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道具としてのAIと新しい時代にもとめられる知力

2017.07.14

Updated by Ryo Shimizu on 7月 14, 2017, 05:01 am JST

 今更いうとむしろ白々しくさえ聞こえてしまうが、近年のAIの進歩は著しい。
 最近の整理では、これからのAIには目指すべき方向性として大きくわけて2つの方向性がある。

 ひとつは人間と同じように思考することができる一般人工知能(AGI;Artificial General Intelligence)の実現を目指し、その先には人類をも超えた人工超知性(ASI:Artificial Super Intelligence)の出現を期待するというアプローチ。もうひとつは一般人工知能人間と同様の知性をAIに求めることはせず、むしろ特定用途における超知性を作り、それを利用して人間とAIのハイブリッド体、知能サイボーグを作ろうというアプローチである。

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 用途の限られた人工超知能を、ここでは仮に特殊人工超知能(SASI;Specific Artificial Super Intelligence)と呼ぶことにする。

 この場合の「特殊」とは特殊相対性理論と同様に、「限られた状況でのみ効果的である」ことを意味する。

 「限られた状況」が設定されたとき、実は既に現状のAIは人間を遥かに凌駕する性能を持っている。たとえばAlphaGoはもちろんのこと、一般的な画像分類でさえ人間には不可能な速度で行うことが出来るし、もっと単純な問題、たとえば四則演算や繰り返しといったことでは人間と機械との差は数億倍の開きがある。

 これは舗装道路を走る自動車が人間より速いというのと同じで、条件が限られれば人間より機械の性能が高いことはままある。

 この「今のAI」を敢えて「特殊人工超知能(SASI)」と呼び替えることに何の意味があるのかと言えば、AIという言葉があまりにも便利であるために濫用されがちであり、時折AIという言葉がどのような意味・目的で用いられるか曖昧になることがあるからだ。

 そして再度認識しなければならないのは、今の人工知能は、用途さえ限られれば既に人間を凌駕する性能を持っているという事実である。

 最近、「AIはいつ人間の能力と同等以上になるのですか」という質問をよく頂く。答えは「用途を限定すれば既に人間を超えている」ということになる。

 しかし一般の人がAIという言葉を聞いて期待するのは一般人工知能(AGI)の方であり、用途が限られれば機械の方が性能が高いなんていうことは説明されなくてもわかる。

 筆者は一般人工知能が実現するにはまだまだ高いハードルを超えなければならないと思っている。想定されるハードルで最大のものは、この連載でも繰り返し指摘しているが、AIは人間のように幼児から成長していくというプロセスを持っていないことにある。

 もちろん、可能性としてバーチャル空間で赤ん坊から育つAIを育てられないことはないかもしれないが、それは極めて膨大なリソースを要求する。それに対するモチベーションを持った企業なり研究機関なりがどれだけ存在するか、ということに限定される。今だってやろうと思えばそういうバーチャル環境を作ってバーチャル環境上で赤ん坊のAIを育てるということは不可能ではないだろうが、そもそも人間が自分の子供を育てるのでさえ育児ノイローゼになるのが当然であるという状況で、AIの夜泣きに対応してもいいという個人が何人現れるか。そして人間と同じように愛情を注いで育てることができるかどうか、さらには、バーチャル環境の中にある幼稚園に複数のAIが集められたり、もしくは時折人間の幼児が混じったりして遊ぶことはできるかなど、さまざまな問題をクリアしなければならない。

 成長や社会性の獲得といったプロセスを経ないで一般人工知能が作られたとしても、それは人間のように振る舞うことはできても人間のように思考することはできない機械になるだろう。人間の心理が持っている重要な機能のうちのひとつは共感力で、共感力が鍛えられるためには自分にも似た体験がなければならない。ポン、とうまれたAIにはそれがない。

