テクノロジースタートアップは経済的不平等に貢献しているか?
Do technology startups contribute to economic inequality?
2016.02.02
Updated by yomoyomo on February 2, 2016, 15:19 pm JST
Do technology startups contribute to economic inequality?
2016.02.02
Updated by yomoyomo on February 2, 2016, 15:19 pm JST
現在では LISP ハッカーとしてよりも、シードアクセラレーター Y Combinator の共同創業者して知られるポール・グレアムですが、エッセイストとしても著名な彼の文章は時折論議を呼びます。今年に入って書かれた、ズバリ「経済的不平等(Economic Inequality)」と題されたエッセイもかなり論議を呼びました……というか、もう少し正確に書くなら、多くの批判を浴びました。
ありがたいことにグレアムは、この文章の短縮版を書いてくれているので、内容紹介代わりにまずこれを全訳してみます。
議論の的となることを言うとよくあることだが、私が経済的不平等について書いたエッセイについて、一部でとても危険な解釈がなされている。簡略すぎて誤解の余地がないバージョンを書いてみれば、問題を明確にする助けになるかもと考えた。
多くの人が経済的不平等を話題にする。ほとんど皆が、経済的不平等が増せばそれは悪いと言うし、経済的不平等が減ればそれはよいことだと言う。
しかし、経済的不平等それ自体は悪ではない。要因はいくつもある。その要因の多くは悪だが、良いものだってあるのだ。
例えば、高い受刑率や税金の抜け穴は、経済的不平等を増やす悪いものだ。
けれども、スタートアップだって経済的不平等を増やす。スタートアップが成功した創業者は、大金の価値がある株を持つことになるのだから。
そして高い受刑率や税金の抜け穴とは違い、スタートアップは全体としては良いものだ。
経済的不平等それ自体が悪ではないのだから、我々は経済的不平等を非難すべきではない。そうでなく、その原因となる悪いものを非難すべきなのだ。
例えば、経済的不平等でなく、貧困を非難すべきということ。
経済的不平等を非難するのは、二重の意味で間違っている。そうすると、経済的不平等をもたらす悪い要因だけでなく、良い要因をも害してしまう。しかもさらに悪いことに、それは悪い要因を非難する効果のないやり方だろう。
経済的不平等をもたらす悪い要因を直接攻撃するのでなければ、それをうまく正すことにはならない。
しかし、経済的不平等をもたらす悪い要因すべてを正しても、拡大するテクノロジーの力によってやはり経済的不平等は拡大するんだけどね。
こうして短縮版を読んでみると、割とすっきりした文章に思えますが、原文が多くの批判を呼んだのは、「私は経済的不平等を増やすことにおいて専門家であって」「人々が経済的不平等を増やすよう勧め、その詳しいやり方を教えるエッセイも書いてきた」という宣言に始まり、文章全体を貫く経済的不平等のどこが悪いんだと居直ってる(ように感じられる)挑発的な語り口も大きかったでしょう。
オキュパイ運動なんてものがアメリカで盛り上がったのも大分前になりますが、経済的不平等、経済的格差の拡大が好ましくないというのはアメリカ社会においても共通認識だと思っていましたし、格差の拡大による二極化を危惧する主張となると、アリアナ・ハフィントン『誰が中流を殺すのか アメリカが第三世界に堕ちる日』などいくつもの本で読むことができます。
そのコンセンサスにグレアムは揺さぶりをかけるわけですが、彼はどこぞの三流ブロガーのように逆張りや釣りでそういうことをしているのではありません。例えば、グレアムはおよそ10年前に「不平等とリスク」という文章を書いており、基本的には今回の文章と主張は同じです。
今回の文章でも、かつて「富の創りかた」(『ハッカーと画家 コンピュータ時代の創造者たち』第6章)で使っていた「パイの誤り(pie fallacy)」という言葉を引き合いに出していますが、経済的不平等を悪と断じる人たちが、経済を誰かが得をすれば誰かが犠牲になるゼロサムゲームでしか考えていないのを戒める表現です。
経済的不平等をゼロサムゲームの結果と見るのは大きな間違いで、何より Y Combinator が投資して支援するスタートアップは、新たな富を生み出す存在であるというのがグレアムの主張です。
