October 19, 2026
八十雅世 masayo_yaso
TDI株式会社 経営企画部・マネージャー 早稲田大学第一文学部美術史学専修卒、早稲田大学大学院経営管理研究科(Waseda Business School)にてMBA取得。技術調査部門や新規事業チーム、マーケティング・プロモーション企画職などを経て、現職。2024年4月より「シュレディンガーの水曜日」編集長を兼務。
AI、とりわけ画像を生成するAIを使えば、ほんの数秒で、まるでプロのイラストレーターが描いたような画像ができあがります。これまで絵を描くために必要だった技術や経験がなくても、ある程度完成度の高いものをつくれる。そう考えると、「AIによってクリエイターの仕事がなくなるのではないか」「そもそも人間がつくる意味はあるのか」という声があがってくるのも無理はありません。
また、AIによって生成されたコンテンツをめぐる問題は、社会に新たなルールや規制をつくることを促しています。たとえば日本では、文化庁が「AIと著作権に関する考え方について」を取りまとめています。その中では、AIによって生成されたものが著作物に当たるかどうかについて、AI利用者による「創作的寄与」がどの程度あるかなどを、個々のケースに応じて判断するという考え方が示されています。アメリカでも、米国著作権局(USCO)がAIによる出力物の著作物性について検討を進めています。そこでは、AIを創作の補助ツールとして使ったこと自体が著作権保護を妨げるわけではない一方、単にプロンプトを入力しただけでは、人間による十分な創作性が認められない場合があるとされています。
ここで問われているのは、かなり根本的な「作品は誰による創作なのか?」ということです。AIが画像の大部分を生成した場合、人間はどこまで「作者」なのでしょうか。そして、ここからもう一歩考えてみると、法律上の著作権の問題とは別に、もっと根本的な問いが浮かんできます。
そもそも、作品とは何なのでしょうか。
実は、この問いはAIの登場によって初めて生まれたものではありません。今から約90年前、写真や映画という新しい技術が社会を大きく変えていた時代に、ドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミンは、まさに「技術によって芸術作品が変わる」という問題を考えていました。
ベンヤミンの代表的な論考に、『複製技術時代の芸術作品』があります。
ベンヤミンが生きた時代に大きな変化をもたらしていたのは、写真や映画の登場でした。それまでの絵画や彫刻は、基本的には一つの作品として存在していました。しかし写真なら、同じものを何枚でも複製できます。また映画なら、作品そのものを多数の人に繰り返し見せることができます。
こうした「複製できる」という技術の変化によって、芸術作品のあり方そのものが変わっていくのではないか。ベンヤミンは、その変化を「アウラ」という概念を使って論じました。簡単にいえば、ある作品が「そこに一つだけ存在する」という唯一性や、その作品がたどってきた歴史と結びついた独特の価値が、複製によって揺らいでいくという議論です。
これは「複製されたものは偽物だから価値がない」という単純な話ではありません。むしろ重要なのは、技術が変わると、作品の価値や、作品を見る人との関係まで変わってしまうということです。『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』(多木浩二)では、“ベンヤミンによれば、複製技術が進歩して写真が現れたとき、多くの人びとは「写真が芸術であるか否か」という間違った問題に振り回された。「写真の発明によって芸術の性格が総体的に変化したのではないか」ということに最初は行きつかなかった。”と解説しています。写真が登場したからといって、絵画がなくなったわけではありません。しかし、絵画が担っていた役割や、絵画に求められるものは変わっていきました。「目の前にあるものを、いかに正確に描くか」ということだけが、絵画の中心的な価値ではなくなっていったのです。その後、印象派、キュビスム、抽象絵画など、現実をそのまま再現することとは異なる方向へも、絵画は展開していきました。
つまり、新しい技術は、古い芸術を単純に消し去ったのではありません。芸術というものの基準を変えたのです。ここは、AIを考えるうえでも重要なポイントだと思います。
