インターネットの発達のせいか、紙の本や新聞はもうおしまいだ、書店がつぶれる、という話がひんぱんに聞かれるようになって10年近く経つ。そんなとき、紙の本のよさとして必ず語られることがある。それは、紙の本には、モノ(物体)感があり、それを支えている要素のひとつが紙の手触りだ、ということ。
以前、スイスのグラフィック・デザイナーと対談したことがあった。そのとき、ぼくはおみやげに自作の本を持っていった。彼はその本の手触りに驚いた。しかし、そのとき彼が驚いた紙はもともと輸入紙なので、ヨーロッパが販売のメインだった。彼を手触りに注目させたのは、手触りに注目せざるをえないようなシンプルなデザインだったせいだったかもしれない。
たしかに、彼がつくっている本の多くは、紙の手触りというよりも、本の量感や、視覚的インパクトを重視しているように見えた。そこには、紙は、印刷され、装飾されてはじめて活きてくる、という考えがあるようにも感じた。それは一面では正しい。紙そのものが持つ風合いのよさよりも、丈夫か、印刷適正はよいか、ということに比重を置くのは当然だ。
一方、日本では、歴史的に、紙と親しく接してきたせいで、紙そのものへの愛着はどこの国よりも強い。
かつての日本人の生活は、紙とともにあった。ガラスがなかったので、かわりに紙が使われた。障子である。そして、屏風、襖はもちろん、お守り・護符、神社の紙垂(しで=しめ縄とともに結界をつくる飾り)などでも紙が主役。
ちなみに、この木と紙の生活は、太平洋戦争のとき裏目にでた。米軍は日本の紙製・木製の都市が破壊というよりもよく燃えるように、燃やすことに特化した焼夷弾を開発した。
ともかく、紙の白は、洋の東西を問わず、神につながる神聖な色とされることが多い。ほかの色に毒されない無垢・純潔というイメージがあるからだ。日本でも、結婚から葬儀まで人生の節目には白が必ず使われる。その神聖視のあらわれが、紙垂などの白い紙飾りである。
あるアメリカの日本の和紙研究家は、「日本人は、最も高貴なもの、神聖なもの、芸術的なものから日常的な毎日の考えに至るまで、人間性のありとあらゆる側面を紙に託して表現した」(ニコラス・A・バスベインズ『紙 二千年の歴史』)、と言っている。その紙づくりを支えていたのは、豊富な水と、和紙の原料となる繊維の長い木がたくさんあったからである。
「紙」は「神」と同じ音を持っている。だからというわけではないが、日本人は、紙を生活を支える大事なもの、聖なる自然の一部として、畏敬の念をずっと抱いてきたことは間違いない。
ペリーが黒船でやってきたときのこと。交渉のために乗り込んできた幕府の下級官吏が、懐から懐紙をだして鼻をかんだ。それを見たペリーは、大事な紙を鼻紙に使うとは何事だ、と驚いた。アメリカでは、紙は貴重品だったからだ。一方で、バカにしていた日本人の、文明の高さにも驚いた。
アメリカで紙が貴重だったのにはある理由があった。18世紀、まだイギリスの植民地だったころ、アメリカでは、製紙業が盛えた。それは残念ながら新聞や本の需要を満たすためではなかった。なんとマスケット銃の紙製薬莢などに使うため。弾と弾を発射させるための火薬は、離しておかないと暴発する。そのために紙は手軽でちょうどよかった。
紙は、つくってもつくっても足りず、そのころ出版された聖書をばらしたり、製本所に向かう途中の未製本の本を奪って、紙薬莢などにしたという(マーク・カーランスキー『紙の世界史』)。神聖な聖書をばらしたなんて、暴動が起きてもおかしくない事件だが、それだけせっぱつまっていたのだった。いわば、間接的な焚書事件といえる。
これは、紙ならなんでもいい、紙質を問わない、という紙の価値を転換した事件でもあった。いやむしろ紙でなくても、手軽に遮れるものだったらなんでもよく、紙を冒涜している事件でもあった。こうした紙不足がペリーのころも続いていたのだろう。
ちなみに、イギリス発祥の産業革命は多くの価値の転換をもたらした。なかでも、古代から命を育むものとして大事にされてきた水を、水力・蒸気という単なるエネルギーに変えてたことは大事件だった。ここでも水質を問わず、汚れていようが構わなかった。
紙質にこだわった、といっても、強度だけで手触りは関係がなかった。それは太平洋戦争末期、戦局を打開するために考えだされた奇策、風船爆弾によるアメリカへの奇襲爆撃作戦だ。
