
現代社会を漂う啓蒙思想的な雰囲気と、SDGsという国際的一大キャンペーン
2025.06.09
Updated by Masato Fukushima on June 9, 2025, 14:44 pm JST
2025.06.09
Updated by Masato Fukushima on June 9, 2025, 14:44 pm JST
※当記事はModern Times 2022年9月に公開された記事の再掲載です。
1990年代、筆者がロンドン滞在中、大型学術系書店の社会科学コーナーで目にしたのは、山積みになった、いわゆるポストモダン論批判の本であった。著者ハーベイ(D.Harvey)は著名なマルクス主義地理学者で、当時猛威を振るっていたポストモダン論に苛立ちつつ、よくある一過性の知的流行にしてはなかなかしぶといがそれは何故なのか、という問いからその議論を始めている。彼の結論は (マルクス主義者として当然だが)、これは従来とは異なる資本蓄積の形態から生じる現象で、大きな下部構造の変化がその根底にあるために、ポストモダン論は一過性の流行のようにはなかなか消えないのだとした。
ポストモダン論は、一時期本邦も含めた人文社会系を中心に大いに流行したが、その用語自体は建築学上のモダニズム批判として始まり、それが社会の進歩といった「大きな物語」の終焉という形で一般化され、さらに別の潮流とも混じり合って大きく膨れ上がった。ある英語の解説書では、前史として、70年代に流行ったポスト産業社会論、すなわち従来の工業中心の時代からサービス産業や知識産業のような新形態が主流になるという話、あるいはポスト構造主義、すなわちこれも戦後大流行した構造主義や記号論に対する批判、などが挙げられていた。
文化人類学では、リアリズム的民族誌がモダンで、それに対してポストモダンとは様々な文体上のひねりのことだという、やや不可解な議論を主張するものがいた。更にある会議で、観光はポストモダンな現象だと言い張る観光人類学者に対して、他の参加者が大いに反論して会議が紛糾したという記憶もある。フランスの著名な哲学者が、あなたのポストモダン論は、と問われてその意味が分からず怪訝そうな顔をしたとか、これまた著名なドイツのシステム論社会学者が、ポストモダン論といったものは単なる商業上のラベルに過ぎないと反撃した、といった逸話を読んだこともある。流行とはしょせんそんなものである。
前述したハーベイの大著はこうした議論がしぶとく残っていることを資本主義の形式の変化と結びつけて論じたのだが、この流行に多少遅れて参加したSTS系は、そこに少しひねりを加えてその遅れを挽回しようとした。それまでの話でほとんど議論に上らなかった要素を加味して、従来のポストモダン論者もしょせん一種の失望したモダン主義であって同根だ、としたわけである。私はこの議論に全く納得がいかない。しかし興味深いのは、ポストモダン論は現在その言葉自体は全く流行らなくなったものの、違う言葉に偽装して延命しているという印象がぬけないという点である。
当時のポストモダン論を支える社会的、思想的雰囲気の中には、こうしたモダニズム、つまり常に「新しさ」(ラテン語でmodernusは新しいの意味)を求め、それがよいとされる姿勢に対する一種の疲労感といったものが介在していたと考えることもできる。ハーベイはそこに新たな資本蓄積の形式をみたが、もっと広くとって、絶えざる新規性追求に抵抗する伝統回帰であったり、マーケットの限界による消費の停滞であったり、あるいは人口構成の高年齢化による保守化だったりと、一部の下部構造的変化以外の様々な要因が関係していそうである。様々な領域に点在する多様なモダニズム批判や抵抗は領域ごとに異なる形態をとりうるが、もちろん例外もある。それは科学実践そのものである。つまり、科学では古さを価値とする態度が全くといって成り立たない、ほとんど唯一の領域ではないかという点である。
現在において、新しさというのはどの分野でもたいてい称賛の言葉として捉えられている。斬新な表現や作品、あるいは商品が称揚されるのは常だが、科学実践においてこれは基本中の基本であり、新しくない、と評価されれば、そもそも論文が雑誌に載らない。匿名レフリーが草稿をリジェクトする(認めない)時の標準的なコメントは、「この研究には新しさがない」というものである。
他の分野でも新しさへの追求はある一方で、それに抗する力も厳然と存在する場合が少なくない。骨董の世界がその典型だが、伝統建築、長期間愛用されているあれやこれやの商品、古くからあるしきたりの尊重等、長期的に持続することへの尊重が中心的な領域も、社会の中には少なくない。エンジニア自体は、常に新たな技術開発に勤しんでいるものの、それを使う側から見れば、そうした新規展開だけが問題なのではなく、特定の道具やテクノロジーが長期的に使用、愛用される例は無数にある。エジャートン(D.Edgerton)が使用中のテクノロジー(technology-in-use)と呼んだものである。更に、一度は廃れたと思われていた技術が復活する場合もある。例えば、近年のLP盤への新たな関心や、記録媒体としての磁気テープの見直しといった現象は、新規テクノロジーの追求だけが社会の趨勢ではないということの証左である。
常に新規性を求め、それを評価する姿勢をモダニズムの基礎と考えれば、それは実は社会内に複雑な形で分布しているのが分かる。そのために、ポストモダン論を現在の文脈に嵌め込んだ際に、すっきりする部分と、微妙にずれる部分の両面が現れるのである。この概念のかつての流行時と現状の間の明白な連続性の一つは、先進国を中心とした成長の限界と停滞感であろう。この事態は「持続可能」という形容詞で糊塗されているが、循環する経済という概念そのものが、直進的な経済発展のイメージからはほど遠い。ハーベイ的ポストモダン分析は、ある意味、こうした経済構造の変化をマルクス主義の用語で解説したものである。