AIによって、これまで専門的な訓練を必要としていた「つくる技術」の一部が、急速に民主化されています。絵を描く技術がなくても、ある程度イメージを形にできる。写真を撮る技術がなくても、存在しない風景をつくることができる。
これは、かなり大きな変化です。そして私は、この変化そのものを、必ずしも悪いことだとは思いません。むしろ、これまで「つくる技術を持っている人」に限られていた表現の一部が、多くの人に開かれていくという意味では、とても面白いことです。
ただし、ここで一つ考えたいことがあります。「画像をつくれること」と「作品をつくること」は、同じなのでしょうか。AIに「夕焼けの海を描いて」と入力すれば、それらしい画像は簡単に出てきます。でも、それだけでは「なぜ夕焼けの海なのか」という問いはありません。もちろん、これは人間が絵筆を使って描いた場合にも同じことがいえます。人間が手で描いたから自動的に作品になるわけではありません。つまり、AIによって「技術」が簡単になったからこそ、これまで技術の陰に隠れていた別の問題が見えやすくなっているのではないでしょうか。
現代アートではすでに、AIを単なる「画像をつくる道具」ではなく、新たな作品を生み出す要素として組み込んでいるアーティストが見受けられます。
たとえば、デジタルアートユニット「エンタングルド・アザーズ」(ソフィア・クレスポとフェイレカン・カークブライド・マコーミック)は、《Artificial Natural History(人工自然史)》という作品において、AIを使って存在しなかった自然史の書物をつくり出しています。データセットに、18世紀、世界初のカラー海洋生物図鑑を出版した博物画家、ルイ・ルナールの魚類の彩色図をはじめ、多様な博物図譜を取り込んでいます。そして、それらを用いて実在しない生物のイメージを生成しているのです(もつれあう自然とテクノロジー──ソフィアクレスポ/ エンタングルドアザーズが語るAI時代の芸術のあり方)。
ここで興味深いのは、「AIを使って美しい生き物の画像をつくりました」という話ではないことです。そもそも私たちは、自然界にどれだけの生物が存在しているのかを完全には知りません。データとして記録されている生物もあれば、まだ知られていない生物もいる。私たちが自然について知っていることは、ごく一部なのです。クレスポたちは、AIを使って、既存のデータをもとに、現実には存在しない生物や生態系を生成します。すると、「これは本物の生物なのか」「生命らしさとは何なのか」「私たちは自然をどのように理解しているのか」といった問いが浮かんできます。ここでは、AIは作品を「つくるための便利な道具」であると同時に、作品のテーマそのものになっています。AIがあるからこそ可能になった表現を使いながら、AIによって私たちの自然や生命に対する見方そのものを問い直しているのです。
もう一つ、興味深いAIとの向き合い方があります。
火薬を使った作品で知られる現代美術家、蔡國強は、自身の作品やアーカイブ、興味のある分野などを学習させた独自のAI「cAI™」を育てています。風水や漢方薬、宇宙学など、自分が関心を持ってきたことをAIに学習させ、制作中の相談や議論を行う、というように、cAI™は単なる制作ツールではなく、蔡國強自身の思考や方法論を学習した、対話と共同制作のパートナーとして位置づけられています。
興味深いのは、蔡がこのAIを「鏡」のような存在だと捉えていることです。自分の考え方を学習させたAIから返ってくるものには、当然、自分自身の考え方が反映されます。しかし蔡が期待しているのは、単に自分の考えを正確に映し出すことではありません。むしろ、いずれAIがその「鏡」を壊し、自分の予想を超えていくことを望んでいるのです(蔡國強が語る夢と破壊、日本という出発点。「蔡國強 宇宙遊 ―〈原初火球〉から始まる」インタビュー)。
これは、AIを「人間の代わりに作品をつくってくれる便利な道具」として扱うのとは、かなり違います。自分の考えをAIに学習させ、AIとの対話を通して自分自身の考えを確認しながら、最終的には自分の意図や予想を超えるものが生まれることを期待する。つまり、AIを自分の意図を実現するためだけの道具ではなく、自分自身を揺さぶる相手として位置づけているのです。