▼図1──太平洋戦争で使われた風船爆弾とB29との大きさ比較。気球の直径は10mでB29と比較してもかなり大きい。高度1万5000mになると気圧計が作動して水素を自動的に放出して高度を下げ、9000mになると、3kgの砂袋を自動的に落として、また浮上する。これを繰り返しながらアメリカに向かう。砂袋は30個搭載。
戦争末期、日本上空のジェット気流が、アメリカにそのまま流れていくことがわかった。それでは、と気球に爆弾をつけてアメリカに落とそうという、かなり神頼みの作戦を立てた。といっても言うは安し、行うは難し。気球は、太平洋という長距離を旅したのち、アメリカについてから自動で爆弾が落ちなければならない。
いろいろと試行錯誤のすえ、時限装置を考案したが、最大の課題は、零下数十度になる1万1千キロの高空を爆弾や重りを抱えて長距離の旅しなくてはならないこと。風船には、かなりの軽さと強度が要求される。そこで選ばれたのが防水・防寒に強いコウゾを使った和紙。国内の和紙製造業者が動員された。のりはコンニャクを使ったので、一時日本国中からコンニャクが消えた。
ちなみに、特攻機の片道の燃料タンクも和紙とコンニャク製。気球の場合はまだ納得できるが、紙製のタンクなんてほとんどギャグとしか思えない。胴体も障子を貼るように、木枠に紙を貼ったらしい。戦争をはじめるのは簡単だが、戦争遂行能力がなくなっても戦争を止められない悲哀がにじんでいる。
風船爆弾攻撃の結果は、9000個が放たれ、1000個ほどがアメリカ大陸に到達し、死者6人と少しの山火事の被害を与えた。ただし、細菌兵器が入れられるのではないか、という心理的効果は絶大で、米軍は、風船爆弾製造工場爆撃を優先した。風船爆弾対策費も原爆製造ほどではなかったが、アメリカに巨費を投じさせた。
しかし、偏西風が吹きはじめる秋になると風船爆弾作戦がまたはじまって、今度こそ細菌兵器を投入するのではないか、という懸念から米軍は、原爆投下を早めたという説もある。やはり、戦略というのはつくづくゲームだ、ということを如実にあらわしている。日米双方に言えるが、落とされる爆弾の下には多くの無辜の民がいる。
だいぶ横道に逸れてしまったが、紙に囲まれた生活によって、触感は、日本人にとって重要な感性となっていった。そんな日本人のなかで、触感を芸術にまで高めた人物がいた。千利休だ。
利休は、わび茶を完成した茶人として知られているが、今でいうプロダクト・デザイナーでもあった。茶室のあり方を提案し、茶碗や茶ぐしなどの茶道具をデザイン。粗末なものにも価値を与えた。
もともとは大坂堺の貿易や廻船業のための貸し倉庫屋(納屋衆)の豪商の出。彼らのなかには武器商人もいて、戦乱を支えた。したがって、彼らの発言力は強かった。
なかでも利休のすごさは「見立て」にあった。本来茶道具でないものも茶道具に使ったからだ。水筒だったヒョウタンを一輪挿しにしたり、魚を入れる魚籠(びく)や、井戸の水汲み用の木の桶を水指(みずさし)に、大量生産品である李朝の雑器を最高の茶道具とみなしたことなど。二畳の粗末な空間を美的感覚に優れた最高の茶室としたこともそうだ。
利休は、「奥」で触れた、舶来の縦ストライプの生地のすばらしさを喧伝した茶人のひとりでもある。身代をつぶした人もいた、と述べたが、乞食が着ていたボロ着の模様が縦ストライプだったから、と全財産をだして買い取った話もあり、かつてのオランダで起きたチューリップ・バブルにも似た、いわば詐欺の片棒を利休は担いでいたともいえる。
17世紀のオランダで、オスマン帝国からもたらされたチューリップの美しさが人気となり、チューリップを欲しがる資産家が増え、値段が高騰していった。チューリップを育てるのには時間がかかる。そこで、チューリップなしで取引されるようになった。先物取引だ。当然これは現物がないのでいずれ破綻する。これがチューリップ・バブル。1個の球根で家が建つ、ともいわれた。ボロ着と同じことが50年後くらいのヨーロッパで起きていたのだった。
利休は、雑器を高級品などと秀吉に売り込んでもいた。ボロ着や雑器の話といい、利休は、最終的に秀吉から切腹を命じられて自害するが、このあたりにもその遠因があったのかもしれない。
雑器といえば、竹を節のところで切って一輪挿しにし、秀吉に献上したこともあった。秀吉は、こんなものを、と激高し、庭に投げ捨て、竹にはひびが入ってしまった。
