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バルセロナの街で感じた、日本の端末が世界でうけない理由

2013.03.01

Updated by WirelessWire News編集部 on March 1, 2013, 07:33 am JST

テレコム業界に長く関わっているつもりですが、モバイルワールドコングレス(以下MWC)にはなかなか縁がなく、バルセロナを訪れるのも今回が初めてとなります。せっかくですから、毎年MWCに参加している方とは違う、新参者の視点でMWCを眺めてみたいと思います。

遠さと不便さを吹き飛ばす、「バルセロナ」の魅力

ここバルセロナまでの道のりは遠く「なぜMWCが長年バルセロナで開催されているのか」とつくづく感じました。特に日本からは、欧州のどこかで乗り換えて来なければならず、とにかく「遠い」というのが第一印象です(もちろん、欧州からすれば日本こそ極東なのでしょうが)。

これは、モバイル業界の軸となりつつある、中国や韓国から見ても同じことのはずです。MWCの会期が2月前半から後半へシフトしているのは、中国の春節(旧正月)を避けているからだ、と聞きます。だとしたら開催時期だけでなく、開催場所についてももう少し便利な場所で開催されてもいいのに、と、GSMAのイベントだから欧州で開催されるとしても、各都市と直行便の多い都市で開催する方がいいのに、と思っていました。

しかし、疑問を抱えつつバルセロナに到着。ホテルにチェックインして寝て明くる朝、バルセロナの街を探索して、その疑問は消え去りました。バルセロナは実に魅力的な街であり、ここでMWCが開催されることに自然と納得してしまったのです。

まず、日本人の私からして、「不自然なところがない」というのが、第一印象です。言葉を換えれば、理屈っぽさがない、というところでしょうか。有名なガウディの建築物をはじめ、バルセロナの街中にはアートが溢れています。しかしそれらは「これみよがし」にあるのではなく、街の風景や人々の生活に自然と溶け込んでいるように感じました。

また、市場を訪れるとチョコレート、青果、鮮魚がこれでもかと並べられ、街や人の息吹を感じます。なかでも精肉店を眺めてみると「あらゆる部位を食い尽くす」という感じで、いろいろなものが置かれていました。そこからは「ありのままを楽しむ」という雰囲気が見て取れます。日本はもちろん、CESやCITA開催地のアメリカでは感じたことがありません。

▼バルセロナの市場は活気に溢れて歩くだけでも楽しい。ただし、スリには要注意。
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歴史の積み重ねが感じられる建築物が街のあちこちにあるものの、しかしおそらくはドイツみたいな過度の景観保護みたいなこともないのか、スプレーの落書きなども当たり前のようにあります。またゴミ箱も東京のように細かい分別はなく、あっさり一種類です(MWCの会場は分別収集ですが)。

スペインという国がどう成立しているか、あるいはカタルーニャ地方がどのような土地なのかは、観光ガイドに書いてある程度の話しか分かりません。ただ、バルセロナという街は、私たちが普段「やってはいけないこと」としているような所作も、自粛したり規制したりせず、おおらかでありのままやっているように思えます。悪く言えばいい加減なのかもしれないけれど、しかし、それでいて街中は美しい。

スリや強盗に怯えながらも、なぜか感じるのです。「いい街だなぁ」と。この心地よさは一体何だろう、と考えた時、たとえばこれは家の中にいるような感じ。

表と裏を感じない、本音と建て前を分けない。もちろん、自分のいいたいことは、言わないと伝わらないし、言わないのは悪です。だからといって、過度に言い過ぎることも、また遠慮することもない。まったく見ず知らずの人でも、当たり前のように言葉をかける。あるいは、田舎のおばちゃんと話している感じ、ともいえるかもしれません。自販機で間違えてポンド紙幣を入れた時、近くにいた妙齢のご婦人から、

「イギリスから来たの?」
「いや、経由してきただけ」
「ああそう、あなたから見たら、ユーロもポンドも、同じよね、ははは」

というようなやりとりをしたのですが、この素朴な感じがなんとも懐かしく思えました。初めて来た街なのに、実家に帰ったような、そんな感じでしょうか。そう考えていくにつれ、MWCが他の街で開催されたら、これほど楽しく感じるだろうか、という気もしてきました。

たとえばロンドンでMWCが開催されたら?便利で都会的かもしれませんが、バルセロナという街全体から受けるエクスペリエンスに比べると、少し劣るような気がしますし、何より食べ物があまり期待できません。反対に、バルセロナは、とても美味しい!