日本のアーティスト、スプツニ子!も、AIを使って、私たちが当然だと思っている価値観を問い直す作品をつくっています。
彼女はAIを取り入れた作品を通じて、テクノロジーが描く「幸せな未来」を改めて問い直しています。たとえば《Drone in Search for a Four-Leaf Clover》では、ドローンがクローバー畑の上を飛び、その映像をAIが解析して、四つ葉のクローバーを探します。四つ葉のクローバーは「幸運」の象徴です。これまでなら、人間が地面を這うようにして、一つひとつ探していたものを、ドローンとAIを使って、効率よく見つけているのです。一見すると、素晴らしい技術の進歩です。しかし、そこで生まれるのは「便利になってよかった」という感覚だけではありません。四つ葉のクローバーを効率よく大量に見つけられるようになったら、私たちは本当に幸せになるのでしょうか。技術によって「幸せの象徴」まで効率化してしまう。そこには、単なるAI技術の紹介とは違う、ちょっとした違和感があります。また、《Can I Believe in a Fortunate Tomorrow?》では、古くから吉兆とされてきた「彩雲」という現象を、AIによって人工的に再現します。映像としては本物の彩雲と見分けがつかないほど美しいです。しかし、それがAIによってつくられたものだと知ったとき、私たちはそれを本物の吉兆と同じように受け取れるのでしょうか。(KOTARO NUKAGAでテクノロジーが描く「幸せな未来」を見つめ直す)
本物と偽物の違いはどこにあるのか。効率化されることで、私たちは本当に豊かになるのか。スプツニ子!は、AIそのものを称賛したり批判したりするのではなく、AIによって、今まで私たちが当然だと思っていた価値観を少しずらして見せます。
ここまで、新たな技術によって芸術自体が揺さぶられるという事象が古くから起きており、それに対してベンヤミンが「技術によって芸術そのものの性格が変化する」という視点を示していたこと、さらに現代においてAIという破壊的な技術に対して現代アートはどのように動いているのかをお話ししました。
クレスポたちは、AIを使って、人間だけでは見つけにくいパターンや可能性を探っています。蔡國強は、AIを自分とは異なる視点を持つ対話相手として使っています。そしてスプツニ子!は、AIによって効率化できることが、本当に効率化すべきことなのかを問い直しています。
こうして見ると、AI活用は「人間の仕事をAIに置き換える」というだけではありません。AIに人間には見えないものを見せてもらう。AIとの対話から、自分にはなかった発想を引き出す。そして、AIによって効率化できるからこそ、「それは本当に効率化するべきなのか」と考える。AIができることが増えるほど、「何をAIに任せるか」だけでなく、「何を人間が考えるのか」が重要になってくるのではないでしょうか。
ここで、ベンヤミンの議論に戻ってみたいと思います。
写真が登場したとき、多くの人が考えたのは「写真は芸術なのか」という問いでした。しかしベンヤミンが見ていたのは、その先にある変化でした。新しい技術によって、芸術そのものの性格や、作品と人間との関係が変わっていくことを、ベンヤミンは考えていました。
AIについても、同じことが起きているのではないでしょうか。
「AIがつくったものは作品なのか」「AIによる創作を人間の創作と呼べるのか」という問いは、もちろん重要です。しかし、それだけではありません。AIによって「つくる」という行為の一部が簡単になったとき、私たちは何をつくるのか。何を作品と呼ぶのか。そして、人間がつくることにはどんな意味があるのか。それを考えることが、AI時代のアートを考えるということなのだと思います。
そして、これはアートだけの話ではありません。AIによって仕事の一部が変わり、これまで当たり前だった仕事の進め方や、人間の役割そのものが変わっていく。そのとき問われるのは、AIに何ができるかだけではなく、AIとともに私たちは何をしたいのか、ということなのかもしれません。
新しい技術が登場したとき、重要なのは、その技術が古いものを壊すかどうかだけではありません。その技術によって、私たちが「当たり前」だと思っていたものの意味が、どう変わるのか、です。
ベンヤミンが約90年前に写真や映画を通して考えたこの問いは、AIの時代にも、まだ生きています。(八十雅世/TDI株式会社 経営企画部・マネージャー)