▼図3──秀吉にひびを入れられ。それを「園城寺花入れ」と利休が名づけた、竹の花入れ。(『図説 利休──その人と芸術』村上康彦、河出書房新社、1989)
秀吉は、金箔張りの、通称黄の茶室をつくったくらい、センスは今ひとつ。しかし、この茶室制作に利休もかかわっていたとされる。利休は、後述するが、マルセル・デュシャンのようなデザイナー的感性を持っていたと思われる。状況を否定せずに、状況を味方につけようとする感性だ。つまり、質素なら徹底的に質素に、逆に、華美ならこれでもかと華美にする。
そして利休は、ひびの入った竹の一輪挿しを手にとって、このひびが、滋賀県にある天台寺門宗の総本山、園城寺(おんじょうじ)の鐘のひび割れに似ている、と「園城寺花入れ」と名づけた。利休の、秀吉にたいする見事な切り返しである。こんなことばかりすれば、秀吉に嫌われるのは当たり前だ。
このひび割れ切り返し事件は、デュシャンのひび割れが入ったガラス作品の切り返しと通じるものがある。デュシャンは、男性用小便器にサインしただけの作品で、20世紀最大の作家のひとりと言われている。
デュシャンの、通称〈大ガラス〉(1915〜23)というガラスを両面に張った大型作品が、搬送のとき、平置きにしていたためひびが入った。
デュシャンは、割れたガラスの破片を集めて、数ヶ月かけて復元し、ひびを活かしたまま両面をガラスで補強した。ひびも作品の一部としたのだった。ここに、利休と同じ感性を感じる。
▼図4──フィラデルフィア美術館に常設展示されているマルセル・デュシャン〈大ガラス〉(1915〜23)部分。ガラスのひび割れ部分が光線を受けて強調されている。
その利休の目利きとしての最大の功績のひとつは、目利きならぬ、触利き(そんなことばはないが)である。
利休は、茶碗でも独自の目利きぶりを発揮する。利休は、だれもが認める、舶来の高価な唐物茶碗は一顧だにせず、瓦職人長次郎に、中国に由来する技法、つまり、ろくろを使わずに手で茶碗をこねさせた。これが楽茶碗。
長次郎の工房は、秀吉プロデュースの金でおおわれた聚楽第にあり、聚楽第建設時に取り除いた土を使って茶碗をつくった。利休の屋敷も聚楽第にあり、利休プロデュースの長次郎の茶碗は、聚楽第茶碗とよばれ、のちに楽茶碗となったとされる。
この茶碗の特徴はまさに土のイメージをそのまま持っていたこと。ろくろを使わないので手のあと、非対称、凹凸など、プリミティブなよさと手触りが強調された茶碗である。利休は黒楽茶碗を好んだが、秀吉は嫌ったという。
茶碗の色は、中国、宋の時代は白、明の時代は青黒色か暗褐色が好まれた。宋時代では白(抹茶)が、明時代は淹茶(えんちゃ=茶葉にお湯を入れてつくる茶)が流行った。木村重信さんによると、これらは、茶の緑が映える色として選ばれたに違いない、利休の黒も、抹茶が映える色だから、という(木村重信『東洋のかたち』)。
そんな利休は、あまりにもセンスが違いすぎる権力者に仕えていて、依頼された仕事はデザイナーのようにそつなくこなす一方で、芸術家のように、自らの美学にもこだわっていた。秀吉の怒りを買うのは時間の問題だったのかもしれない。
▼図5──利休が愛した黒楽茶碗。(『図説 利休──その人と芸術』村上康彦、河出書房新社、1989)
ここで重要なことは利休が重視した「手触り」である。室町時代は、秀吉の聚楽第や黄金の茶室で代表されるように、金銀ぎらぎらの視覚中心の時代。渋さなどは微塵もなかった。そんな時代に利休のようなワビ・サビを唱えることはきわめてアヴァンギャルドな行為だった。長次郎の茶碗が楽焼きとよばれる以前は「今焼き」とよばれていたそうだ。「今」は「今風の」つまり、「最新」ということである。やはり利休はアヴァンギャルディストだったのだ。
そしてもうひとつ「最新」があった。触覚の美の発見である。利休が生きた時代「麁相(そそう)」ということばがしばしば使われた。
麁相とは仏教用語の「四相」(万物の無常のさま「生・住・異・滅」をあらわしたもの)を人の生に置き換え、「生・住・老・死」としたもの。この人生の無常をあらわすことばは、のちに生きている限り失敗もある、という意味に変化した。類語がおねしょをしたときなどに使われる「粗相」である。