じゃあ東京ならどうか?日本に暮らすぼくらからすれば大歓迎ですが、バルセロナでのMWCを経験した人からすると、たぶん楽しくないだろうな、と思います。直感ですが、まだ京都で、あるいは沖縄あたりで開催した方が、楽しいかもしれません。

世界の訪問者を迎えるホスピタリティ

実際、バルセロナを訪れる知人の多くは、もちろん仕事でMWCに来ているのだけど、感覚的には「MWCに来ている」のではなく「バルセロナに来ている」ようです。そして、バルセロナに行くというと「いいなあ」という人が多い。前回まで私もその一人でした。また、MWCで来てバルセロナが気に入ってしまい、ご家族を連れて改めて観光に来た、という方もいます。

日本をはじめ、世界中で、テレコム業界は数少ない成長セクターとして、また社会の基幹産業として、重要度を増しています。そうした関連する人たちとそれを伝える世界中のプレスの人たちが、自国に帰ってバルセロナの魅力を伝えているのは、観光面からもとても大きな効果をもたらしているということにもなります。事実、私もラスベガスに行くならバルセロナの方が何倍もいい、と感じた者の一人です。そうした、人のテンションというのは、物事を成功させるためには何よりも大切な要素です。

バルセロナはMWCに関わらず、日本から訪れる一般の観光客が多く、実際に私もあちこちで見かけました。卒業旅行シーズンでもある今のタイミングらしく、若い観光客がほとんどです。

そしてこれらを支える観光システムも、しっかりしています。たとえばガウディの代表作であるサグラダ・ファミリア(聖家族贖罪教会)には、日本語の観光ガイドがあります。バルセロナには日本人観光客も多く訪れますが、それでも数多の国の一つのはずです。日本の観光地でそれに比肩するような対応を進めているところが、どのくらいあるでしょうか。

▼サグラダ・ファミリア。バルセロナでここは外せない。その荘厳さは、キリスト教徒ではない者まで引きつける。
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また観光都市だけあって、2つのルートを2階建てバスでまわる「バルセロナ・シティ・ツアー」という、はとバスのような観光バスがあります(http://www.barcelonacitytour.com/en/)。30ユーロで2日間、各ルートを一定間隔で運行されているバスに何度でも乗れます。どのポイントででも乗り降りが自由。ずっとバスの中にいて一周するもよし、気になるところで降りてじっくり観光して、後から来るバスに乗ることもできます。そしてここにも、日本語の観光ガイドのレシーバーがあるのです。

そして案外、鉄道もしっかりしている。たとえばバルセロナの地下鉄の案内表示は、東京のような到着・発車時刻ではなく、「次の電車があと何分後に来ます」というカウントダウン方式です。しかしそれが割と正確で、結果としてぼくらはイライラせずに過ごすことができます。

▼地下鉄ホームの案内表示は、次の電車があとどれくらいでくるか数字がカウントダウンされている。意外に正確。銀座線あたりに欲しい。
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その一方で、電車の扉は利用客が自分で開けるので、乗り降りのないドアは開きません。朝のラッシュ時間帯も、かけ込み乗車をする人は日本と同じようにいるものの、それをマイクとスピーカーで制止する駅員諸氏のがなり声もなく、発車ブザーが鳴るだけです。均一料金なのできっぷを通すのは乗るときだけ。どちらのドアが開くかも>>と矢印が表示されるだけ。シンプル。でも、わかりやすい。

▼矢印だけの表示だが、人種や年齢に関係なく理解出来る究極のシンプル。日本の〝おせっかいな表示〟と伝わる情報に大きな差はない。
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言葉と直感 -日本の端末は世界標準では難しすぎる?

そんなことをつらつらと考えていると、日本のモバイル端末が世界の市場で受け入れられない理由が、バルセロナに来てなんとなく分かるような気がしてきました。

おそらく日本のモバイル端末は、バルセロナを楽しんでいるような人たちにとっては、難しすぎるのではないでしょうか。いろいろな機能の積み上げでできている端末は、どこか理屈っぽくて、とっつきにくい。言いたいことは分かるんだけど、「一言でいうと?」という声がかかってしまうほど、直感的に理解できない。

日本の端末は、言葉を並べないと分からない商品に、なっています。「オールインワン」「至上最高のハイスペック」と言われても、バルセロナの空の下では「そうですか...」と流してしまいそうな、そんな気分になります。

