April 20, 2026
村上 陽一郎 yoichiro_murakami
1936年東京生まれ。専攻は科学史・科学哲学・科学社会学。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。東京大学先端科学技術研究センター長、東洋英和女学院大学学長などを経て、現在、東京大学名誉教授、国際基督教大学名誉教授、豊田工業大学次世代文明センター長、一般財団法人日本アスペン研究所副理事長。2015年に瑞宝中綬章受章。膨大な数の著書・訳書・編著を誇るが、代表的なものに『科学者とは何か』『文明のなかの科学』『あらためて教養とは』『安全学』、シャルガフ『ヘラクレイトスの火』、ファイヤアーベント『知についての三つの対話』、フラー『知識人として生きる』『伊東俊太郎著作集』『大森荘蔵著作集』などがある。幼少より能楽の訓練を受ける一方、チェロのアマチュア演奏家としても活動中。
これまでの記述のように、私は、小学低学年のとき、そして高校三年から浪人生活を経て大学生になる頃の二回、死の淵を見るような経験をしました。しかし、そこでも書きましたように、一つには若かったこともあり、また性格が比較的楽天的であったこともあったのでしょう、主観的には死を肌膚にひりひりと感じるような想いからは隔たりのある状況のなかで、生きていました。そうした、言わば知的・感性的にまことに鈍感な状況を造り出すのには、今振り返って、正面から過去の自分を見据えてみると、もしかしたら、もう一つの要素が働いていたかもしれない、と思うのです。それは、小学校のときから、漠然とではありますが、私の中に存在していたキリスト教信仰です。
これまで、あまり生の形で触れたことがなかった点ですが、昭和十七(一九四二)年に通い始めた小さな私立学校は、具体的なミッショナリーとは全く無縁でしたが、非常に緩い、自由な形でキリスト教と関わる学校でした。一年生での担任は、いつも和服で、袴姿を崩さない、すでにかなりお年の、謹直な女の先生で、この方は信仰については全く口にされない方でしたが、創設メンバーに近い有力な教員メンバーのお一人だったK先生は、折に触れての講話などで、キリスト教信仰を積極的に発言される方でしたし、校長先生も、K先生と同じような姿勢で生徒に臨まれていました。
自宅から子供の足で二十分ほどのところにある、この小学校には、学齢で四歳(実年齢で三歳)上の姉がすでに通っていたので、学齢になったときの私の行く先は自明のことだったように思います。では何故両親が、姉のためにこの学校を選んだのか、訊ねたことがありませんでしたので、結局は判然としませんが、父親に、キリスト教に対する信頼があったことは確かです。
何かの機会に書いた覚えがありますが、父親は、軍務について数年後、病を得て、伊豆の下田にあった海軍病院に病臥していたことがあります。その頃父は、プロテスタントで、刑余者の社会復帰支援など、社会運動に挺身し、「秋吉台の聖者」と呼ばれた本間俊平(一八七三~一九四八)に私淑していました。恐らくは、軍は違いますが、同じ軍医として、また作家として、これも敬愛して已まなかった森鷗外の「槌一下」という小説のなかで、「H君」と言う名の下で、本間の事績が紹介されているのに、感銘を受けていたのでは、と思います。本間と手紙のやり取りはしていたようですが、会ったことはなかったはずです。その本間が突然下田まで訪ねてきて、開口一番「いい若いもんが、こんなところで寝ているなんて何事か」と激しく叱責したのだそうです。父親は、その声を聞くや、直ちに起き上がって、病床をたたみ、東京へ帰って軍務に復帰したのだそうです。父親は、私には直接あまり語りたがらなかったのですが、色々な挿話を繋ぎ合わせると、父親の生涯に起こったとても大きな事件であったことは確かなようです。
生涯父は「本間先生」と呼んで、本間への敬愛を隠しませんでしたし、本間の背後にあるキリスト教信仰への、密かな同調を自分の中に育んでいたのだろうと、今の私は推測しています。この推測の一つの証拠は、家庭には常に聖書があって、子供に強制は一切しませんでしたが、時折の話の中で、聖書の中のエピソードを話してくれていたことです。