またグレアムが強調するのは、その Y Combinator が支援するスタートアップの最大の武器であるテクノロジーこそ、生産性のばらつきを加速するものであり、スタートアップは経済的不平等を拡大する存在であるということです。
「不平等とリスク」、「富の創りかた」、そして今回の文章を読んで改めて思うのは、ポール・グレアムのリバタリアン(自由至上主義者)気質です。グレアム自身が自分はリバタリアンだとはっきり書いたことはないと思いますが、「富の創りかた」には「良いプログラマの多くがリバタリアンである」との一節があったりします。「伽藍とバザール」などで知られるエリック・レイモンドも、自分同様ポールはリバタリアンだと書いてましたっけ。
つまり、グレアムの主張自体は昔からブレていないわけです。しかし、今回はそれに多くの批判が寄せられた。それはなぜなのか。
上で「挑発的」という言葉を使いましたが、グレアムはかつて「口にできないこと」という文章で、ナードは常識にとらわれず、その時代では異端的な考えを口にし、道徳的なタブーを犯してしまうことについて書いています。
今回の経済的不平等についての文章にもその構図が当てはまるのかもしれません。グレアムが変わったのではなく、アメリカ社会のトレンドが変わったという。ワタシ自身はアメリカの政治経済分野に詳しいわけではないので賢しらなことは書けませんが、一例を挙げるなら、米大統領選に向けた民主党の候補指名争いにおいて、ヒラリー・クリントン絶対優勢と言われる中、「社会主義者」とまで評されるバーニー・サンダース上院議員が若年層の支持を受けて追い上げを見せているあたりにもそのトレンドを感じます。
今回この文章を書くために、自分が10年以上前に書いた『ハッカーと画家』の読書記録を読み直すと、「富の格差は広く思われているほどには大きな問題ではない」というグレアムの主張に異を唱えていたりします。その異論はひどく稚拙なのですが、それはともかくこの点に関しては、(少なくとも日本程度の)福祉国家の支持者であるワタシとは折り合いが悪いのは間違いありません。
よって、本文はそういう人間が書いている文章であることを割り引いて読んでいただきたいのですが、今回の経済的不平等についての文章を読むと、富の大きなばらつきを撲滅することは、その国のスタートアップを撲滅することになる、今やスタートアップはどこだってやれるんだから、その国で富を生み出して金持ちになるのが不可能になれば、野心のある人はその国を捨ててよそへ移るだけだぞという主張が、経済的不平等を撲滅しようなんて人間はいないのだから、極論の上に成り立つ恫喝に聞こえて同意できないのです。
グレアムは、スタートアップが「富を生み出す」という表現を執拗に繰り返しますが、本来スタートアップが生み出すべきものは富より先に「価値」であり、そう書いてくれればまだ喉越しがよいのにとか、2016年に経済的不平等や格差の問題について論じるのに、どうしてトマ・ピケティなり、彼の『21世紀の資本』の名前が出てこないのか不思議に思います。
かくいうワタシ自身『21世紀の資本』はちゃんと読んでおらず、アンチョコ本に目を通しただけなのでやはり偉そうなことは言えないのですが、資本から得られる収益率が所得の成長率を上回る、つまり資本主義社会では元から資本を持つ者がますます富むことになるという、庶民がとっくに薄々実感していたことを、経済学者にも分かるように書いた大著であることは承知しています。
今回のグレアムの文章には多くの批判が寄せられたためか、グレアムは上に訳を載せた簡略版を書くだけでなく、珍しく批判に対して反論文を書いています。ワシントンポストを離れてニュースメディア Vox.com を立ち上げた気鋭のジャーナリストであるエズラ・クラインの批判に対する反論、著名なアメリカンフットボール選手にして投資家・起業家でもあるラッセル・オクングの寄稿に対する反論がそれですが、真打というべき批判文が公開されました。
それは、グレアムの文章にも草稿の査読者として謝辞に名前が挙がっている、ティム・オライリーの「ポール・グレアムが不平等について見落としていること(What Paul Graham Is Missing About Inequality)」です。
オライリーは、グレアムの分析はいろんなレベルで間違っているとまず断じ、テクノロジーが我々皆をより金持ちにしうる点についてグレアムに同意するが、テクノロジーが必然的に経済的不平等を拡大するという点には同意しない、それはその企業がその富に見合う真の価値を生み出してない場合のみ起こることだ、と斬っています。
