2045年までに人工知能が人間の思考能力を上回るだろう。
それが未来学者のレイ・カーツワイルが「技術的特異点(シンギュラリティ)」と呼ぶ時代です。
しかし、そのとき我々は一体何を持ってして「人間の思考能力を上回る」と判断するのでしょうか。
IBMの最新型コンピュータ「ワトソン」は、早押しクイズで全米ナンバーワンのクイズチャンピオンに勝ちました。
この「早押しクイズ」というのは本当にテレビでやっているのと同じように、音声によって問題が提示され、不確かな状態から確かな状態になった瞬間に「ピンポン!」とボタンを押すという形式のものです。
ワトソンは問題文を聞き始めると同時に数万から数十万の仮説を立て、それらの仮説を同時並行で検証します。
問題文から仮説を一定数以下に絞り込めた時点で瞬時にボタンを押し、回答するというわけです。
ずいぶん前の話ですが、コンピュータはチェスのチャンピオンを負かしています。これもIBMのディープブルーというスーパーコンピュータでした。
将棋の世界でも、近年はコンピュータが勝ち続けています。
あと数年でトップ棋士に勝ち越すとも言われています。
唯一、まだコンピュータが人間に勝つ見込みのないゲームは、囲碁です。
囲碁だけは変数が多く、またしばしば無限ループに陥るため、まだ上手く打てません。
しかしこれも時間の問題なのではないかと思います。
さらに、人工知能に東大受験をさせる、なんていう試みもあります(国立情報学研究所の東ロボくん)。
まだ東大に合格するのは難しそうですが、国公立大の80%以上にA判定が出てるそうです。
こうなると、知性とはなにか、という根源的な問いをいま私たち人類はあらためて突きつけられているのではないかと思います。
たとえばワトソンはあらゆる質問にどの人類よりも速く答えることができますが、ワトソンがどの人類よりも賢いと言えるでしょうか。
ディープブルーも、電王戦で戦う他の人工知能も同様です。
たとえば誰かが人生の相談を、ワトソンにできるでしょうか。
人の生き死にを左右する重要な決断を、人工知能に任せることができるでしょうか。
残念ながら、それはまだまだ難しいのではないか、と私は考えています。
ワトソンも、ディープブルーも、身近なところではSiriさえも、非常によくできたお人形に過ぎません。
これらはまだ知性ですらないのです。
Siriに「なにか楽しいことがしたいんだ」と相談すると、「じゃあ金曜日の夜ですから誰かをデートに誘ってみては?」と言う日が来るかもしれません。しかしそれは、誰かが入力した作り込まれた台詞か、ロジックであって、Siri自身がデートという概念を知識でしか知りません。
それは彼女いない歴=年齢の男性にドロドロの三角関係の相談をするようなものです。
彼は知識としては答えることが出来たとしても、実感としてそこにどのような心の動きがあるかわからないのです。
ではワトソンを始めとする人工知能が知性そのものではないとすればなんでしょうか。
私はそれを「知性の一部」だと考えます。
これは「論理的思考能力」や「計算能力」が知性の一部であるのと同様に、知性の一部です。そして計算能力では既に人間はコンピュータに決して勝つことが出来ません。
たくさんの知識を持っていること、これは知性のある種の側面です。
「生き字引」と呼ばれるベテラン事務員。会社のことはどこになにがあるか、なぜそこにそれがあるか、みんなが聞けば即座に答えてくれる、そんな存在も知性の一部と言えるでしょう。
もしくは、老練な大学教授のように、生徒のどんな疑問や質問にも的確に答え、参考文献を示し、せなかを押してくれるような人。これもまた知性の発露だと思います。
こういう人は学生から見れば素晴らしい知性をもった知識人に見えます。
しかしその大学教授が、独創的な論文を一本も発表していなかったらどうでしょうか。
おそらくこのような人物は、学会からは「敬意を払うに値しない知性の持ち主」として相手にされないでしょう。
そしてこの傾向はこれからどんどん強まっていくと考えられます。
なぜなら、彼らの持っている「知識」なるものは、今やほとんど全てがネット上に蓄積され、インデックスされ、可視化されているからです。
実際に必要な単語や知識は、必要になってから覚えるような仕事の進め方ややりかた・・・プログラミング用語でいえば遅延評価・・・で済むようなケースが今後どんどんでてくるでしょう。
実際、私が新入社員の頃は、「この用語ってどういう意味ですか?」とよく先輩に聞いては「勉強が足りない」と怒られていたのですが、最近はこっそりGoogleで検索すればわからないなりにわかったような気分になることはできます。そしてしばしばそれで充分です。