そうした極めて「自由な」キリスト教への共感が、姉の就学に当たって、所謂ミッショナリー経営の、制度的なキリスト教の学校を選ばずに、この学校を選択するのに働いていたのでは、とも思います。
この小学校は、昭和十九(一九四四)年三月に、校舎を軍需工場に接収される、と言う形で、実質上解散になり、クラス毎に独自の方法で授業を続けました。私のクラスは、郊外の余裕のある級友の屋敷を借りて、寺子屋のような授業形態でした。しかし、それも、都会のあらゆる場所で、私的、公的に疎開が始まり、更に公立の小学校の場合は、学校全体が、地方のお寺などに、一括して疎開する「学童疎開」が、半ば強制的に行われる、という状況の中で、結局は尻蕾に終わることになりました。因みに、この学童疎開に逢った子供たちにとって、幼くして親元を離れ、見知らぬ土地と環境で、慣れない団体生活を送らなければならなかった経験は、一様に非常に過酷なものだった、と言われています。
私の自宅も、疎開とは言えない事情ではありましたが、先述の如く、昭和二十年には東京を離れることになり、級友たちの家庭も多くが疎開する中で、この私立学校は一時的に閉鎖という形になりました。
時は経過して、敗戦後、ぽつぽつと疎開先から東京に帰ってくる家庭があり(我が家もその一つでした)、東京におられる先生方をそれぞれ選んで、「塾」のような形で、小学校としての授業を再開して頂くようお願いをすることになりました。昭和二十一年四月、私は本来四年生になるはずでしたが、五・六年の生徒を受け入れて下さるF先生の家に通うことになりました。形式上は「飛び級」をしたことになります。私は、結局その先生の家での授業を受けた上で、小学校の卒業証書を戴けたのですから、法制上は、戦中から戦後にかけての混乱はあったにせよ、組織としての小学校は継続して存続していたことになります。
とは言え、F先生の住居は、少ない人数ではありましたが、クラスの生徒を集合的に集めて授業を行えるような部屋はありませんでしたから、敷地のなかに、四本柱を立て、辛うじてトタン屋根を葺いただけ、元の学校にあった椅子や机は、幾つか先生のお宅に保管されていたので、それを土の上に並べ、西側と北側は、武蔵野の空っ風を防ぐために、近所から枯れたススキを大量に刈り取って、丁度稲掛けの要領で巡らせただけという、文字通り露天の教室でした。冬は地面が霜柱で、そのままではとても座ってはいられないので、これも近所の林から大量の落ち葉を集めてきて、敷き詰めました。私たち生徒も、そうした作業を担ったのです。余りに風雨が強いときは、先生の住まいに逃げ込むのですが、全員が纏まって時間を過ごす場所はないので、帰宅できる者は、自由に帰ることができましたし、お住まいの中では、授業などはなく、幾つかの部屋に分かれて、それぞれ静かに本を読むことしかできませんでした。もっとも、生徒の数もまちまちで、六年生は男児一人だけ、五年生は、当初は女児が十人ほど、男児は五名ほど、それに四年生であるはずの私が一人加わっただけでした。F 先生は、宮沢賢治の熱烈な信奉者で、様々な作品を読ませる、暗記させる、など、極めて熱心でした。音楽は、卒業生で音楽学校出身の方が、一週一回訪問授業をしてくれましたし、図工は、かつての音楽の先生の夫君が画家でしたので、二週間に一回ほど、ご自宅に伺って、木炭によるデッサンなどを学びました。体育は、普通は近所の空き地で三角ベースをしたり、女児は縄跳びなど、殆ど遊びでした。夏学期は数回、かなり離れた早稲田大学のプールを借りて水泳の訓練を、そして一年に一回は同じ早稲田大学のグランド(四百メートル・コースの備わった正規の運動場でした)をお借りして、運動会を開く、といった具合でした。生まれて初めて走った四百メートルは、三百メートル付近で全く足が動かなくなる、という驚きで終わりましたが、やがて、走り切ることが出来るようになりました。
こう書いてみると、現代の常識に引き合わせれば、とんでもない「小学校」生活でしたが、戦後の混乱期にあっては、別段特別の事でもなく、三月には級友たちが思い思いの学校に巣立っていくのを見送りながら、私は結局二年少しの間その生活を続けて、無事卒業に漕ぎつけました。
