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東北復興支援のあり方を考える(1)支援も避難生活も、手探りではじまった

2012.09.05

Updated by Tatsuya Kurosaka on September 5, 2012, 13:00 pm JST

東日本大震災から1年半が経過する中、復興への道のりは険しく、事態は遅々として進まない。いま改めて被災地とどう向かい合い、何をすべきか。(社)RCF復興支援チーム代表であり、復興庁政策調査官も務める藤沢烈氏と、自らも被災者ながら災害ラジオ局やNPO(絆プロジェクト三陸)の設立・運営を通じて復興に携わる、大船渡市の佐藤健氏に、現状と展望をうかがう(なお、本稿は、東北復興支援の現状と課題」(Business Breakthrough 757ch・2012年6月13日放送)の内容を書き起こしたものである)。

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クロサカ:東北復興支援の現状と課題、いま被災地で何が起きているのかということを中心にお話ができればと考えています。私も諸般の事情で震災直後から被災地へ足を運ぶようになりました。率直に言って「生まれてこの方、こんな景色は見たことがないな」という景色がそこに広がっていました。

陳腐な言い方ですが「ひどい」としかいいようのない、人類の能力を遥かに超えている状況で、しかし現実に日本でそれが起きたということを受け止め、日本に住む人間として出来ることをやっていかなければならない。それが長期戦になるであろうことを踏まえて、自分に何が出来るのかと考え、今に至るというのが現状です。

私は実際に被災地に足を運ぶ中で、自分の専門である通信の分野でコネクターとして、人と人をつなぐ役割を模索し、お手伝いをしています。しかし一方で現実問題としては、何かしたいと思いながら実際自分には何が出来るのか逡巡しておられる方も多いのではないかと考えています。

震災直後あの短い期間であれだけの募金が集まったことはすごいけれども、逆に言うとお金を出す以外のこととなると逡巡してしまう。行動力のある人はボランティアなどもされたと思いますが、そういった経験を重ねて行くと「なんか違うんじゃないか」と途中で壁にぶつかる方も多くいらっしゃった。

私自身も自分の体験をどう説明して行けばいいのかがよくわからないですし、今後被災地とどう関わって行けばいいのかということがよくわからないという方は多くいらっしゃると思います。

また組織的構造的に動いているものがある中で、無駄足は踏むべきではないということもあり、絆やつながりというキーワードを前にして、いま改めて被災地とどうつながって行けばいいのかなというようなことを中心にお話させていただければと思います。

まずは藤沢さんが被災地と関わるようになった経緯や背景を教えていただけますか。

藤沢:私は元々マッキンゼーというコンサルティングの会社を経て、独立後は一貫してベンチャーの立ち上げ支援をやっておりました。その傍ら、ライフワークとしてNPOや社会的起業の活動支援も行っておりました。

例えば、ETICという団体は、2000年ころから約200くらいのいわゆる社会的起業を排出している団体です。テレビに出てくるような有名なNPO法人「フローレンス」や「カタリバ」はETICの起業プログラムを経ています。

これらの団体の経営陣は私と同世代ということもあり、マッキンゼーにいた10年前の頃から様々なかたちで支援を行ってきました。またNPO法人「かものはしプロジェクト」という団体は、カンボジアの子ども買春問題を解決する為のプロジェクトです。私がマッキンゼーにいた頃、同NPOの中心はまだ学生で、一軒家だった自宅の1Fを団体に貸すというようなかたちでのサポートもしておりました。

こういった経緯を経て、震災が起きてしまった。これは行政に任せて何とかなるレベルじゃないということがすぐに分かりましたから、これまで10年間社会的な活動を支援し、その意義を唱えてきたものとして、この事態を放っておくことはできないと考え、仕事を全部ストップして、東北へ乗り込みました。

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クロサカ:そのご決断は素晴らしいですね。私もいろいろ考えましたが、自分は目の前の仕事をストップするということは出来ませんでした。しかし本当に正面から向き合おうとすると、片手間で出来る仕事ではないという気も起こりました。

実際に支援をして行く中で、これは素人には出来ない、プロにお任せした方が良さそうだなと思うことも、正直ありました。ベンチャー育成とNPO支援を同時にされてきた藤沢さんは、(被災地に入ってからのプロジェクトも)これまでの経験に近いものだと感じられましたか?

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藤沢:近いからという理由で取り組んだ訳ではありませんが、一方で、ベンチャー立ち上げ支援は資金調達やパートナー選び、事業がシードの段階から支援してきました。NPOも同じです。1人か2人のメンバーがいてボランティアを集めて始めるというところで、ステージやつき合い方は同じだと思います。

クロサカ:私もエンジェル的な役割でご協力したケースがありますが、1回やってみると大人におむつをはかせるがごとき仕事といいますか、本当に大変ですよね。

藤沢:そうですね、子どもを育てるというと少し表現が柔らかくなりますか(笑)そういったやりがいがありますよね。特に若い頃は、私が25歳で、起業家が20歳なんていうこともあり、周囲から見たら子ども同士でやっているようにみえたと思いますが、必死にやって若い経営者が成長して行くことが刺激でもありましたね。

クロサカ:人と向きあい、ほぼゼロの状態から立ち上げて行く、手取り足取りというよりは肩を組んで歩いて行く。そんな経験があったこそ、3月11日にある意味大きくリセットされてしまった被災地を、支援することができたのでしょうか。

藤沢:ゼロから1になっていくという場所への抵抗感はなかったですね。前例が全くない中で、何かきっかけをみつけて新しい取組みをしないといけないという環境には慣れていたかもしれません。

クロサカ:比較的早い時期に内閣官房の中にボランティア連携のチームができて、藤沢さんはその中にすぐに参画されました。その時期、内閣官房や国の中枢は迅速な対応が出来ていたんでしょうか?

