転身を重ねてきたスチュアート・ブランドの伝記本自体、一種の教養本として読めるのではないかと思い当たりました。また今年は、彼の生涯を扱うドキュメンタリー映画『We Are As Gods』も公開されており、彼の仕事を回顧する時期にきたようです。
スチュアート・ブランドの名前を一般に広く知らしめたのは、スティーブ・ジョブズが2005年にスタンフォード大学の卒業式で行ったスピーチでの、ブランドが手がけた『ホール・アース・カタログ』への「私の世代の聖書のような本」「Google登場の35年も前に書かれたGoogleのペーパーバック版」という最大級の賛辞、並びにその最終号の背表紙に書かれた「Stay Hungry. Stay Foolish.(アントニオ猪木的日本語訳:元気ですか。馬鹿になれ)」の引用によってなのは間違いないでしょう。
『ホール・アース・カタログ』自体は、コミューンで暮らすヒッピーたちのDIY生活を豊かにする情報や商品という「ツールへのアクセス」をまとめたカタログ雑誌でしたが、面白いのは、1938年生まれのブランド自身はヒッピーたちより年長の「沈黙の世代」に属し、ヒッピーコミューンにも新左翼運動にも距離を置いていたことです。実際、ブランドは70年代以降、その残滓に足を絡めとられることなく、1972年にスタンフォード人工知能研究所を訪問してコンピュータゲーム大会を取材した記事をローリング・ストーン誌に寄稿したのを皮切りに、中央集権化された権力に対する反抗という文脈で、60年代のカウンターカルチャーを80年代以降のサイバーカルチャーに接続する役割を果たしました。
ブランドは1995年にタイム誌に寄稿した「すべてはヒッピーのおかげ」において、「反戦の抗議、ウッドストック、長髪も忘れてよい。60年代の真の遺産はコンピュータ革命だ」とアジりましたが、実は最初の『ホール・アース・カタログ』刊行とほぼ同時期の1968年12月にダグラス・エンゲルバートが実施し、マウス、ウィンドウ、ハイパーテキストを含む内容の画期性ゆえに、後に「すべてのデモの母」と称されることになるデモンストレーションにブランドが携わっていたところに、この人の優れた嗅覚を感じます。
映画『We Are As Gods』にも「彼はまるでキルロイだ。重要なことが起こるたびにその背後に彼の姿がある」という証言が出てきますが、『Whole Earth』はブランドの人間関係を丹念にたどることで、ポール・グレアムが言うところの「風上」にいるために必要な「賢い人々と、難しい問題を探すこと」をブランドが実践したのが分かる本になっています。ジョン・マルコフはブランドが「上流で生きた」という表現を使っていますが、グレアムと同じことを言っているのだと思います。
『Whole Earth』自体、ダグラス・エンゲルバートに捧げられていますが、人間の知性を拡張するシステムとしての現代的なコンピュータの形を先取りし、またインターネットの前進であるARPANETの研究にも関わりながら、タイムシェアリングシステムにこだわったエンゲルバートが後年、コンピュータを個人が所有するパラダイムに乗れなかったため不遇をかこったのを考えると、ブランドがその「パーソナルコンピュータ」という言葉を最初期に使った人物であるという事実に符合めいたものを感じます。
話は前後しますが、1966年に建屋の屋上でLSDを服用したブランドは、上空を飛び、さらには大気圏を超えたところで、地球サイズの電球のスイッチが入るビジョンを見ます。その「トリップ」で彼は、宇宙から地球を見れば、地球と自分たちに対する見方が一変するという確信を得て、地球全体を撮影した写真を求める運動を起こし、実際にNASAから得た衛星写真を『ホール・アース・カタログ』創刊号の表紙に掲げました。彼の巨視的な視座を象徴する逸話ですが(歴史家のアンドリュー・G・カークの表現を借りれば、「地球全体の写真を見た人すべてに、物事を全体から考えるよう強いた」)、同時に時間軸の観点でも彼は長期主義者として、絶滅種の再生を目指し、また一万年にわたって時を刻み続ける時計を製作するロング・ナウ財団を設立しています。