ただ、この生活には、もう一つの側面がありました。同じ先生方の中で、先に触れたK先生も、同じ学校名の下で、戦後独自に寺子屋然として授業を始めておられました。そればかりではなく、日曜日には自宅を開いて小学生を主体とした日曜学校、学生から成人を対象とした日曜集会を開いておられました。K先生は、内村鑑三が主宰する集まりに長く参加されていた、言わば内村派の中心的なお弟子の一人だったのです。私は、親から説得されて、日曜日の集会に参加することになりました。独りで朝、初めてご自宅を訪ねた私は、参加する決心もつかぬまま、玄関先でとつおいつしている間に、自転車のタイヤをうっかり玄関の扉にぶつけてしまって、慌てて自転車を置いたまま逃げ出しました。放っておくわけにもいかず恐る恐る戻ってみると、先生は玄関の外に、微笑んで立っておられました。その微笑みに接した瞬間、私は、さっきからの躊躇いやら惧れやらが消し飛んで、先生の開かれている集会のメンバーの一人になりたい、とはっきり思ったのでした。
小学生主体の集会では、無論聖書の朗読はありましたし、先生の講話もありましたが、聖書のエピソードを劇化した小さな劇を演じることもしばしばでした。最も印象深かったのは、シエンケヴィッチの小説『クオ・ヴァディス』を脚色した小劇で、ペテロの役を振られた時でした。宗教色は強くありませんが、シェイクスピアの『リア王』も、その一部を演じた覚えがあります。そのほか、歌が好きで、また、自分で言うのは烏許の沙汰ですが、決して下手でもなかった私は、集会で讃美歌などを皆で歌い、あるいは独唱する機会も増えました。そうした環境のなかで、私は、K先生から、内村イズムの本質を学んだと思います。中学生になっても、私はK先生の集会に参加を続けました。中学になってからは、成人の集会にも許可を得て参加するようになりました。
今から振り返ると、K先生のパーソナリティを中心とした、暖かく、啓発的な信仰共同体が、発達途上の私にとっては、かけがえのない宝物のように思われていたのでしょう。そして、その共同体は、教会は信ずるもの一人一人の胸の内に建てられるものだ、という内村の「無教会主義」にも、見事に一致するものだったのです。内村は、札幌農学校時代、メソジスト系の牧師からヨナタンという霊名とともに受洗し、その後も積極的に教会活動にも挺身していましたが、曲折あってアメリカに渡り、アマースト大学でシーリー(Julius Seeley, 一八二四~九五)という学長に出会って、魂が転換するような衝撃を受けます。その時のことを内村は後に英文で『余は如何にして基督信徒となりしか』(How I became a Christian, 鈴木俊郎訳、岩波文庫)を書いて、自分はこの学長と出会って、初めて本当のキリスト教信者となり得た、と叫んだのでした。
内村にとって、シーリーという学長の人間性こそが、真なる信仰の手引きとなった、という経験は、その後の内村の姿勢に決定的な影響を与えたと思われます。内村自身、日本に戻って以降、彼は、自身がシーリーと同じように、人々に人間として大きな影響を与えるよう尽くすことに力を注いだと思われますし、実際彼の人柄に触れて、集会に参加し、キリスト教へと導かれた人が数多かったとのことです。K先生もまたその一人であったと思われます。そのパターンはK先生と私の間にも看てとれるでしょう。もっとも、内村の勁く激しい個性は、人を惹きつけると同時に、離反させる働きもしたようで、おいおい判ったことですが、内村に傾倒しながら、後にそのグループから積極的に離れる人々も少なくなかったとのことですが。
さて、K先生ではありませんでしたが、卒業時には記念として、ずっと担任をして下さったF先生は、卒業生一人一人に、『新旧約聖書』を贈って下さいましたし、いつの間にか、私は聖書を手放さない人間になっていました。私は、堅固な信仰心を誇るつもりは毛頭ありませんし、謙遜ではなく、自分の信仰心のいい加減さを自覚してもいます。ただ、自分が、自分だけの力で生きているのではなく、私の生には何らかの大きな力の働きが関与している、という漠然たる思いは常に自分の中にあって、自分で出来る限りの努力をした以上の成り行きは、死も含めて、自分を超えるその力にお任せする以外にはないのだ、という諦念のようなものを持っていることは自覚しています。
