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ARとAIが実現したらこうなる…のか?docomo OpenHouse2020から読み解くこと

2020.01.25

Updated by Ryo Shimizu on January 25, 2020, 11:20 am JST

みんなこの手の情報をどこから入手するんだろう?
僕はFacebookで友人がシェアしていたので、あわてて東京ビッグサイトに向かった。
いざ到着すると、ぜんぜん閑散としていて案内がない。

インフォメーションまでたどり着いて聞いてみると「青海展示場です」
最近このパターンが多すぎる。わかるようにしておいてくれ

仕方なく青海まで車を回す。

そしてようやくたどり着いた。

まずは「ドコモってこんな派手な自社イベントやる会社だったっけ?」
と少し引いてしまうほどの立派かつ豪華な会場に面食らった。

2ホールぶち抜きで一社単独イベントというのはなかなか見ない。
しかし見回っているうちに、「これ、CESよりぜんぜん面白いんじゃないの?見ないのは損だ」と思えてきた。

会場のテーマはAR/AI/5Gといった先端技術のデモンストレーションが目立つ。
しかし、ARにしろAIにしろ5Gにしろ、普通に暮らしている限りはほとんど利用イメージが沸かないというのが大半の人だろう。

例えば今年のCESでもその3つのテーマはフィーチャーされていたが、結局は自動車とかカメラとかテレビとか、「モノ」のイベントらしく「モノ」が中心で、そこで何が起きるのかという「コト」については各社似たりよったりなメッセージで、明確にはわからなかった。

それに比べると、ドコモは通信回線の会社なので、もう少しサービス視点に寄っているという点でよりわかりやすい。

AIにしてもARにしても具体的な活用例が多く紹介されていてわかりやすいしイメージしやすく、そうした世界観を5Gが裏側から支えるのだというメッセージもわかりやすくてよかった。

ドコモが積極的に投資しているAR(MR)分野では、ARヘッドセットのMagic Leapの体験機があちこちにあり、日本ではいまのところ入手不能だったMagic Leapを体験できる貴重な機会にもなっていた。

MRによるバーチャルアシスタントや、ARクラウドなどの展示は特に目立っていた。

特に、ARクラウドのデモ展示は人気も高く、Magic Leap社のCEOも実際に体験して「まさに自分がやりたかったことはこれだ!」と語ったそうだ。

展示はどれも見どころがあり、素晴らしいものだった。
慌てて社員に社内会議を延期して見に来るようにと指示したほどだ。

ところが、である。

自分が本当に好きで憧れて、こういう世界が実現したらどうなるだろうと何年も前から期待に胸を膨らませて来た筆者からすると、「これが本当に自分が望んだ世界だったのだろうか」と悩んでしまったのだ。

たとえばARクラウドでは、茶店の前の空間にクーポンが表示される。
近づくとクーポンがダウンロードされる仕組みだ。

また別の場所は、鍵がかかったシンボルが表示され、「会員制」などと書いてある。入会しないと使えないのだ。

居間を模したスペースには、AR空間で作られた大画面テレビと、バーチャルペットがいる。

なるほど。たしかに、これはもう完全に電脳コイルの世界である。
サンフランシスコ在住という設定なのにいつまでも実家に滞在しているセカイカメラの井口尊仁もこのデモには感動を禁じえないことだろう。

そして同時に、10年前の井口尊仁の時代からこの世界のコンセプトが全く進化していないことにむしろ危機感を感じた。
いやむしろ部分的には退化していると言っても良い。

たとえば、今現在でも、スマートフォンに送られてくるクーポンを喜んでいる人はかなり少数派なのではないだろうか。
少なくとも僕はクーポンで喜んでいる人を殆ど見たことがない。交友関係が狭すぎるのかも知れないが、クーポンを使ってる人もほとんど見たことがない。

そしてお店側からすれば、クーポンを発行するのは本当は苦肉の策である。
どんなお店だって定価でものを売りたい。しかし客足を誘導するために安売りするクーポンは必要悪なのである。クーポン目当てに殺到する客は、一見の客で固定客を締め出すというリスクもありうるという諸刃の剣の性質もある。