しかし、利休時代は違った。「規格的で精巧なるものに厭離(えんり・おんり)の念を抱いた茶湯者たちは、灰被りの麁(アラ)きものにおいて、新(アラ)きものをみ、そして生(アラ)きものを強く感じたのであろう」(木村重信『美術の始原』一部のルビ筆者)。この「あらきもの」の特徴は破調であり、それを「手触り」が支えていると利休たち茶人はみなした。
そして先に触れたように、利休を含む茶人たちは、唐物ではない、朝鮮の李朝時代の高麗茶碗を好んだ。李朝ではポピュラーな雑器である。これらは、当時の日本で、名前の由来は定かではないが、「井戸茶碗」とよばれ、「一井戸、二楽、三唐津」と名器のトップに君臨した。
▼図6──竹田喜左衛門の銘のある井戸茶碗。(「井戸茶碗」wikipedia)
「井戸」の由来は、井戸をのぞき込むと暗くて深いから、朝鮮南部の地名からとった、茶碗をもたらした人物の名に「井戸」がついていた、奈良県の井戸村から産した、など諸説がある。ここに、私見ながら、なにげないものこそすばらしい、と表明するために身近なイメージを持ってきたという説も加えたい。
井戸茶碗の特徴もその手触りにあり、利休プロデュースの楽茶碗は、井戸茶碗にたいする、手触りを前面にだした日本からの解答といえるものだった。
そしてまた、感覚界では高位を占めるといわれている視覚・聴覚にたいする、触覚・味覚・嗅覚という低位の感覚からの反撃でもあった。手触りのよさが、その茶碗の価値を上げ、同時に視覚的にもすばらしい茶碗だと思わせたのだった。
この触覚重視は、東西の美学史のなかでも特筆すべきアヴァンギャルドな事件だった。
最後に象徴的な話をひとつ。これは手描きの書の話ではない。印刷やコンピュータ内で使っている文字、フォントの話。
現在、印刷やコンピュータ内で使っているフォントはすべてデジタル・フォント。25年以上前から開発されはじめ、今や、手描き文字ではない文字を使った環境を完全に支配している。
コンピュータが主流になる前の印刷用文字は、写真植字、通称「写植」を使っていた。これは、文字盤から拾った文字を撮影して印画紙に焼き付けたもの。
その写植とデジタル・フォントが混在した草創期のころ、写植を使い慣れていたデザイナーたちから「写植はよかった」という声がしばしば聞かれた。その多くは、コンピュータという新しいシステムに乗り切れないゆえの、懐旧の念に満ちたものだった。
しかし、デジタル・フォントの最大の特徴である、どこまで拡大してもそのエッジの鋭さが不変であることに違和感を抱くデザイナーたちも現れた。ただ、その違和感の出処はわからなかった。
それが、徐々に明らかになっていった。写植の文字盤は、デジタル・フォントと同じくエッジは鋭くつくられていた。ところが、印画紙に印字されることでその鋭さが甘く、柔らかくなる。これが無意識に視覚的な優しさを与えていたのだった。
楽茶碗が、手触りによって、見た目も含めた茶碗全体の価値を上げたように、写植文字も印画紙を媒介として、甘みという、いわば文字の手触りを得て、視覚的な優しさを手に入れたということができるかもしれない。
そして、現在は、あえてその甘みを加えたデジタル・フォントも存在している。
▼図7──横画と縦画が交差する部分にアールを加えてエッジの鋭さを抑えた書体(A1明朝)例。
参考文献
『はじまりの物語──デザインの視線』松田行正、紀伊國屋書店、2007
『紙 二千年の歴史』ニコラス・A・バスベインズ、市中芳江/御船由美子/尾形正弘(訳)、原書房、2016
『紙の世界史──歴史に突き動かされた技術』マーク・カーランスキー、川副智子(訳)、徳間書店、2016
『線の冒険──デザインの事件簿』松田行正、角川学芸出版、2009
『美術の始原』木村重信、新潮社、1971
『東洋のかたち』木村重信、講談社現代新書、1975
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登録はこちら書籍を中心としたグラフィック・デザイナー。「オブジェとしての本」を掲げるミニ出版社、牛若丸主宰。「デザインの歴史探偵」としての著述にも励む。著作は、「和」のデザインとして、『和力』『和的』(どちらもNTT出版)。近年の著作として、『デザインってなんだろ?』(紀伊國屋書店)、『デザインの作法』(平凡社)。歴史的デザイン論として『RED』『HATE!』(どちらも左右社)など。