それを、神への信仰心と言ったら、片腹痛いと嗤う方もおありかもしれませんが、少なくとも一つの処世術のような形で、自分の奥底に居座っていることだけは確かなようです。自分で出来る範囲のことは、怠らずに何とか努めよう、しかし、その結果がどうなるか、については、自分の秤の届かぬところに在す大いなる力に、お任せする以外に途はない。そんな風に思い定めたところがあって、死の瀬戸際近く赴く経験をしたにも関わらず、深刻な苦悩や煩悶に陥らず、楽天的でいられたのではなかったか。そんな風に自己診断しています。
勿論、若くして得た病は、一応寛解したとは言え、いつ再発するか判らない休火山のようなものですから、身体的行動の幅は、極端に狭めざるを得ませんでした。
中学のとき、ある先生は前任校で、杉下茂(一九二五~二〇二三)を育てた、と豪語される野球狂で、当時中学生としては上背のあった私を、杉下二世にしてやる(杉下という人は当時としては抜きんでて身長の大きな選手でした)、とオーヴァースローの球の握り方などを教えてくれる人でした。杉下のトレードマークであるフォークボールではありませんでしたが、その握り方でカーヴを投げると三十センチは曲がるので、狂喜した覚えもあります。シュートは腕を痛めるからと、教えてくれませんでしたが、要するに私も、当時の同年配の子供たちと同様に、野球に夢中だったのです。そのほか、バレー・ボールにも出場していました。と言っても、その頃のバレーは、九人制で、前衛・中衛・後衛と役目も決まっていて、位置の異同もなく、今のバレーとは違うスポーツのようでしたが。身長の故に大抵は前衛の役を割り振られました。
高校では、身長のこともあって、バスケット・ボールに親しみました。そういえばバスケット・ボールも、まるで今とは違ったスポーツでした。当時のバスケットは、ここでも、フォワード2・センター1・ガード2と役割がほぼ完全に固定されており(今でも作戦上は、ある程度役割分担はあるようですが)、何秒ルールやスリーポイントなどもなく、キャリング(今ではトラヴェリングというようですが)の判定も、今よりははるかに厳格にとられていたように思います。
話を戻すと、つまり、私は高校二年生までは、才能があったかどうかは別にして、様々な競技に手を染めていた極く普通のスポーツ好きの少年でした。もっとも、野球は確かに大好きでしたが、仮令コントロールは比較的良くても、あるいは先生の指導のお蔭でカーヴが鋭く曲がるようになっても、ピッチャーになる資格は自分にはないと、はっきり自覚していました。というのも、私の理解では、ピッチャーというのは、「お山の大将」というか、「自分が一番」意識というか、そういう自分自身への過剰とも言える信頼がなければ務まらない役柄なのです。四球をだしてしまうと、バックに「ごめんな」とつい謝って、落ち込んでしまうような性分では、とてもピッチャーは務まらない、と思うのでした。ボールが多いのは、審判のせいだ、いやキャッチャーが悪い、などと思えるような性格、ピッチャーには、それが必要だ、と思ったのです。
それはともかく、そうしたスポーツへの人並みの関心や参画も、病気の発覚後は全く自分に禁じなければなりませんでした。時間さえあれば、身体に休息を与える、あの「安静」の原理が、常に私を支配してきました。無論手足を捥がれたような寂しさはありましたが、他にも関心を向ける対象はあって、例えばチェロの勉強がそれですが、それで人生の行き詰まりなどは、感じたことがなかったのですから、余ほど神経が鈍かったのでもありましょう。
それにしても、有難かったのは、大いなる力、つまりは私の信じた神は、私を見捨て給いはしなかったことでした。半人前ながら、つまり、「体育実技」などは「見学組」に属しながら、私はともかく大学生活を順調に送ることができたのです。