先日、とても驚いたことがあったのは、社内でプログラマーとプログラマーでない社員のあいだで「この用語は知ってる?」とひとつひとつ確認すると、かなりの用語を知らないか、知っていたとしても間違って認識している、ということが往々にしてあったのです。
たとえば「クラス」と言えば、プログラマにとっては「型」を意味するのですが、プログラマでない人にとっては「学級」や「等級」をイメージしてしまいます。
しかしそれでもなんとなく意味が通じてしまうのです。
たとえば
「この敵キャラクターのクラス(型)だけど、キャラクタークラス(型)を継承して作ってあるから攻撃力の計算がプレイヤークラス(型)と同じになってるんだよね」
とプログラマーが言ったとき、プログラマーでない人は
「この敵キャラクターのクラス(級)だけど、キャラクタークラス(級)を継承(って何???)して作ってあるから攻撃力の計算がプレイヤークラス(級)と同じになってるんだよね」
この場合、継承という概念がわからなくても、敵キャラクター級とプレイヤー級の攻撃力の計算が同じである、という文意はだいたいあってます。
だから「クラスとはなんですか?」と聞けなくてもうんうんと頷いてしまうのです。
他にもこの手の勘違いは無数にあり、しかし驚くべきことに数年間も問題なく仕事をこなせていたのです。
私はこういう、勘違いをしても文意を汲み取る、という仕組みこそが知性の本質だと思います。
たとえば今の人工知能の場合、正しい答えをひとつに決めてしまうと、その枠に入らないものはエラーとして除外してしまいます。最近はそういう杓子定規ではない曖昧さを取り入れようとしていますが、クラス(型)とクラス(級)を混同しても意味が通じるためには、この一文だけでなく全体の文脈が必要です。
つまり、今なにを作っているのかということと、類似のゲームを過去にプレイした経験から導きだされる「文法」への理解といったことです。
たとえばヨーロッパに行って、現地で漫画本などを開くとまず「ページの開き方、コマの読み進め方」の解説が書いてあってびっくりします。
そしてそのとき初めて、日本のマンガは全て右綴じであることに気付いたのです。
右綴じである理由は、縦書き文化だからです。
ヨーロッパにはそんなものは当然ないので、右綴じの本などという奇怪なものはそもそも存在しないのです。
そして本来縦書きの順序で読むべきものを、横書きの台詞と組み合わせて読むため、コマの読み方が不自然になってしまいます。そのために解説が必要なのです。
これは欧米人に「右綴じ」や「縦書き」の文化がもともとなかったせいで、コンピュータにいくらそれを教えても知識としては理解できても感覚としては理解することができません。
大学入試にしろ、早押しクイズやゲームでの勝敗にしろ、コンピュータと人間が争っても、最終的にはコンピュータに勝てるわけがありません。特に将棋や囲碁などの完全情報ゲームで人間がコンピュータに永久に勝てる確率は限りなく0%に近いと思います。唯一例外があるとすれば、完全情報ゲームであっても偶発性の要素で勝つか負けるかが変わるような要素があったとき、つまり幸運によってのみ人間はコンピュータに勝つことができるでしょう。しかしそれは知性で上回っていると言えるでしょうか。
羽生名人はコンピュータが将棋で名人を打ち回したらどうするつもりか、と問われ、「桂馬を横にとばせるようにすればいい」と語ったそうですが、いまどきのコンピュータなら、それさえも上回る先読み能力を発揮するでしょう。
羽生名人の言葉の真意は「人間はルールを変えることが出来るが、コンピュータにはできない」という前提があるように思えますが、実際にはコンピュータはルールを書き換えることができます。
たとえばあらゆるコンピュータが暗黙的に行っている「最適化」というのは、いわばルールの書き換えです。
人間が「これはこの手順でやりなさい」と命じたことを、コンピュータが独自に判断し「こっちのほうが効率的だからこうします」と命令や処理を省いたりして、結果的に同じ結論をより少ないエネルギーで導きだすのです。
しかも今のコンピュータはこれをCPUの内部で、毎秒何億回というレベルでリアルタイムに行っています。
もちろんそれはCPUが「そういうルール変更を許す」とプログラミングされているからです。
ただしコンピュータは目標が示されていないことに関しては最適化できません。具体的な目標がさだめられないと、なにが最適なのか判断する判断基準がないからです。この判断基準のことをプログラミング用語では「評価関数」と呼びます。
