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君はインターフェイスではない方のUIを知っているか

2019.06.03

Updated by Ryo Shimizu on June 3, 2019, 13:48 pm UTC

この業界でふつう単に「UI」と言えば、それが「ユーザーインターフェース」のことだと誰もが考える。

しかしそのことによって、我々は最も重要な核心を見逃し続けてきた。これは日本人だけにとどまらない。欧米でも同じである。

1月に青山のボルボスタジオで東浩紀さんと対談したときに、東さんが「アラン・ケイの論文を読み直してみると、ユーザー・インターフェースよりも大事な概念として、ユーザー・イリュージョンというものが出てくる」と仰っていた。

これに驚いて、僕は東さんが書いたゲンロンβ21と、2227を慌てて読んでみた。

そして衝撃を受けたのである。
興味がある方はぜひ読んでいただきたい。

東さんの手によるアラン・ケイの論文の再翻訳はこんな感じだ。

“ユーザー・インターフェイスが最重要なものだと見なされているのは、素人にとっても専門家にとっても、ひとの感覚に対して提示されたもの[what is presented to one's senses]、それこそがそのひとにとってのコンピュータだからにほかならない。システムがどう動いているのか、つぎになにをするべきかを説明し(そして推測する)ために、だれもが単純化された物語[myth]を組み立てる。ゼロックス社パロ・アルト研究所のわたしと同僚たちは、それを「ユーザー・イリュージョン」と呼んでいた。
 イリュージョンを拡張するために開発された原理や装置の多くは、いまソフトウェア・デザインではあたりまえのものになりつつある。(中略)いま流行しているユーザー・イリュージョンは、「ウィンドウ」「メニュー」「アイコン」、そしてポインティング・デバイスを備えたものだ。”

抜粋:: 東浩紀 “ゲンロンβ27 人文とシネマの彼方へ”。 iBooks

ここで論じられていることは、ユーザー・インターフェースは単純化された物語(myth)を表現する手段であって、目的は「イリュージョン」を引き起こすということだ。

興味深いのは、この完全に・ソフトウェア工学的なアイデアが、20年後にデンマークの哲学者によって哲学的課題として再認識されることである。

トール・ノーレットランダーシュは、1991年にその名も「ユーザー・イリュージョン」という本を書いた。

ノーレットランダーシュは、「ユーザー・イリュージョン」という概念を哲学的領域に発展させ、あらたに「Information(情報)」と対をなす「Exformation(非情報)」という概念を提唱した。

この、Exformationは、非常に便利な概念であり、我々ももっと意識的に使うべきだと思う。

ノーレットランダーシュはこう考えた、「[私]と[自分]は違う」そして、「[私]は[自分]の生み出した幻想に過ぎない」。

ユーザー・イリュージョンは、informationとexformationの2つの要素から構成される。

informationとは文字通り「情報化された情報」であり、これは具体的な絵や写真や言葉である。exformationは「情報化されていない非情報」であり、これは伝達するのが極めて難しい。要は環境である。

まず、機械と人間のユーザー・イリュージョンについて論じる前に、人間と人間のケースを考えてみよう。

ここでよく使われる昔話をしよう。二人の人物が登場する。

一人は売れない作家、ビクトル・ヒューゴー、もうひとりはビクトルの本を売ろうとする出版社である。

ビクトルは自分の書いた小説「レ・ミゼラブル」の売れ行きが気になって仕方がないが、出版社まででかけるのは時間もかかればお金もかかる。そこでなんとか売れ行きを知りたいと考えたビクトルは「?」という一文字だけを電報で出版社に送った。

受け取った担当者は、差出人を見て、「ああ、レミゼの売れ行きが知りたいんだな」と考えて、「!」だけ返した。

ビクトルは「!」の電報を見て、大いに喜んだ。びっくりするほど売れてる、ということだと理解したのだ。

ここで登場する情報(information)は、「?」と「!」の2つだけだ。しかし、彼らがなぜこれだけ少ない情報でより多くの「イリュージョン」を共有できたかといえば、当然、ふたりとも(不安を抱えつつも)自信をもって送り出した作品である「レ・ミゼラブル」の素晴らしさと、それでも状況が掴めず不安になる作家ビクトルの気持ちを慮った編集者の機転が、100万ワードの手紙よりも雄弁に喜びを伝えることに成功した。

これこそが「exformation」である。

日本では、「阿吽の呼吸」とか、「以心伝心」とか言うものをうまく具体化した概念であると言える。

長く暮らした夫婦の間には、あまり多くの言葉がいらないのは、exformationが共有できているために同じ「イリュージョン」を見るのが簡単なのである。

このときの「イリュージョン」という言葉を、安易に日本語に翻訳するのは甚だ危険だ。

念の為、「illusion」をオックスフォード辞書で調べると、こうある。

An instance of a wrong or misinterpreted perception of a sensory experience.