他方、当時のポストモダン論では殆ど触れられていなかったのが、世界各地での人口構造の高齢化と、それによる社会的感受性の変化である。これは、近年人口学者がやたらと元気がいい原因の一つでもある。これも先進国では共通した現象で、東、および東南アジアなどのいわば中進国でもその症状が出始めている。ただし、この人口学的な視点は、こうした悲観論と同時に、地球上の他の地域はまだ成長の余力がある、という新たな期待をも生む。その人口構成により、インドやアフリカが、発展の余力が大きいと大いに注目されているが、この成長可能性の図式だけからみると、必ずしもモダンのダイナミズムを完全否定するところまでは行っていないようである。
他方、視点をテクノロジーにかかわる言説に向けると、むしろ熱狂(ハイプ)のそれが繰り返されている点も興味深い。ICT、遺伝子組み換え、ナノテクノロジー、そして近年のAI熱狂(それが人間知性を超えると唱えるシンギュラリティ論を含む)等、新規テクノロジーに関してはこうした期待のアップダウンが顕著である。このサイクルの一変種としては、限界ある地球を飛び出して、月や火星といった太陽系そのものに活動を拡大するという新種のフロンティア精神のようなものも散見する。こうした話は、常に新たな前線への志向性を生み出すという意味で、ポストモダン的精神とはそぐわない。
更に新しい表現の層としては、エコロジー的なものが挙げられるだろう。STS系のテクノロジー論では、新規テクノロジー開発のために一種の曖昧なスローガンが必要で、それを「表意文字」(つまり西洋人から見て、何となくあいまいにみえる表現形式)とよぶ研究者がいるが、これは「空気」とか、「暗号」と読み替えてもいいものである。そこで挙げられているのは、例えば民主主義という言葉であるが、その意味でSDGsというのは現代版の暗号のようにみえる。当時のポストモダン論では、現在世界的に流行しているエコロジー的表現はあまり見当たらなかったが、IPCC(気候変動に関する政府間パネル)の結成が1988年であり、この点は無理もない。
このSDGsという新暗号を使った国際的大キャンペーン自体は、一種の成長の限界的側面を強調するという点では、以前のポストモダン精神と連続的とも言える。他方、それがあらゆるところで新たな規範として強調されるという意味では、一種の現代版の大きな物語であると言えなくもない。もともとポストモダン論は、進歩等を前提とした啓蒙思想を批判するという側面があり、それを大きな物語と呼んだのだが、エコロジー的啓蒙といった言葉すらあるように、これ自体が新たな啓蒙思想と言えなくもないのである。
ただそれが単なる思想ではなく、地球温暖化といった、いわば科学的論争に密接に関与しているのが現在の特徴で、そこに「自然」という新たな要素を加えて論じなおす、という余地はあるわけである。近年の人新世騒ぎもその典型であるが、地学的な概念に人間の介入を示す要素が加わった、という出来事がもつ象徴的な意味に、人文社会系も多いに反応したのである。STS系論者が着目したのもその点であるが、しかし私は旧来のポストモダン論者が失望したモダニストだとは思わない。また、エコ・マルクス主義こそ世界を救うという新たな神話も一部でもてはやされているが、私は全く信じない。現実のマルクス主義政策の歴史への無知を晒しているとしか思えないのである。
この話はポストモダンの考古学として始まり、内容がその「考現学」になってしまったが、地球全体という視点からみると、ポストモダン的風景は実は各所に姿を変えて存続していると言えなくもない。ハーベイがかつて喝破したのとはやや違う意味で、それは結構しぶといのだ。ただし、そこでは常に革新を求める科学的言説が力を増し、またそれが一つの新たな大きな物語として言説の世界を覆っているという点で、妙に啓蒙思想的な雰囲気をも漂わせている。この奇妙で分かりにくい風景が我々の現状であり、言説の面ではポストモダン論が表面的から消えてしまった理由なのであろう。
参考文献
ジャン=フランソワ・リオタール 小林康夫訳(1986)『ポスト・モダンの条件―知・社会・言語ゲーム』(書肆風の薔薇)
山口富子、福島真人(編)(2019)『予測がつくる社会―「科学の言葉」の使われ方』(東京大学出版会)
Edgerton,D (2007) The shock of the old : technology and global history since 1900 ,Oxford University Press.
Latour,B. (1993) We have never been modern,Harvard University Press.
Mirowski,P. and Sent,EM (eds) (2002) Science bought and sold : essays in the economics of science , University of Chicago Press.
Harvey,D. (1990) The condition of postmodernity : an enquiry into the origins of cultural change, Blackwell.
Fukushima, M.(2019) Regimes on newness: an essay of comparative physiognomy, Interface Critique 2: 105-122
Fukushima, M. (2020) The technological regime on newness: technology, art, and temporality, Lecture draft, Symposium for Future and the Arts, Mori Art Museum, Tokyo, Japan
東京大学大学院・情報学環教授。専門は科学技術社会学(STS)。東南アジアの政治・宗教に関する人類学的調査の後、現代的制度(医療、原子力等)の認知、組織、学習の関係を研究する。現在は科学技術の現場と社会の諸要素との関係(政治、経済、文化等)を研究。『暗黙知の解剖』(2001 金子書房)、『ジャワの宗教と社会』(2002 ひつじ書房)『学習の生態学』(2010 東京大学出版会、2022 筑摩学芸文庫)、『真理の工場』(2017 東京大学出版会)、『予測がつくる社会』(共編 2019 東京大学出版会)、『科学技術社会学(STS)ワードマップ』(共編 2021 新曜社)など著書多数。