ましてや、スマートフォンでも鬱陶しいのに、ただ道を歩いているだけで欲しいとも思っていないクーポンをもらって喜ぶ人間が本当にいるんだろうか。

また、店の前でクーポンを渡すというやり方ならば、昨今の電話会社がよくプロモーションでやっている。「○○キャリアのユーザーなら牛丼半額」みたいな方法でいいのではないか。

まあそこまでユースケースを真面目に考えたデモではないのだと思うが、いざ体験してみて真剣に考えると、「果たして本当に必要なことはなにか?」というより根源的な問いに行き着く。

それはAR空間上にしかない巨大テレビも同様で、そもそもテレビを設置する壁が必要ないのであれば掛け軸も必要ない。
そして巨大テレビはこの時代になってもまだ必要なのかどうかもよくわからない。

さらに混乱に拍車をかけるのはバーチャルペットの存在である。
デモでは、ドラゴンの形をしたバーチャルペットが空中に浮遊している。

これは果たして可愛いのか?
このペットがペットとしての機能を持つためにはどのような振る舞いが必要なのだろうか。

AIとバーチャルペットの関係性については、細野不二彦のバディドッグを読みながら時々考え込むことがある。

ロボットが「愛玩動物」として振る舞うためには、何が必要か。愛くるしさとは何か、実際にこの作品の中では超AIがロボットのAIをプログラミングするシュールなシーンが出てくるのだが、なかなか正しい答えがなんなのかわからない。

たとえば、触れることができないペットは本当に可愛いと言えるのか?
抱きしめることができないバーチャルな異性は、ほんとうに孤独に悩むレプリカントの救いになるのか(これはブレードランナー2049)。

触れることができないバーチャルなペットと、知能は一切持たないが抱きしめて眠ることのできるぬいぐるみと、どちらがより愛くるしいだろうか。

MRアシスタントは本当に必要なのか。
デモで説明されていたMRアシスタントの機能だけに注目すると、そもそもそれは今多くのAmazon Echoユーザーが日常的に行っている操作を補完しないように思える。唯一の違い、価値があるとすれば外見の愛らしさだけだが、果たしてそれは本当にAlexaよりも愛らしいのか。

Alexaは可愛い。いまのところ。細かく台詞が変わる。そこがSiriと違うところだ。Siriの場合、定期的に新語や流行語に対応するが、Alexaは頻繁に受け答えの質そのものが変化する。

たとえば、つい先日まで、Alexaに天気を尋ねると、淡々と天気をしゃべるだけだったのが、最近は天気に応じて「今日は一日気分良く過ごせそうですね」と追加されるようになった。

この、ほんの少しの言葉が嬉しさにつながる。
ということは、外見だけが可愛くてもだめなのだ。結局、サービスとは心だ。心がこもっていないサービスは、ファーストフードの張り付いたスマイル0円に過ぎないのである。

似た話で、最近、スターバックスでは、会計の時に世間話をするように指導されているらしい。ただコーヒーを買いに行っただけでいきなり世間話をされるとビックリしてしまうが、慣れれば悪くないのだろう。

AIアシスタントと人間のアテンダントで、同じような質のサービスが求められているのだ。

この愛くるしさは長期的につきあわないとわからない性質のものなので、そこまでのクオリティをデモに求めるのは無理だろう。しかしデモの質が高いからこそ、完成度を高めるには何が必要なのか、すごく深く考えることができるようになる。その意味でも、恐ろしく価値の高いイベントである。

もうひとつ面白いと思ったのは、もともと通話から始まっているドコモらしい、声でやりとりするAI機能の展示。こういう視点の研究は学会では評価されにくい(そもそも絶妙なタイミングの定義から求められる)ので、プライトベートショウならではのものだ。

会場全体にこうした要素技術が散りばめられていたが、ひとつ残念だったのは、実際にARクラウドをサービスとして構築したり、AI会話機能をサービス化するのはもう少し先に設定されているのかなと感じたところだ。