そして、シリコンバレーで従業員に富をもたらす伝家の宝刀であるストックオプションにしても、所得の不平等の増大に予期しない役割を果たしていることに注視すべきとも付け加えています。
それから、オライリーはグレアムの文章に注釈をつける形式でグレアムの論考のダメなところを丁寧に指摘するのですが、これがワタシが上に書いたグレアムの文章に感じる不満(極論を前提とする藁人形論法、「富」と「価値」の取り違え、ピケティへの目配せ)にすべて対応しており、しかもクリントン政権時に経営者の給料を抑制する、よかれと思って作られた法律が逆効果となり、その結果、1960年代には20倍だった従業員と経営者の給与格差が、今では300倍に広がっていることを指摘しており、経済的不平等の話が、グレアムがスタートアップの枠組みで書くような単純なものでないことも指摘するなど、議論の粒度が違います。
かつてグレアムは、「知っておきたかったこと」の中で、「ぼくはだいたい30人くらい、意見を気にする友人がいる。残りの世界の意見はぼくにとってはどうでもいい」と書いていますが、(グレアムが既に反論を書いた相手はともかく)エッセイの草稿を読んでもらったティム・オライリーは、間違いなくその30人の中にいるでしょう。そのオライリーによる正面からの批判は、グレアムにとって痛いものだと思うのですが、反論は公開されるでしょうか。
そしてこれがダメ押しになるかは分かりませんが、「私は(スタートアップによって)経済的不平等を増やすことの専門家」というグレアムの自負にも既に強力な批判が寄せられています。ワシントンポストのジム・タンカズリーが、グレアムの文章に対する経済学者の反応を取材した文章ですが、結論から書くと、経済的不平等を重要ではないというのはアメリカ経済の現状を誤読しているし、グレアムは経済的不平等に関するスタートアップの影響力を過大評価している。しかも経済的不平等の主因は(スタートアップの存在などほとんど関係なく)レントシーキングであり、実際の経済はむしろグレアムが「パイの誤り」と指摘するゼロサムに近いというのです。
ここまでくると、「私は経済的不平等を生み出す側の人間」「私は経済的不平等を増やすことの専門家」という大見得も滑稽にしか思えないのですが、ポール・グレアムほどの人物も、自分の専門分野でない分野を専門分野と同じくらい自信満々に語り、思慮深い市政の人たちや当の分野の専門家の冷静な指摘に一蹴されてみっともない姿を晒すというネットで散見される轍を踏んでしまったのでしょうか。
以上のように書いておいてなんですが、今回の経済的不平等についての文章の評価と、起業家やシード投資家としてのポール・グレアムの評価は言うまでもなく別です。今や Y Combinator 出身というのは一つのブランドと化していますし、それは過大評価ではないでしょう。彼はテクノロジースタートアップを支援することで、少しずつですが確かに世界を変えてきたのです。
ただ『Yコンビネーター シリコンバレー最強のスタートアップ養成スクール』にも、Y Combinator 出身スタートアップの評価額は Dropbox 一社が押し上げており、Y Combinator というベンチャーファンドにとって意味がある会社は Dropbox 一社の異常値かもしれないという話が出てきます。今では Airbnb が Dropbox をしのぐ評価額をつけていますが、一方でこの二社に代表される「ユニコーン」を見る市場の目は厳しくなっています。
フレッド・ウィルソンは、「2015年は「ユニコーン」を葬った年として歴史に残る」とまで書いていますが、それに呼応するように Dropbox の評価額が半額に下げられたというのもニュースになったばかりです。
そのあたり潮目が変わりつつあるように思うのですが、今回のグレアムの経済的不平等についての文章、並びにそれに対する反応もまた後になって、あれは Y Combinator を巡る潮目が変わる一つの契機だったと後になって振り返られることがなければよいのですが。
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登録はこちら雑文書き/翻訳者。1973年生まれ。著書に『情報共有の未来』(達人出版会)、訳書に『デジタル音楽の行方』(翔泳社)、『Wiki Way』(ソフトバンク クリエイティブ)、『ウェブログ・ハンドブック』(毎日コミュニケーションズ)がある。ネットを中心にコラムから翻訳まで横断的に執筆活動を続ける。