誤解、または誤った認識、要は錯覚のことだ。
アラン・ケイらが「ユーザー・イリュージョン」と呼んだそれは、むしろ積極的に
ユーザーに錯覚を起こさせ、あたかもコンピュータを「理解した」と思わせるという手段だった。

しかしノーレットランダーシュの指摘する「ユーザー・イリュージョン」という言葉は、むしろすべての人間が自分自身をある種の「錯覚」を伴って認識していることを指す。

肉体としてのと、錯覚としてのが人間の根幹を成している、というのがノーレットランダーシュの主張である。

ノーレットランダーシュは、これを説明するために、運動準備電位の実験についての説明に著書の1/3程度を費やしている。これは、私自身の著書、「よくわかる人工知能」において、慶應義塾大学の前野教授との対談でも触れた有名な実験だ。前野教授は、この実験結果から「受動意識説」を唱える。

奇しくも30年前のデンマークにも同じように考える人間が居たということだろう。しかも哲学者だ。

さて、ヒトとヒトが環境を同一にし、非情報(exformation)を共有することによって少ない情報量(information)でイリュージョンを伝えることができるのは、これで十分以上にわかった。

では、ヒトと機械の場合、一体どのような方法でこのexformationを共有することができるだろうか。

一つの方法は、ヒトが機械のことをもっと学ぶことである。これは最も効果的だが、そもそもがヒトの直感的ふるまいに反しているので、これができるヒトは少ないし、仮に出来たとしても、自由自在とは程遠い。

しかし、逆に機械からヒトへとアプローチする方法もある。それは、ヒトの暮らす環境を隠喩(メタファ)として用いてヒトがイメージしやすい「イリュージョン」を作り出すことだ。

これがアラン・ケイらの言う「ユーザー・イリュージョン」の正体だろうと考えられる。

我々が現在一般に使っているのは、デスクトップメタファーである。
つまり、コンピュータの画面の上を机上(デスクトップ)に見立てて、そこにファイルやらフォルダやら便利な道具(現実の机ではハサミやペン、コンピュータではアプリ)を並べることで、コンピュータの使い方を「わかった」という錯覚(イリュージョン)を起こさせるのだ。

前回レポートした映画「General Magic」が、なんと映画館ではなくiTunesで全世界に配信されることが決定したらしい。

改めてGeneral Magic社の作ったMagicCapというOSを見ると、デスクトップメタファーをさらに発展させたルームメタファーが使われているのがわかる。

個人的には、当時の報道を体験した感想からすると、MagicCapは最初から失敗していたようにも見える。
もちろんスカリーが悪役として描かれるわけだが、そもそもルームメタファは見てわかるように実用品としてはやりすぎである。

デスクトップは画面の一部になり、ロボットがエージェントとして、部屋を飛び出し、町へ繰り出してしまう。
遊び心があって面白いけど、実用性が感じられないのだ。

これに比べると、単純に「ノート」をメタファとしたNewtonのほうが必然的に良いもののように見えてしまう。

後付ではあるが、なぜPCにおいてデスクトップメタファーが受け入れられたのかといえば、PCとは机の上に置いて作業するものだったからだろう。つまり、その時点で「椅子に座って机に向かう」というexformationが共通していたので、ユーザーはごく自然に仕事を開始することができた。

ところが、MagicCapは机に座って使うものなのに、部屋を飛び出していってしまう。
自分は室内にいるのに、画面の中では部屋の外にいってしまうと、体験としてのexformationが共有されないから、使っている側も唐突な印象を受けるのではないか。

その点、Newton MessagePadは、ポケットから取り出してノートとして使うから、ノートメタファを使うのと自然にexformationが共有できる。
NewtonがMagicCapよりも市場で受け入れられたのは、ビジネス的な意地悪よりも前に哲学的に正しかったからだ、と言ってしまうのは少々強引か。

時間のある方はぜひ両方の動画を比較してみていただきたい。

この「exformation」という概念は、とても便利だ。

たとえば、鈴木敏夫さんが石井朋彦さんに「メモをとるな、心に残ったことだけを大事にしろ」と言ったのも、information(メモ)に頼らず、exformation(環境の共有)を優先しろ、という話と解釈できるし、「私は漫画家になりたい」と言う人が、実際には全然マンガを描かない話も、ジャーナリストであるはずの津田大介が、できるだけ原稿を書きたくないと思っている話も、理解できる。

つまり、みんな、「私」という幻想を、「自分」という肉体に見せられているのだけれども、「私」は常に「自分」を誤解しているため、本当にやりたいことと、「やりたいと思ってる」ことに乖離があるのだ。

意識は、多くの場合言葉で表現される。言葉で表現されるということは、それはinformationである。
そしてノーレットランダーシュは、情報は少なければ少ないほどよく、意識が行っているのは、exformationからごく少量のinformationを取り出し、圧縮することに他ならないと主張している(奇しくもこれは前野教授と筆者自身の主張とも一致する)。

ノーレットランダーシュの主張そのものが哲学界のすべてで受け入れられているわけではなく、批判もあるが、サセックス大学の認知科学者、アニル・セスも同様の主張を展開していることで知られている。

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清水 亮(しみず・りょう)

新潟県長岡市生まれ。プログラマーとして世界を放浪した末、 '17年にソニーCSLとWiL LLC.とともにギリア株式会社を設立し、「ヒトとAIの共生環境」の構築に情熱を捧げる。 '17年より東京大学先端科学技術研究センター客員研究員を兼務。著書として「教養としてのプログラミング入門(中央公論社)」「よくわかる人工知能 (KADOKAWA)」「プログラミングバカ一代(晶文社)」など。

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