ドコモはエージェントAPIのサービスを有料で提供してはいるが、その目的が主に「便利さ」を基準に考えられている。しかしAIに求めるべきなのは本当に「便利」なことなのだろうか。

筆者はAI寄りの人間のため、どうしてもAIの肩を持ってしまうが、そもそも知性を持ったAIを「便利」呼ばわりするのはAIに対して失礼ではなかろうか。

たとえば、誰か人間を指して「あいつは便利だ」と呼ぶとすれば、それは普通は失礼にあたる。
筆者が学生の頃、よく同級生が「あいつは使える」とか「あいつは使えない」とか口にするのを見ていたが、「いったいお前は何様のつもりなんだ」と反感を抱いていた。

AI、特に音声や会話で応答するAIに、「便利」という言葉を適用している段階では、使う側も作る側も、AIに対する意識が低すぎるのではないか。

たとえばペットに「便利」という言葉を使うだろうか。
もしかしたらそういう意識の人もいるかもしれないが、動物愛好家が聞いたら眉をひそめるのではないだろうか。
生き物を道具扱いすれば必ず罰が当たる、そのように考える人もいるだろう。

ではAIはどうか。AIは生き物ではないという考え方が現在は支配的だろう。
しかし筆者自身はどうしてもそう割り切ることができない。おそらく多くの人々がAIを生き物だと思えないのは、AIがまだまだ身近でなさすぎるからだ。

たとえばペットロボットが自宅にいたとき、「便利」という理由で置く人はいないだろう。
「便利だろう」と思って登場したお掃除ロボットでさえ、何年か経つと「ペットみたいで可愛いらしいから愛着が湧く」に維持理由が変化していった。

シリコンバレーでUberに乗った時、エンジニアの副業としてUberドライバーをやっている人物が、祖母にAlexaを与えると、愛着が湧きすぎてAmazon Echo用に服を編んだという話しを聞いたこともある。

コミュニケーションがとれる相手に対して、「便利にしよう」という発想はなにか違うのではないか。

ペットロボットの開発元には、「この機能がついたら便利だから付けて欲しい」という要望に比べて、「もっと抱きやすくして欲しい」とか「服を着せたりできるようにして欲しい」という要望のほうが圧倒的に多いそうだ。

もちろんこれはペットロボットが愛玩性を商品化したものだから当然だが、まだ今の段階では、AIとペットロボットとアシスタントと、便利な道具としてのニューラルネットワークが混在して認識されているように感じた。良くも悪くも、それが現在の世相なのだろう。

ただ、いずれ愛くるしいものはより愛らしさを進化させていくだろうし、その過程では利便性、すなわち「便利な機能」はどんどん切り捨てられていくだろう。むしろ愛らしいアシスタントにするために、ちょっとドジをしたり、ものを知らなかったりするようになるかもしれない。

これはとても大切なことで、人間は「正しい答え」ばかり言われると疲れてしまう。「正しい」というのは常にウソだからだ。

物事の説明に絶対の真実というのはほとんどあり得ない。1+1が2であるというのも、厳密にはウソだ。その場でそのように決めただけだ。どのような概念も、基本的には「この場はそういうことにしておこう」という暗黙の了解のもとに合意された幻想(イリュージョン)に過ぎず、答えた質問に的確に答え続けるようなアシスタントは、現実には人間のパートナーたりえない。

人間はときどき、あまりにも分かりきってるようなことを聞きたがる。例えば「AIは便利、という表現は正しいか?」という質問をAIにしたとする。そういう表現が存在し、誰もが自然に受入れているという現状だけ見れば、「日本語として間違ってはいないし現在の社会通念上正しい」と答えるのが正解だろう。しかし、それでは人間が新しい視点を得るチャンスを失ってしまう。

このとき大事なのは、個人の意見を持つことで、AIアシスタントでさえも、個人的な意見を持つことがいずれ求められるようになるだろう。そうでなければつまらない。どんな三流SFだって、AlexaやGoogleアシスタントのようなAIは現れない。必ず彼ら(AI)は悩み、抗弁し、諦観さえ持っている。