なかなかに話のスケールがでかい環境活動家としてのブランドの活動は、ジョン・マルコフ書くところの「人間には生物種と地球を大切にする道徳的責任があるという知的立場の貫徹」のあらわれと言えます。『ホール・アース・カタログ』創刊号に掲げられたマニフェスト「我々は神としてうまくふるまったほうがよい」という謎めいた言葉も(彼のドキュメンタリー映画のタイトルもこれから取られています)、誇大妄想的に解釈もできますが、巨視的、長期的視点から人間の取りうる責任を考える姿勢を表現したものと言えるでしょう。
一方でブランドは、環境活動家として現実主義というのを超えて、異端視さえされてます。『地球の論点 現実的な環境主義者のマニフェスト』(原題は『Whole Earth Discipline』)は、原子力発電や遺伝子組み換え食材を肯定するなど、「ヒッピー世代の聖書」を作った人間というイメージを裏切るものでしたが(東日本大震災直後に受けたインタビューでも、彼は原子力発電に関する意見をまったく変えていません)、科学やテクノロジーへの信頼、上記の責任感という点で、変節という意識はブランド自身にはないはずです。
そうした意味で、ウォール・ストリート・ジャーナルに掲載された『Whole Earth』の書評でサイエンスライターのマイケル・シャーマー(『なぜ人はニセ科学を信じるのか』などの著者)が、スチュアート・ブランドに初めて会ったとき、『ホール・アース・カタログ』から連想するヒッピーの環境保護主義者と話をすると思ったら、彼がティモシー・リアリーよりもイーロン・マスクに似ていると感じたと書いているのは、異端者としてのブランドを考える上で興味深い話です。またシャーマーが、ブランドの有名な「情報は無料になりたがっている」という警句(「情報は自由になりたがっている」と訳されることもありますが、それに続くブランドの言葉を鑑みるに、やはりここは「無料」を指しているとワタシは考えます)も、異端視を恐れないブランド流の、周縁だったものが主流になる際に必然的に起こる緊張関係の表現という解釈も納得がいきます。
やはり、ワタシにとってスチュアート・ブランドという人は、上でも書いた「60年代のカウンターカルチャーを80年代以降のサイバーカルチャーに接続した」仕事にもっとも興味があるわけで、そうした意味で『パソコン創世「第3の神話」 カウンターカルチャーが育んだ夢』の著者であるジョン・マルコフは、彼の伝記を書く上で最適任でしょう。マルコフは『Whole Earth』の中で以下のように書いています。
1971年に初めて名付けられたシリコンバレーは、世界史を形作る力を持つ磁石のような存在となった。歴史家たちは、ウィリアム・ヒューレットとデヴィッド・パッカードのプロフェッサービルのガレージと、ウィリアム・ショックレーのショックレー半導体研究所には注意を払ってきたが、後にシリコンバレーの北端となる場所にカウンターカルチャーの並外れた集結が1968年に起こったことにはさして注目しなかった。『ホール・アース・カタログ』がこのテクノロジーの温室の中心で生まれたのは偶然ではなく、シリコンバレーが誕生したのとまったく同じ歴史的瞬間に、同じ力によって形作られたのである。
ただ、個人的には「60年代のカウンターカルチャーの80年代以降のサイバーカルチャーへの接続」という話には、多分にブランドによる煽りというか自己ブランディングの側面もあると考えます。これは池田純一の名著『ウェブ×ソーシャル×アメリカ 〈全球時代〉の構想力』が参考になりますが、パーソナルコンピューターとインターネットの利用が本格化した90年代に『ホール・アース・カタログ』の意匠をまとったのは、1993年に創刊された雑誌ワイアードでした。
ブランド自身もワイアードの常連寄稿者でしたし、彼の元で『ホール・アース・カタログ』の後継誌の編集に携わったケヴィン・ケリー(『「複雑系」を超えて システムを永久進化させる9つの法則』、『テクニウム テクノロジーはどこへ向かうのか』などの著者)やハワード・ラインゴールド(『新 思考のための道具 知性を拡張するためのテクノロジー その歴史と未来』、『スマートモブズ “群がる”モバイル族の挑戦』などの著者)がその初期に重要な役割を果たしたことは知られています。