 では用途を限った場合にAIはどのように見えるか。当然ながら、それは新しく優れた知性のための道具になる。メガネが個人の視力差をカバーするように、道具としてのAI(SASI)は、個人の知力差をカバーすることができる。もう掛け算の九九を覚えるまで廊下に立たされたりしなくていいのだ。

 AIによる知能サイボーグ化が実現すれば、あなたが考えるよりも速く正確な答えが出てるはずである。筆者が中学生の頃、隣の席に座っていた女子がソロバンの有段者だった。ソロバンの有段者は4桁同士の乗算を暗算できる。筆者が筆算でやるよりも圧倒的に速くできる。そうするとどうなるか。「4825円の商品の粗利が27.4%で、1000箱売るには仕入れ値は幾らか」というような質問に即答できる。普通の人間なら電卓に頼るところだが、SASIによる支援を受けた人間は疑問を口にしただけでAIが答えを教えてくれるようになるだろう。

 これを進化と捉えるか退化と捉えるかは難しい問いだ。
 近代の人類は原始時代に比べて明らかに目が悪くなっている。先進国では近視の人類がむしろ主流になってると言っても良い。高齢化するとこれに遠視が加わり、とにかく目が正常という人のほうが相対的に少なくなる。

 しかし近視は手近で本を繰り返し読んだりするとなりやすいとも言われており、いわば現代病でもある。では遠くまで見る視力と、近くの本を読む視力のどちらが現代を生きるのに大事かといえば、圧倒的に本を読む視力であることは疑うべくもない。

 21世紀の先進国では、2キロ先のライオンを裸眼で発見する必要はないからだ。

 遠くの外敵を発見する力を手放した代わりに、高度な文明を築き、外敵をコントロールする方法を人類は学んだ。

 ではAIによって人類は考える力を手放すだろうか。

 そうはならないと筆者は考える。人類が手放すのは「考える力」の中でもごく一部、「正確に計算する力」と「正確に繰り返す力」の2つである。

 このうち「正確に繰り返す力」の方は既に衰え始めている。たとえば文字だ。
 現代の人間はキーボードやスマートフォンに慣れきっており、ペンで文字を書く機会がどんどん減ってきている。ペンで文字を書き、相手に伝える場合はそれなりに可読性の高い文字を書かなければならない。これが「正確に繰り返す力」である。

 字が汚い人というのは、たいがいせっかちである。できるだけ短時間で出力したいから、最短時間で最低限の可読性が確保できれば良いと考えてミミズののたくったような文字を書く。でも本人には読める。だから最低限の可読性なのだ。本人のニューラルネットワークにだけ強く作用するように書いているわけだ。

 仮に筆者がこの原稿を手書きで書いていたら、とてもじゃないが月に五本の連載をこなすことはできないだろう。ペンを滑らせて文字を書く代わりにキーを押して「繰り返す力」を機械に代替させているからこそ低いコストで大量に書けるのである。

 「正確に計算する力」を維持できている人類も珍しい。そりゃ、三桁の足し算くらいなら誰も間違えないだろうが、三桁の乗算になったらたいがいの人が慌てふためく。例えば149✕352をどのくらいのスピードで計算できるだろうか。筆者は末尾に0を含まない三桁同士の乗算をみたら電卓かExcelを起動することを真っ先に考える。昔の人なら、「ソロバンができればこんな暗算は楽勝だ」と言うだろう。しかし21世紀に生きる暗算の苦手な筆者は、ソロバン名人が生涯こなした全ての計算よりも遥かに多くの計算を機械に行わせ、役立てている自負はある。

 ということは、方程式も微積分も、古文漢文も英語も第二外国語も、ひょっとすると社会や理科でさえも、今までのように学校で通り一遍の授業を受けて「正確に計算する力」と「繰り返す力」を鍛える意味はほとんどなくなっていくかもしれない。

 唯一どうしても必要なのはもしかすると国語の時間だけで、さすがにこれがわからないと文字は読めないし書けないしだから、これくらいは学校でやったほうがいい気がするが、それ以外のほとんど全ての学問について義務教育で教えるのは今の1/1000くらいの分量でいいのではないかという気がする。