藤沢:私が見てきて言える範囲は一部ですが、やはり政府も初めての経験で試行錯誤があったなと感じます。私がいたボランティア連携室のリーダー的役割であった、政治家の辻本清美氏の被災地入りについても、ものすごい議論になりましたし、被災地の状況が見えないなかでどういった支援をすべきかということも問題になりました。

また例えば、震災後すぐには被災各県がボランティアを受け入れられなかった。それは批判の的にもなりましたが、当然現地の事情もあり、現地の状況を優先しながら取り組んで行く、スピードは要求されるが現地の事情がわからないといけないというもどかしく非常に難しい状況が続いていました。

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クロサカ:いまでこそインフラは概ね復旧しましが、被災直後は電話がつながりませんでしたよね。連休前後までコミュニケーションラインも物流のラインも使えたり使えなかったりといった状況でした。

そういう中では、現地の状況を優先しながら取り組むという、普段なら当たり前の営みも、相当な苦労が実際にはありましたよね。例えば、車で行ってみたら通行止め、電気がないから信号もなく、どこをどう進めばいいか分からない、といった山あり谷ありを乗り越えられた。

私も、近くで関わりながら政府の動きを見ていた人間として、出来ていなかったことは相当ありましたが、最低限のことはなんとかできたという感覚があります。無論、被災者の方々にはお怒りは残りつづけると思いますが。

しかし、東京の生活者にとっては「いま」被災地がどうなっているのかがかなり分かりづらくなってきています。マスメディアでの情報流通が減り、関心を持って意識を立てていても、被災地の情報に触れられない現状があります。こちらから働きかけないと情報がでてこないのが現状だと思います。

そこで、この場で被災地の現状をお話いただくべく、大船渡の佐藤健さんをご紹介したいと思います。生まれも育ちも大船渡で、整体師のお仕事をされています。昨年3月11日にご自身の診療所で被災、ご家族はご無事でしたがご自宅兼診療所は流されてしまいました。避難所生活中のかなり早い時期に「おおふなとさいがいFM」を立ち上げられました。

被災直後から被災各地にはすごい勢いで、臨時災害ラジオ局が立ち上げられました。佐藤さんたちも大船渡で3月31日に開局し、現在も放送を継続中です。今でこそローカルメディアとして災害ラジオが非常に機能していることは広く認知されていますが、佐藤さんが当初そこに参画されようと思われた立ち上げの経緯をお聞かせください。

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佐藤:臨時災害ラジオ局の立ち上げ自体は、当初他の方が進めていました。そこに、妻が選挙のウグイス嬢の経験があったので、アナウンサーをやらないかという話がきまして、その説明会に行きました。内陸の奥州市からスタッフが1名来て機材の調整等の技術指導があったのですがそれ以外の準備が全く出来ておらず、放送内容は行政から発表されるものと言われました。

しかし、ライフラインの一切を失った私たちにとって、FMは重要な地元の情報を手に入れるために1番の手段だと思いました。これまで治療院の仕事を通して、人と人をつなぐことや情報提供もしてきてその重要性も理解していましたので、関わろうと決めて参加しました。

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クロサカ:震災直後から数ヶ月間、地域の情報が取りづらい時期が続いたと思います。具体的にどのような状況だったか振り返っていただいてもよろしいでしょうか?

佐藤:まずは電気、水道、電話、全てが機能せず、親戚や家族の安否確認さえ出来ない状況だったんですよ。大船渡市は小さな自治体が合併してできた経緯があって、隣町がどうなっているのかもわからない状況でした。

ラジオの立ち上げ当初は水も電気も復旧していませんでした。しかし、炊き出しの場所、行政機能の回復状況などの重要な情報を知る手段が当時はありませんでしたので、それを毎日ラジオで放送し皆さんに届けました。

クロサカ:生きるために必要な情報が不足したり、あるいは情報の中身が不安定な状況が続いていた訳ですね。確かに、被災各地で共通して聞くのは、自分たちにとって本当に必要な情報が入ってこないのだという話でした。むしろ電気が回復し、テレビをつけると、どうでもいい情報ばかりが流れているという...。

佐藤:そうですね。それは私たちも感じました。

クロサカ:被災地に足を運ぶ中で「東京の人は福島第一のことしか頭にないんでしょう」と言われれることが多くありました。重大な問題だから仕方がないとはいえ、原発一辺倒の報道内容でした。

現地へ赴くたびに、ここで必要な情報はきちんと届けられているんだろうか?被災地のなかできちんと情報は流通しているんだろうか?ということが気にかかりました。これをラジオという多くの方が持っている手段で、伝達してきたというのが佐藤さんの活動だったのだと理解しています。

(2)拡大するギャップを乗り越えるには に続く)

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クロサカタツヤ(くろさか・たつや)

株式会社企(くわだて)代表。慶應義塾大学・大学院(政策・メディア研究科)在学中からインターネットビジネスの企画設計を手がける。三菱総合研究所にて情報通信事業のコンサルティング、次世代技術推進、国内外の政策調査・推進プロジェクトに従事。2007年1月に独立し、戦略立案・事業設計を中心としたコンサルティングや、経営戦略・資本政策・ M&Aなどのアドバイス、また政府系プロジェクトの支援等を提供している。