『ホール・アース・カタログ』のイメージを引き継ぎながらも、一方でネオリベラリズムやリバタリアニズムを背景としてビジネス志向だったワイアードは、ヒッピーとヤッピーの野合を指す「カリフォルニアン・イデオロギー」を象徴する存在です。1980年代にやはり『ホール・アース・カタログ』の意匠をまとったオンライン仮想コミュニティ「The WELL」を立ち上げ、TEDカンファレンスで知り合ったニコラス・ネグロポンテとの親交と彼が所長を務めたMITメディアラボへの訪問が『メディアラボ 「メディアの未来」を創造する超・頭脳集団の挑戦』の刊行につながり、そしてやはりワイアードの常連寄稿者だったピーター・シュワルツ(『シナリオ・プランニングの技法』などの著者)らとコンサルティングファームGlobal Business Networkを起業したブランドは、文化史家フレッド・ターナー言うところの「テクノクラート的なカウンターカルチャーのアントレプレナー」として「カリフォルニアン・イデオロギー」を形作った人物とも言えます。
ケヴィン・ケリーの予告通り、『Whole Earth』でも「カリフォルニアン・イデオロギー」について言及されています。マルコフは、2016年の米大統領選挙後にビッグテックを中心とするインターネット企業に逆風が吹くようになった影響で、ブランドがデジタルフリーダムを約束しながら、実際にはポスト・オーウェル的な支配と権力の集中をもたらしたサイバーカルチャーの大元とまで見られること、ブランドのユートピア主義が後の世代のインターネット資本主義者に覆されたとされるのを不当な評価だと力説しています。
特にジョナサン・タプリンの『Move Fast and Break Things: How Facebook, Google, and Amazon Cornered Culture and Undermined Democracy』などについて、ブランドの元々のテクノユートピア主義と、ドットコム期に現れたペイパルマフィアという名のスタンフォード出身のガキ大将たちとともに出現したシリコンバレー中心のデジタルリバタリアニズムの区別がついていないと批判しています。マルコフとしては、スチュアート・ブランドという人が(変節ではなく)何度も変化を遂げたことが見逃されているとの思いがあるようです。
「彼の落ち着きのなさは彼の最大の強みだが、その代償は大きい」とマルコフは書きます。確かにブランドは、『ホール・アース・カタログ』がベストセラーになり、全米図書賞を受賞するという絶頂期にあっさりそれを終わらせたのをはじめとして(その背景には彼の最初の結婚の破綻があったわけですが)、成功に執着するよりも「風上」にいることを選び、その新たな活動自体がメディアとなった人と言えます。
マルコフの評価にはワタシも賛同しますが、ただ『Whole Earth』を読んでいて、ブルース・シュナイアーが言うところの「リバタリアン寄りのアメリカ人白人男性」にブランドも当てはまると感じたところがあります。それはこの文章を書くために調べものをしていて、「『ホール・アース・カタログ』に登場してくる人物はほとんどが、WASPに代表されるアメリカ社会のエスタブリッシュメントを形成する、大学教育を受けたアングロサクソン系白人という印象。黒人、アジア人、ラテンアメリカ系などは、あたかも無視されているかのように登場してこないし、女性の登場もきわめて少ない」という証言を読んだのも影響しているかもしれません。
そして、上でも名前を挙げたニコラス・ネグロポンテ、そして『Whole Earth』にも重要人物として登場する「フィクサー」ジョン・ブロックマンの両名が、近年ジェフリー・エプスタイン問題で糾弾の対象になったのは、社会的成功と内輪のサークルに安住して価値観をアップデートしないことの危険性を思いますし、そこで改めて「Stay Hungry. Stay Foolish.」の文句を前にすると、その重さとそうあり続けることの難しさを思うわけですが、少なくともスチュアート・ブランドは、数々の失敗を重ねながらも、それを貫いたと言えるのではないでしょうか。
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登録はこちら雑文書き/翻訳者。1973年生まれ。著書に『情報共有の未来』(達人出版会)、訳書に『デジタル音楽の行方』(翔泳社)、『Wiki Way』(ソフトバンク クリエイティブ)、『ウェブログ・ハンドブック』(毎日コミュニケーションズ)がある。ネットを中心にコラムから翻訳まで横断的に執筆活動を続ける。