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卵 割る 手 イメージ

そこに「卵」は本当に必要なのか? ウイスキーと酒場の寓話(14)

2020.01.05

Updated by Toshimasa TANABE on January 5, 2020, 22:48 pm JST

世の中は、「卵」と「卵を使ったメニュー」に溢れている。卵が好きな人は実に多いようだ。完全栄養食品、あるいは物価の優等生など、卵にはいろいろな側面もあるだろうし、他人の嗜好をとやかくいうつもりもないのだが、「トローリ温玉乗せ」などというメニューの字面を見ると、トローリとするに決まっているだろうに、とその安易さに辟易としてしまう(同じことは、トロアジなどにも感じるが)。今回は、卵というモノについての愚考である。

完全に私の個人的な嗜好の話ではあるのだが、卵、特に生卵を食べることはほとんどない。牛丼には絶対に卵を追加しないし、かつ丼、親子丼の類もまず食べない。卵かけごはんに至っては、おかずがろくにないような貧しい食卓を想起させるし、粒々したご飯の喉越しと米そのものの美味さに対する無理解さえも感じられる。

卵かけごはんについては、高速道路のパーキングエリアなどで、安普請な合成樹脂の器をこれも合成樹脂の箸で「シャカ、シャカ、シャカ、、、」と貧相な音を立てて卵をかき混ぜているゴツいおじさんがなかなか味わい深い。単に器と箸の擦れる音が物悲しいだけではなく、卵をかき混ぜる手つきが妙に手慣れた感じなのが、一層の寂寥感を醸し出すのだ。これは、牛丼チェーンなどでも同様だ。

どこかで、牛丼チェーンの社長自身による自社牛丼のお勧めの食べ方を見たのだが、「黄身だけを汁抜きの牛丼に追加」(お新香も追加だったかもしれない)というものだった。汁抜きと相まって黄身の味ばかりになってしまうだろうし、自社の主力製品そのものについての「自信と愛」が感じられず(社長の好みは感じられるが)、あまり良いプロモーションではないように思えた。卵好きが追加の卵をより確実にオーダーするようになる、という効果はあるかもしれないが。

私の場合、すき焼きであっても、卵は使わない。せっかくの牛肉と割り下、あるいは自分で調整した鍋の味わいを卵の黄身の味にしてしまいたくはない、煮え端(にえばな)で熱いのに卵で冷めてしまうではないか、各種素材のシャキッとした食感をでろでろした白身の食感で覆ってしまっては台無しではないか、せっかくのすき焼きなのに「すき焼きは卵で食べるものだ」という固定観念にとらわれ過ぎていて本当の美味しさに辿り着いていないのではないか、などと考えるのである。

月見そばなどというものも、そば好きとしては許しがたいそばの食べ方だ。まず、汁を泥水のように濁らせては台無しだ。見た目が濁るだけではない。せっかくのクリアな出汁と醤油の味わいを自己主張が強すぎる黄身によって、味まで濁らせてしまうのだ。香り立つそばを直接舌に乗せたいのに、そばの表面を白身をコーティングしたようなでろでろした状態にしてしまっては、そばのキレも香りも何もない。天玉そばに至っては、そばと汁だけではなく、天ぷらの衣へのリスペクトさえも全く感じられないのである。

ちょっと前に大阪発祥のインデアンカレーについて書いたが、実はここには生卵のオプションがある。通常は黄身だけだが、全卵(!)も選択できるという(もちろん好き好きだし、オプションなのが良いところだ)。カレーに生卵というのがそもそも理解できないのと、辛いものが食べたいのに黄身を混ぜ込んでは意味がないだろう、ということで一度も食べたことがないので、あえて触れなかった。

卵は、黄身は味わいへの支配力が強すぎてすべてが黄身の味になってしまうし、白身は食感への支配力が強すぎてすべてがでろでろとした薄気味の悪い舌触りの代物になってしまうのである。

もちろん、オムレツなどのように卵そのものが主役の場合は別であるし、卵自体を食べたいというときもあるだろう。しかし、主役が別に存在するときに、その主役が卵に支配されてしまうような食べ方をすることが疑問なのだ。卵の有無で食べ比べたうえで、自分の好みを確認して好きな食べ方をすれば良いことでもあるが、そういった手順を踏まずに「そういうものだ」と思い込んでいる姿勢を問題にしたいのだ。