先ほどの地下鉄車内の次の停車駅のホームがどちらかをLEDで示す車内の矢印は、シンプルでありながらも伝えるべき要素は網羅しています。これが日本では大きな液晶パネルに「こちらのドアが開きます」が日英中韓の4カ国語で交互に表記されたりする。しかも、イラスト付きで。あるいは子どもにもわかるようにと、懇切丁寧に案内することが、伝えるという意味で正しいデザインなのかどうか。

モバイル端末のデザインも、そう。日本のそれは、細部にまで緻密に計算されたロジカルなデザイン。頭を使って理解するデザインです。もちろん、その精巧さは他の国のメーカーはまだ勝てません。分野は違いますが、ヱヴァンゲリヲンが「詳しく解釈すること」に喜びを感じる人が多くいる日本で生まれたのも、うなずけます。

なので、私たち日本人が海外の端末をいま一つ受け入れられないのも、よく分かります。たとえばデザインをブランドアイデンティティとしているNOKIAのアプローチは、ロジカルなデザインが好きな日本の消費者からすると、直感的に理解することを要求する、相反するものです。しかし直感的に理解できる商品というのは、マスプロダクトの観点からすれば、分かる人と分からない人という消費者の分断をもたらす、〝危険なパラダイム〟です。評価の違いは自ずと出てくるわけです。

▼NOKIAは15ユーロのフィーチャーフォンを発表。そのデザインはLUMIAを継承している。
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MWCにおいても、その傾向があったように感じます。今回行われたプレスカンファレンスの反応を見ても、大きく二分されました。「これでもか、これでもか」と言わんばかりのスペック訴求が繰り返されたメーカーのカンファレンスでは、会場の空気が明らかに緩んでプレスの関心がなくなっていくのを感じましたし、その一方でわかりやすい訴求をしているメーカーの発表会やブースのテンションは相対的に高かった印象です。スペックや数字では人の心は動かないと言わんばかり。それはケータイ末期の日本の姿によく似ています。極端な言い方をすれば、そこに「成熟度」の違いがあるように思います。

よくよく考えれば、AppleのiPhoneは、その〝危険なパラダイム〟を乗り越えています。教条的なまでに「これがいい、これ以外はダメ」と商品を提案する。従来であれば、ジョブズという絶対神への帰依という、危険なアプローチです。しかし日本でiPhoneはクリティカルマスを超えた。なぜか。それは、おそらく孫正義氏という「預言者」がいたからでしょう。だからこそ革命的だったし、iPhoneは工業製品のマーケティングや商業的ブランディングの枠組みを超えたパラダイムとは違うところにあるように思えます。

バルセロナのサグラダ・ファミリアの中でそう感じたわけではありませんが、自問自答して腹落ちしたのはたしかです。

となると、Appleが一神教(過ぎる?)とするなら、Androidはどうでしょう。Androidは端末メーカーが預言者であるものの、その預言者たるメーカーが神に触り、神を隠している印象です。そして「我こそが神である」と振る舞う預言者もいたりするわけです。
日本メーカーが行き止まりにぶつかっている理由の一つには、こんなところもあるんじゃないでしょうか。ただし、それはギミックであり、ようは「おまえらもっとうまく言え」という競争の世界であったりするわけです。

つまり、Googleがやっていることはマーケティングの枠組みを超えている気がします。かつての欧州が民を統治するのに教会を活用したように、Googleという教会の仕組みをうまく使っているのかもしれないと感じています。日本にいると気がつかない...いや、気がつけないのですが、ここバルセロナではGoogle Nowが非常に機能しているのです。

次の予定に合わせてアラートを出し、バスの細かい時間や乗換までも示し、道路の混雑状況を鑑みて到着予想時間まで示してくれる。そのあまりに卓越した〝思し召し〟が便利で心地よく、情報をすべてアメリカの会社に握られているということに一抹の不安との天秤にかけてもそれを選んでしまう。姿は隠しているものの(最近はNexusという名前で姿をちょくちょく現してはいますが)、その神なくしてはいられない状況になっているわけです。

少し話しは脱線しましたが、日本メーカーはこうした預言者たる存在に、果たしてなっているのか、そこまでなる覚悟があるのか、ということ。単にスマートフォンのハードやネーミングを作るだけではなく、経典たるブランドを示せるかどうかにかかっているのではないでしょうか。

バルセロナの街を歩き、感じ、触れてみてこんなことを考えています。

 
文・長尾 彰一(通信・IT系コンサルタント)

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