© Jag_cz - Fotolia.com
見えないことの恐怖 - 攻殻機動隊/透明人間
想像する映画、創造する技術 #6
2016.02.05
Updated by Masato Yamazaki on February 5, 2016, 16:30 pm JST
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想像する映画、創造する技術 #6
2016.02.05
Updated by Masato Yamazaki on February 5, 2016, 16:30 pm JST
先端技術について語られる時、必ずつきまとうのが、その技術が正義に使われるのか、悪に使われるのかである。例えば、人工知能、遺伝子操作。いまのところ、善悪の境目が感覚的であいまいな部分があるため、判断がむずかしい。
そして、映画の題材の多くで、正義のための技術が悪に流用される。むしろ、悪のほうが積極的に使いこなしていたりするので、地球の存亡をかけた戦い にしばしば発展する。先端技術というのは、期待と同時に不安をかきたてるものだなあ。そんなことを思いながら、10年ぶりくらいに『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』(1995年劇場公開)を観た。
崩落寸前のDVDの山から、危険をかえりみず攻殻機動隊を引っ張り出したのは、「攻殻機動隊 REALIZE PROJECT the AWARD」(2月11日・渋谷ヒカリエ)というイベントの告知を見たからである。このイベントでは、『攻殻機動隊』で描かれた2029年の世界の可能性をリアルに体験できるという。各地の予選を勝ち抜いた熱い作品の審査と、トークショーなどが行われるそうだ。ぜひ、見に行きたい。
原作が発表されてから25年たった今でも、この作品の人気が衰えないし、古くならない。その理由のひとつに、あるようでないような、ギリギリのリア ル感とライブ感があると思う。まだ映画のような世界はおとずれていないが、荒唐無稽でもなく、むしろ現在は進化の過程にある、そう感じる世界観が魅力と想像力をかき立てているのではないだろうか。
進化の過程と感じるアイテムのひとつに「光学迷彩」がある。ものすごく簡単にいうと、光の屈折を利用して対象物を透明に見せる技術である。2012年にメルセデス・ベンツがキャンペーンの一環で透明化できる車の映像を公開しており、映画と現実が近いことを実感できる。
自分も数年前に「ドラえもんの未来科学展」で透明マントを体験したが、想像以上に透明で驚いた。大人気なく、子どもより長く見入ってしまった。それでも、陽炎のようなゆらゆらした残像が残るのだが、最近では、戦闘機を覆い隠すことができる一歩手前くらいまで進化しているようだ。透明が身近になる日も近いかもしれない。
透明人間は、様々な映画で取りあげられてきた。大別すると「透明になるタイプ」と「見えなくなるタイプ」の2系統がある。具体的には、薬を飲むなど して人間が透明になるものと、光学迷彩によるものだ。薬を使うものには、『透明人間』(1933年公開)、『インビジブル』(2000年公開)などがあ る。透明人間はその後、何度も映画化されており、ホラーの色あいが強い。
光学迷彩が登場する映画には、『プレデター』(1987年公開)、『007 ダイ・アナザー・デイ』(2002年公開)、昨年公開された『THE NEXT GENERATION パトレイバー』(2015年公開)などがある。ドラえもんの透明マントも光学迷彩の一種であろう。『ハリー・ポッター』は、判断に迷うところだ。マントを 羽織ると透明になるが、魔法も使われているようにみえる。ハイブリッド型としておきたい。
そして、もしも『攻殻機動隊』に光学迷彩ではなく透明人間が登場していたら、物語は違うものとなっていたであろう。ふたつのタイプではリアリティに格段の違いがある。攻殻機動隊が研究開発のヒントになったりする所以は、そこにあるのではないだろうか。
透明な存在は、非常に恐怖だ。たとえ味方であってもだ。そして、どんなに善良なふりをしても、悪いニオイがする。隠れてやりたいことなんて、だいたい胡散臭いものである。「透明人間になれたら何をしますか?」と聞かれたら、ほとんどの人が、イタズラ以上、犯罪未満の回答をするだろう。透明人間は、どう 繕っても恐怖と悪の気配を消し去ることはできない存在なのだ。
だから、どの映画を観ても、透明人間は完全体として描かれない。必ず隙があったり、技術に不完全さが残っていたりする。血は透明ではないとか、光の加減でぼんやり姿が見えるとか。これにより、かろうじて恐怖に打ち勝ち、良心を保っているのではないだろうか。不完全さはリアリティの追求より、完全透明への恐怖なのだろう。そして、悪のニオイが透明を描く原動力であり、魅力なのだと思う。
見えない存在は怖い。透明人間でなくても、AIが感情を持つのも怖いし、人間以上の力を発揮するのも怖い。理解できないもの、想像できないことに対して人間は弱い。
そう考えると、インターネットは怖くないのだろうか?
ネットの先にいるのが、本当はどんな人間なのか皆目見当がつかない。つかないどころか人間である保障もない。自分で都合よく人と会話をしていると 思っているだけで、ロボットかもしれないし、ロボットだと思っていたものが、実は違うかもしれない。そんなことはないということもできるが、それを証明する手段をもない特殊空間なのに、平気でいる。ほんの十数年前は、怖いとか、怪しいとか言っていたのにだ。
そして、嫌なことがあっても、アクセスをやめない。やめるどころか、さらに防御を固めて、つながり続ける。そして、自分も姿を隠し、あらゆる場所に 出没しては消えていく。その振る舞いは、透明人間のそれと大差ないように思える。リアルな姿を透明にして、現れては消え。時空を越える分、透明人間以上の存在といえるのかもしれない。
透明人間同士のやりとりでは、信じられるのは善意だけだ。人も先端技術も、善良さが最後の砦である。先行きの不透明感に立ち向かえるのは、経済政策でも科学の進歩でもなく、正しさであり良心なのではないだろうか。そうでなければ、信じられるものがなくなってしまうかもしれない。
「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊」「透明人間」の作品情報はこちら
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