これは、卵に限らずすべての事についていえる。そこに「●●」は本当に必要なのか? と常に問いかけるべきなのだ。

目玉焼きなども普段は滅多に食べないが、牛丼チェーンにある目玉焼きがメインの朝定食をたまに食べることはある。もちろん、生卵が含まれる朝定食は食べない。目玉焼きというのは、自分の好みに上手に焼くのはなかなか難しいものでもあるので、チェーン店のマニュアルベースの安定感だからこそ食べる気になる、という側面もある。ハンバーグやナポリタンなどのメニューの写真に、目玉焼きが乗っていることも多いが、目玉焼きを乗せることに必然性が感じられないし、焼き加減も信頼できない。目玉焼きに惹かれる人の方が多いのだろうけれど、まったくそそられない。

目玉焼きといえば、某大衆酒場に入ってくるなり、席に着く前にメニューも見ずに「熱燗と目玉焼き二つ!」と叫んだおじさんにリアルに吹き出してしまったのが忘れられない。後にも先にもこの1回だけだが、これにはかなり虚を突かれた。

「ローストビーフ・サラダ」あるいは「豚の角煮」などを注文して、想定外に温玉が乗っていたときなども悶絶である。角煮であれば、ホロホロとした豚の食感と脂身の美味さを甘辛い煮汁と芥子で食べたいのだ。黄身の味や半熟の白身の食感は要らない。「牛肉のすき焼き風」というものを注文したら、牛肉と玉ねぎを甘辛く炒め煮にしたものに、問答無用で全卵が乗っていたこともある。余熱で卵に火が通るということもなく、卵で冷めていく肉に生の全卵を絡める以外に術がないのだった。

卵はすべてオプションに、生の全卵ならせめて割らずに別皿、くらいにはならないものだろうか?

タイ料理のガパオライスには、目玉焼きが乗っている場合が多い。しかし、あるタイ料理屋では、ガパオライスの目玉焼きをオプションにしている。これは見識である。クルワンポン(通常は4種類のスパイスセット)の唐辛子でさらに辛くして食べようというのだから卵は要らない。せっかくのエスニックなガパオの味わいが、卵の味になってしまう。目玉焼きは別注文というのは、目玉焼きを省略してタイスープを追加するなど、目玉焼きと同程度の金額で自分なりの食べ方にできるのがとてもありがたい。

納豆に卵を入れるかどうかも、なかなか難しい。私が子供の頃は、納豆は大粒で量がたっぷりとしていた。黄身を1個入れて、長ネギを刻んだものと一緒にしっかりかき混ぜて、醤油を垂らすと美味しかった。ご飯をお代わりして丁度良いくらいの量があった。しかし当時であっても、全卵では納豆がゆるくなりすぎた。

最近は、納豆が小粒で量が少なくなった。発泡スチロールなどの小パックだと、納豆2パックに黄身1個でさえもゆるすぎるので卵は入れなくなった。

旅館の朝食などで、生卵と納豆が出てくることがある。納豆は小パックが1個である。こういうときは、まず殻を崩さないように気を付けて卵を割って、半分になった殻を使って白身を分離させる。半分の殻の間を黄身に傷を付けないように注意しながら2、3回往復させると、白身はキレイに下の受け皿に落ちる。分離した黄身からカラザを箸の先でつまんで取り去る。

ここまでしてから、黄身の3分の1から半分を納豆に混ぜ込むのである。子供の頃の記憶がかろうじて甦る味わいだ。残った黄身は、それだけをご飯にかけても良いし、分離した白身に戻して物悲しい音をさせてかき混ぜてから食べても良い。ご飯が足りないようだったら、残しても良いだろう。

東名高速道路の神奈川と静岡の県境付近に「鮎沢PA」というパーキングエリアがある。ここの食堂は、上り下りともに「豚汁」が美味い(仕込みは上下線で同じだと思う)。しかし、定番の「豚汁定食」には生卵が付いているので敬遠して、豚汁、ライス、おかずを何か一品、という単品でのオーダーに決めている。

券売機で食券を買ったら厨房にオーダーが伝わって調理が始まり、でき上がって番号が呼ばれるのを待つというスタイルなので、「卵なし」というような個別オーダーはできない。また、受け取りカウンターで受け取るときに生卵だけ戻す、などという例外処理をスタッフに強いるのも申し訳ないことである。

このように定食に卵が付いている場合、器に割っていない卵が入っているのであれば、残したり戻したりすることもできるのでまだ良いが、卵を割って全卵が器に入っていると始末が悪い。納豆のところで触れたような方法で、殻を使って黄身と白身を分離することもできない。