 今の学問は多様であり、多様であることが今の学問と文明の根底を支えている。唯一価値があるのは多様性であり、多様であることの肯定は個々人がユニークな個性を持つことへの肯定でもある。

 多様性を肯定すると、たとえば大学入試や就職活動の価値観がガラリと変わる。

 今の日本の大学入試制度は、原則として東京大学を頂点としたピラミッド構造を持っている。これは乱暴に言ってしまえば多様性の否定である。「優れた人物」の評価基準を東大入試のペーパーテストに定め、全ての受験勉強の基準が東大入試までの道のりからの逆算によって成立している。

 「正確に計算する力」や「正確に繰り返す力」が重要だった時代はそれこそが求められる人材の条件であり、この2つを満たす人材が重宝された。従って現時点まではこの前提はそれほど的外れではない。

 しかし「繰り返す力」も「計算する力」も、実はどちらも同じ性質の力で、これらは近いうちに機械(SASI)に代替されてしまう力であることは明々白々である。

 したがって、現時点ではこの2つのちからを伸ばすことは的外れでないとしても、すぐに的外れになる可能性が高い。

 これからの時代は繰り返す力よりも、「夢中になる力」と「人を驚かせようとする力」のほうがより重要になっていく。

 「夢中になる力」は、なにか興味をもったものにとことんのめり込む力である。虫でもアイドルでもゲームでもなんでもいい。人は根本的にこういう力を持っているはずだが、全ての教科をバランス良く学ぶことが前提の価値観の世界ではこうした力はスポイルされる傾向が強い。しかし夢中になる力とはまさしく個性の発現そのものなので、否定するべきではない。

 人はもっと熱中し、そしてもっと早く飽きるべきである。熱中し続けることも大事だが、飽きることも同じくらい大事だ。飽きるというのは、現状の否定であり、とても生産的な心理状態である。なにか別のことを探そうという意識状態だからだ。それは新しいことを生み出す原動力になる。

 「人を驚かせようとする力」もまた、創造性と強く関係している。「驚く」というのは、予想外のことが起きるということだ。予想外のことというのは、当然ながら創造性がなければ考えることが出来ない。互いが互いを驚かせようと切磋琢磨するとき、そこには強い創造性と多様性が生まれる。「アレと同じ」では驚かないのだからこれは当然多様性を生むバックグラウンドとして理想的だ。

 少し前に流行った「集合知」という考えかたにおいて一番大切なのは、多数決によって意思決定する集団の大きさではなくて、集団に集められた個人の多様性である。

 船が海で遭難したとする。
 あり得ない仮定だが、海難事故の専門家はその場に誰もいなかったとしよう。

 海洋学者だけが集まって議論しても、海洋学の常識でしか想像できない。船乗りだけが集まって議論しても、船乗りの常識でしか想像できない。最も正しい答えに近づくのは、船乗りと海洋学者、それに心理学者やエンジニア、気象学者など、多様な背景を持ったそれぞれの分野の専門家が知恵をあわせたときだという。それが「集合知(Collective Intelligence)」だ。

 これと似た現象がAIの世界にもあって、これをアンサンブル学習という。アンサンブル学習では同じ問題、同じプログラムであっても、複数のランダムな初期状態によって得られた弱学習器による多数決の方が、ひとつの強学習器よりも高性能になることを示している。まさしく同じ問題であっても多様性、個性が大事なのだ。

 

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清水 亮(しみず・りょう)

1976年新潟県長岡市うまれ。6歳の頃からプログラミングを始め、16歳で3DCGライブラリを開発、以後、リアルタイム3DCG技術者としてのキャリアを歩むが、21歳より米MicrosoftにてDirectXの仕事に携わった後、99年、ドワンゴで携帯電話事業を立上げる。'03年より独立し、現職。'05年独立行政法人IPAより天才プログラマーとして認定される。

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