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清水 和夫

どの“レベル”のクルマであれ、全ての責任はドライバーにあることを原則とせよ

No matter what “level”, all responsibilities are in the driver as a rule

2017.10.27

Updated by Kazuo Shimizu on October 27, 2017, 17:36 pm JST

自動運転車の“レベル”議論は、ある種の誤解を与えている。というのはこのレベル定義は自動運転を開発する技術者が共通で認識するための「自動化の定義」であり、クルマの性能や製品価値を定義するものはない。実際にはレベル3以上の自動化は技術の差よりも、安全運転の責任が人なのか、あるいはシステム(AI)なのかという責任問題が絡むのだ。もしレベル4に近いシステムを開発しても、その自動車メーカーがドライバー責任に使ってもらうといえば、このシステムは高度なレベル2となってしまう。最近、アウディの新型A8は“世界初レベル3”と発表していたが、実際に市販されるA8はまだレベル3には達していない。これは行政の認可だけの問題ではなく、技術的にも課題が残っている。

しかし、例えば高速道路の渋滞で「スマホくらいは操作したい」というニーズがありそうだ。その場合、部分的にレベル3を実現することは不可能ではない。速度が低いから現状のセンサーでも可能だが、どんな状態がリスクが高いのか、当面はデータを集める必要があるだろう。また、レベル3を実現するには、道路交法と安全基準の2つの法律の認可が必要だ。

だがレベル3はとても難しいと多くの専門家は考えている。事故の責任がシステムなのか、あるいは人なのか。それを明らかにするには、どっちがハンドルを握っていたのかという事故直前のデータが必要だ。つまり、航空機のようなブラックボックスを搭載し、事故発生前後のデータから事故調査される必要がある。仮にシステムに責任があるのなら、自動車メーカーが被告席に座ることになるが、人が運転しているときの事故なら人が責任をとる。

一方で、事故が起きたときは保険で被害者を救済すればよいと考える人もいる。たしかに民事ではお金で解決する保険制度が有効かもしれないが、刑事責任はどうなるのだろう。自動運転の実現を前にして、たちはだかる壁は技術よりも事故の責任問題がメーカーにとっては悩ましい課題なのだ。いずれにしても、この問題を解決する方法は一つしかない。それは「どのレベルのクルマであれ、全ての責任はドライバーにある」を原則とすることだ。そうすればメーカーも“安心して”より安全なクルマを作ることに注力することができる。逆説的だが、ドライバーが「自分の責任です」と言い切ってくれるのなら、クルマメーカーは事故を起こす確率の低いクルマを全身全霊で作り込んでくるだろう。これが結果的に好循環になるはずだ。だが、例えば、ドライバーがメールチェックできる環境をどう作るのか。システムの信頼性と法整備が進むことを期待したい。

もう一つ重要な視点は倫理学。左に行けばお年寄りが、右に行けば小さな子供がいる。いずれかに突入せざるを得ない、といういわゆるトロッコ問題を考える時に、ドイツのクルマであれば「人の命に差をつけては行けない」というポリシーがあるがゆえに、お年寄りと子供を助けるために、崖に向かってハンドルを切って自殺する選択もありうる。これはドイツのカント主義に基づく考え方だ。しかしそのような制御を行うクルマは米国では売れないだろう。米国流の合理主義で行けば、小さな子供を助けるべきという方向にいくからだ。しかしそうまでしてAIに運転を任せたいのだろうか。

AIでも人でも、移動することの意味はどこにあるのだろうか。人類の歴史は移動の歴史でもあるが、この理由はいくつか考えられる。まず人が孤独に耐えられるようにはできていないということ。昔のローマ帝国の時代からのヨーロッパの街づくりには、必ず中心にプラッツア(plaza)がある。要するにコミュニティ広場だ。そこに人が集まってくる。若い人たちがスマホでつながるのは、サイバー空間上でつながるのがゴールではなくて、そこで知り合って、最終的にはみんなフェース・ツー・フェースで顔を合わせたいからではないかと私は考えている。そこでモビリティとコミュニティを合成した“モビコミ”という言葉を考えたが、より快適な移動手段があればより楽しいコミュニティが待っている。自動運転車がそのトリガーになる可能性は大いに秘めているとは思う。

能登半島の先端にある珠洲(すず)市。ここはもう限界集落で高齢化率が高い。能登空港から珠洲市までバスの運行は少ない。ドライバーの成り手がいないのだ。金沢大学の菅沼先生がプリウスを使ってレベル4の自動運転車を実験している。人が少ないから、レベル4も実現できそうな感じだった。取材の帰りに、能登半島の先端にある古民家を改造したカフェに立ち寄った。ここでは老若男女があつまり、美味しいコーヒーを楽しんでいる。これも一つのコミュニティの喜びなのだ。自動に移動することができると、街とライフスタイルとコミュニティが合体する。その背景には自由な移動が不可欠なのだ。

1939年のニューヨーク万博でGM(当時のGMは若いベンチャーであることに留意してほしい)が自社パビリオンで「Futurama(フューチュラマ)」を展示した。ここでは新しくデザインされた都市を自動車が走る、という未来の姿が描き出されていた。T型フォード発売から30年後前後になるこの頃は車の事故が多発していた時期でもある。GMのこの展示が事故を意識したものなのかどうか、今となっては調べる術はないが、自動運転も視野に入れていたのかもしれない。モビリティと都市の融合は、はるか昔から人類が思い描いていた夢なのだ。

11月1日に東京モーターショー シンポジウム2017にて開催される「安心・安全につながる車社会の実現を目指して〜コネクテッドカーのセキュリティを考える〜」では自動運転で想定されている様々な脆弱性やレベル2と3の間でやり取りされる責任のやり取り、あるいはその時のインタフェース(HMI)などについて語ってみたいと思う。

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清水 和夫(しみず・かずお)

1954年生まれ東京出身。株式会社テクノメディア代表取締役。1972年以来、国内外の耐久レースに参加すると同時に、国際自動車ジャーナリストとして運動理論・安全技術・環境技術などを中心に執筆。2011年12月から日本自動車研究所客員研究員。その他数多くの自動車・ITSに関連した検討委員を務める。近年注目の集まる次世代自動車・コネクテッドカーにも独自の視点を展開、SIP自動走行システム推進委員会にも参加。自動車国際産業論に精通する一方、スポーツカーや安全運転のインストラクター業もこなしている。