池波正太郎さんのあるエッセイにこんなくだりがある(記憶に基づく要約です)。

若い編集者とそば屋に入ったところ、卓上の籠にウズラの卵が入っていた。そういう流儀の店もあるようだが、生の卵でそば汁を濁らすのは我慢がならない。「君、そのウズラを汁に溶くんじゃあるまいね?」と釘を刺した。

ずいぶん前に初めてこれを読んだとき、子供の頃から月見そばはおろか、すき焼きにさえ卵は使わなかった自分の感覚を肯定されたような気がして、とても力付けられたものである。

実は、中学生の頃、自宅の近くのそば屋で初めて一人で外食をした。そのときは、カラッと揚がった天ぷらに軽く掛け回したタレ、適度にタレが沁みたご飯が食べたくて、天丼を選んだ(天丼にしても天重にしても、蓋をした状態で出てくるものは、衣がクタッとしてしまっていま一つである)。ところが出てきた代物は、天ぷらに半熟の卵がからみついたいわゆる「天とじ丼」だったのだ。「この店の天丼は、これなのか!? これはしくじった! せっかくの天ぷらの衣が、、、」と愕然としつつも我慢して腹に収めたが(中学生だし腹も減っている)、それ以降は単に天丼とメニューにあっても用心するようになった。

ここまで、自分の嗜好だけで書き散らかしてきたが、卵自体が嫌いだったりアレルギーがあったりするわけではない。味わい、食感ともに、あまりに支配的であることが鼻もちならないだけなのである。さらに、それを当然と考えて本来の味わいや食感を楽しむことなく、すべてを卵で誤魔化してしまうことに躊躇や疑問がない、という姿勢が嫌なのだ。

例えば、黄身の味噌漬け、出汁巻き卵、茶碗蒸し、ピータン(正確には鶏卵ではないが)など、酒肴としての卵の料理は悪くないものだ。中華料理であればエビ(あるいはトマト)と卵の炒め物なども捨てがたい。そうはいっても、酒を飲むところでは卵に頼らずとも酒肴に困ることはまずないので、卵料理は結果的にほとんどオーダーすることはないのではあるが。

卵といえば、黄身はマヨネーズの原材料であるが、某大手メーカーのマヨネーズ工場を見学したことがある。卵1個分の幅の樋を連続的に卵が転がってくる。ジャストのタイミングで絶妙に振り下ろされるナイフが卵を割る。割れた全卵は、自動セパレーターで黄身と白身に分けられる。万一、黄身が破れた場合には、光センサーで光の透過率を把握しているので黄身で濁った卵を判別して、その部分だけを別に取り出すようになっている。こうして1分間に100個以上の卵が黄身だけになり、それがマヨネーズになるのだった。白身はメレンゲなどになるのだろう。

ちなみに私は、「マヨラー」というほどではないが、マヨネーズは好きである。レタスとハムとチーズくらいのシンプルなサンドイッチは、レタスにほんの少しのマヨネーズで完成すると思う。芥子マヨネーズ(茹でたブロッコリにはこれ)、カレーマヨネーズ(蒸し鶏とインゲンのサラダにはこれ)など、素材に合わせたアレンジも楽しいものだ。

トンカツの衣やつくねのつなぎ、あるいはマヨネーズ、プリンやお菓子など、卵が支えている食べ物はたくさんある。そして、そこでの役割に徹した卵は好ましいし不可欠な存在だ。しかし、トローリ温玉や卵かけごはん、月見そばなど、その存在が過剰であり、結果として主役を台無しにする(あくまで私の感覚での台無しだが)というのが、どうにも受け入れ難いのである。


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書名
インドカレーは自分でつくれ: インド人シェフ直伝のシンプルスパイス使い
出版社
平凡社
著者名
田邊俊雅、メヘラ・ハリオム
新書
232ページ
価格
820円(+税)
ISBN
4582859283
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田邊 俊雅(たなべ・としまさ)

北海道札幌市出身。システムエンジニア、IT分野の専門雑誌編集、Webメディア編集・運営、読者コミュニティの運営などを経験後、2006年にWebを主な事業ドメインとする「有限会社ハイブリッドメディア・ラボ」を設立。2014年、新規事業として富士山麓で「cafe TRAIL」を開店。2019年の閉店後も、師と仰ぐインド人シェフのアドバイスを受けながら、日本の食材を生かしたインドカレーを研究している。