かなり古いのですが、私の好きな映画に植木等とクレイジーキャッツの映画「ニッポン無責任時代」があります。
植木等が口八丁手八丁で、適当なことをいいながら無職から一流企業のサラリーマンへ、そして社長へとトントン拍子に出世していき、しかしその実、どうも何も考えていない、というコメディです。
このようなことは、コンピュータには不可能です。
コンピュータは「何も考えずにフィーリングで動く」ことがなによりニガテだからです。
と、このようなことを言うと、「じゃあ何も考えないロボットを作ってやろう」と考えるのがロボットや人工知能の研究者です。
しかし本当に「何も考えない」というのは非常に難しいのです。
たとえばワトソンは電源を切っていると、おそらくなにも考えていません。
しかしそれは「何も考えてない」という状態とはあきらかに違います。
電源を切ったワトソンが社長になる確率はゼロです。
しかし「何も考えてない男」が突然社長になる確率は高くはありませんが決して0ではありません。
この映画の中にでてくる植木等のような役どころの人物に知能テストや東大入試をさせたら、結果は惨憺たるものでしょう。東ロボくんやディープブルーやワトソンに勝てる確率は万に一つもありません。
しかしだからといって、彼の知性がそれら人工知能に劣るか、と言われれば、やはりそれは違う、と思うわけです。
知性とは別のいい方をすれば「生きる知恵」です。
生きようとする気持ちがない人間に知性は宿りません。
知性を成立させているのは「生きたい」という本能であり、「できれば楽して生きたい」という邪心であり、「ついでに女の子にもモテたい」というどうしようもない欲望なのです。
するとコンピュータにはいまのところ生への欲望がありません。
それどころか、生と死を理解することができません。死の恐怖もなく、生の喜びもないでしょう。
これだけが、生命と機械を分けるただひとつの分岐点ではないかと私は考えます。生命は常に変化し続けることでしか生きることが出来ず、変化し続けることによって老衰し、死を迎えます。その恐怖があるからこそ、人は人を愛し、新たな生命の誕生を祝福するのです。
「生と死」
知識としてGoogleにそれを問えば、誰か他の人間が書いた説明や詩や教典が出て来るかもしれませんが、それは生と死を知っていることにはならないのです。
技術的特異点(シンギュラリティ)の予言には「人間が癌を克服し、不老不死を獲得する」というものもあります。
「そんな荒唐無稽な」と思われるかもしれませんが、そもそも生物にはなぜ寿命があるのでしょうか。
寿命の秘密のひとつは、「テロメア」にあると言われています。
テロメアは、遺伝子につけられたのりしろのようなもので、細胞が分裂する度に減っていきます。テロメアを伸ばす酵素テロメラーゼは、人間の生殖細胞や幹細胞、癌細胞といった一部の細胞でしか活性化していません。それを一般的な身体を構成する体細胞に適用すれば、細胞の寿命を伸ばし、若返ることができるのではないか、そんな研究がされており、実際に64歳の肌細胞を36歳程度にまで若返らせたという報告もあるそうです(コーセー iPS細胞の皮膚科学研究への応用に着手)。
細胞の寿命まで伸ばせるとなると、俄然、不老不死も現実味を帯びて来ました。ちょっと怖い気もしますけどね。
そう遠くない未来、本当に人間が不老不死を獲得したとしたら、そのときこそ人間は生と死の意味を忘れてしまうかもしれません。
それは人間の知性の退化を直接的に意味するでしょう。
知性の根源が生と死にあるのであれば、不死人はその根源を失うことになるのですから。
しかし人間は生への渇望のために、むしろ積極的に不老不死を手に入れ、自らの知性を手放すことを喜んで受け入れるのではないかと思います。
そのとき、人間の知性は確かにコンピュータと同等以下になるでしょう。
生への渇望を忘れたとき、人の知性、唯一生命体である証は何の役にも立たなくなります。
そうして無気力になった人間は、いずれ植物のように、動くことをやめ、ただひたすら、半永久的な生の時間の中へゆっくりと眠り行くのかもしれません。
そこまで見越した予言だとしたら、背筋が寒くなる話でもあります。
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登録はこちら新潟県長岡市生まれ。1990年代よりプログラマーとしてゲーム業界、モバイル業界などで数社の立ち上げに関わる。現在も現役のプログラマーとして日夜AI開発に情熱を捧げている。