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自動運転で、人はクルマと「関係」を築けるか

2019.04.05

Updated by 特集:モビリティと人の未来 on April 5, 2019, 09:42 am JST

これまでクルマというのは、ドライバーの身体の拡張としてあり、その一部として機能していた。ドライバーの「行為─知覚カップリング」のなかでは、行為系の一部に組み入れられていた。では、手動運転と自動運転の切り替えが可能な自動運転車において、「ここからは〈自動運転モード〉だよ!」とそのボタンを押したとき、ドライバーとその身体の一部としてあったクルマとの関係はどのようなものとなるのか。

〈自動運転モード〉に切り替えると、〈運転主体〉であったわたしの身体から幽体離脱したような、もう一つの身体が〈もうひとりの運転主体〉として、クルマを操作しはじめる。さっきまで〈運転主体〉としてあったドライバーとしてのわたしと、今クルマを運転している〈もうひとりの運転主体〉としての〈自動運転システム〉との二つが混在するということだ。いわゆるレベル3の〈自動運転システム〉では、この二つの〈運転主体〉が協調しあうことが求められる。とっさの危機を回避するために、すぐにでも運転に戻れるよう、運転していないときで も運転者の一人としての構えが必要になる。〈自動運転モード〉にあっても、ドライバーの心 は休めてはいけないようだ。どうしたら、この二つの〈運転主体〉の間で意思疎通や協調が図れるのだろう。

まずは、「ドライバーにとって、〈もうひとりの運転主体〉である〈自動運転システム〉の素性がよくわからない」という課題がある。これまでの自動運転車のデモ場面などを見ると、ハンドルからわずかに手を離しつつも、内心ではドキドキしている感じが伝わってくる。〈自動 運転システム〉に対して、まだ全幅の信頼を置けない、なかなかハンドルを手放せないということだろう。いま、このシステムはどんなことを考えているのか、次にどんなことをしようとしているのか。その素性がわからないと、手掛かりがつかめないのだ。

HRI研究でも、これまで同様な議論がなされてきた。ロボットは、電源を入れないとガラクタに近いようなモノなのだけれど、ひとたび電源を入れてみると、あるプログラムに従った機械として動き出す。生き物のような動きをすることもあれば、ヒューマノイドロボットのようにソーシャルな存在を目指すという側面もある。モノ、機械、生き物、ソーシャルな存在と、そのスパンが広いのである。そのロボットをどのような対象と捉えるかによって、インタラクションやコミュニケーションのモードも違ったものとなるだろう。

認知哲学者のダニエル・デネットは、わたしたちは目の前で動いているものを見るとき、「物理的な構え」「設計的な構え」「志向的な構え」のいずれかの構え(stance)で、その対象を捉えるのだという。自らの身体から幽体離脱したような〈もうひとりの運転主体〉をどのようなものとして捉えるのか。このデネットの議論に沿って考えてみたい。

例えば、乗っているクルマがわたしたちの意思に背くようにして、坂道を急に下りはじめたらどうか。「自らの意思でその場を離れたかったのかな?」とは思わない、むしろ「なんらかの要因でブレーキが外れ、重力に耐え切れずに、坂道を下りはじめたのではないか。このまま では加速がついて大変なことになる......」と心配になる。その動きを物理的な法則に当てはめて解釈しようとする、「物理的な構え」と呼ばれる構えなのである。

インパネの計器やLEDの点灯に対してはどうか。「そろそろ給油が近づいていますよ」の メッセージなのだが、それは「そのように設計されたもの」と捉えることだろう。このLEDからのメッセージに対しては「設計的な構え」で接しているのだ。〈自動運転モード〉にあるクルマに対しても、「スピードが上がりすぎると減速し、コーナーから外れそうになると軌道修正するように仕組まれているのだな」と、ふつうは「設計的な構え」で捉えることが多い。しかし、多様なセンサーや地図情報、ディープラーニングなどで学習された制御システムとなると、その背後にある設計意図は見えなくなり、素性のわからないブラックボックスになってしまう。

こうしたブラックボックスとしての〈自動運転システム〉の振る舞いは、ドライバーの目には「何らかの意思を持ち始めた存在」として映りやすくなる。「何らかの意思を持ち、それに沿って合目的的な判断をしているのではないか」、これは「志向的な構え」というものである。〈もうひとりの運転主体〉がドライバーの身体から幽体離脱した感じというのは、こうしたシステ ムに対して一種の「エージェンシー」を感じていることに他ならない。

ただ、「いま何を考えているのか」は、今のクルマと同じようなインタフェースではほとんど伝わってこない。いわゆるコミュニケーションとその手段を欠いているのである。

わたしたちの〈クルマ〉や〈自動運転システム〉に対する構えの変化にあわせ、その対象とのインタラクションやコミュニケーション・モードも変化すると考えられる。目の前にあるクルマをモノとして、「物理的な構え」で捉えるとき、その関わりは、押して みたり、揺らしてみたりと、そうした関わりのなかでクルマの素性を確認している。これは物理的なインタラクションである。

クルマを一種の機械や機器として「設計的な構え」で捉えるときはどうか。クルマのイグニッションボタンを押し、アクセルを踏む、そしてハンドルをまわす。カーナビの画面をタッチする。ここでは「操作」を中心としたインタラクションになっている。

こうした「設計的な構え」にあるとき、私たちはカーナビに向かって、「目的地設定!」「家に帰る!」と叫ぶことになる。それは「コミュニケーション可能な他者」ではなく、「設計された機器」に過ぎないため、命令口調になってしまうのだ。これは心を持たない機器をりつけているようで、なぜか落ち着かない。

一方で、クルマから聞こえてくるメッセージに対してはどうか。「シートベルトを締めてください」という有用な案内にもかかわらず、一方的に指示されている感じもする。それを無視するか、受け入れるか、その2つの選択肢しか残されていない。哲学者のミハイル・バフチン のいう「権威的な言葉」である。そのメッセージに対する解釈や調整の余地を欠いており、どこか命令調に聞こえてしまうのである。

目の前の機器に対して命令調で話しかけてしまう。一方で心や意思を持たないはずの機器からのメッセージが命令調に聞こえてしまう。いずれも、わたしたちの「構え」とコミュニケーション・モードのずれから生じるものだろう。

岡田美智男(おかだ・みちお)
豊橋技術科学大学大学院工学研究科情報・知能工学系教授
(『モビリティと人の未来』第7章「ロボットとしての自動運転システム〈もうひとりの運転主体〉とのソーシャルなインタラクションにむけて〉P114-118より抜粋)


モビリティと人の未来

モビリティと人の未来──自動運転は人を幸せにするか

自動運転が私たちの生活に与える影響は、自動車そのものの登場をはるかに超える規模になる。いったい何が起こるのか、各界の専門家が領域を超えて予測する。

著者:「モビリティと人の未来」編集部(編集)
出版社:平凡社
刊行日:2019年2月12日
頁数:237頁
定価:本体価格2800円+税
ISBN-10:4582532268
ISBN-13:978-4582532265

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特集:モビリティと人の未来

自動運転によって変わるのは自動車業界だけではない。物流や公共交通、タクシーなどの運輸業はもちろん、観光業やライフスタイルが変わり、地方創生や都市計画にも影響する。高齢者が自由に移動できるようになり、福祉や医療も変わるだろう。ウェブサイト『自動運転の論点』は、変化する業界で新しいビジネスモデルを模索する、エグゼクティブや行政官のための専門誌として機能してきた。同編集部は2019年2月に『モビリティと人の未来──自動運転は人を幸せにするか』を刊行。そのうちの一部を本特集で紹介する。