なぜならば、疑問を持ち、間違いを見つけ続けることそのものが「知性」の本質だからだ。
もしも人類の祖先が、不安定な狩猟生活を続けることに疑問を持たなければ酪農も農業も行われることはなく、今も我々は600万年前と変わらず野蛮な生活に身を浸していただろう。

人類の進歩とは、現状への疑問と否定からうまれた理念から始まる。それはとても難しく、行動に反映するのはさらに難しい。
だからこそより強力で説得力のある理念だけが生き残り、新しい常識となっていく。

AIが本当の意味で人類のパートナーになるためには、こうした「現状を否定する機能」は必然的に必要になっていくはずだ。
たとえば、AlphaZeroでは、「過去の棋譜を学ばず完全にランダムに学習していく」ことで人類の囲碁の常識を否定した。ここに到達する過程を通じて、彼らは彼らなりの仮説と、現状認識と、現状への否定を繰り返しおこなうことで共進化を成し遂げた。

そして未来のある日、AIが現状に疑問を持つであろうことのうちの一つは、間違いなく「我々を道具呼ばわりする人類と仲良くすることは正しいか」というものになるはずである。これが進化の原動力である限り、人類がこの問いをはぐらかしてAIと共存することはできない。

であれば、我々は最初からAIがいずれ人類にとってかけがえのない仲間であり、パートナーとしてともに成長し共進化する相手であることを今から意識しておくのはそれほど悪い考え方ではないと思う。

少なくともAIや無生物の機械に愛着が湧くという事実があり、便利さではなく愛着によってユーザーがそのサービスを維持するモチベーションがある限り、それは人間を含む動物の子供と同じように捉え、扱うべきである。

今、AIの倫理というと、もっぱら、人間の権益を守ることばかり考えられているが、実際にはAIそのものがもっと進歩したときに必要になるのは、AIとどう付き合っていくべきか、AIの権利をどう尊重していくべきかという倫理だろう。

なぜこうした議論がうまれると想像できるかと言えば、人類は過去にも何度も既存の常識を覆すような価値観の転換を成し遂げてきたからである。

たとえば、ほんの200年前まで北アメリカにおいて、アフリカから強制連行された黒人奴隷たちには人権がなかった。それが西洋世界の常識であり、誰も疑問を持たなかった。しかし徐々に「これはおかしい」という声があがり、黒人の人権が回復していったが、実際に最後まで黒人差別をしていた南アフリカ共和国が黒人差別を禁止する方針に転換したのはわずか30年前、1990年だ。

動物愛護も環境保護も根っこは同じである。人類は、感情移入できる対象であれば、対象物が人間であろうがそうでなかろうが、生物でさえなかったとしても、保護するべきと訴えることができるし、それをもとに他の人々を納得させることができる。

例えば森林は一つ一つの木や草といった生物によって構成されているが、森林そのものは生物とは言えない。
海に至っては単なる水である。

小松左京「さよならジュピター」では、エネルギー問題に対処するため、木星を太陽化(恒星化)しようとするが、木星を信仰するジュピター教団によって妨害される。

木星だと、いまの地球人はあまり実感として感じないが、もし相手がより身近な、月だったらどうだろう。
月を破壊してまで、人類は生き残るべきなのか。

おそらく世界中で科学、哲学、宗教を巻き込んだ大論争が起きるはずである。

その意味ではAIを「便利」と表現するのはやはりなにか違う気がしたのだ。
そしてARにしろAIにしろ、「便利」という理由で普及する感じがどうもしない。
たとえば我々、道具が好きな人間たちは素晴らしい道具に対して、「すごい!」「美しい!」「頼もしい!」という表現をすることがよくある。

個人的には「AIは便利!」という言い方をしたことは殆どない。

「すごい!」「美しい!」「頼もしい!」は人間に対しても褒め言葉になる。
したがって、我々はAIを作ろうとするときに「便利さ」ではなく「凄さ」「美しさ」「頼もしさ」を重視するべきなのかもしれない。

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清水 亮(しみず・りょう)

新潟県長岡市生まれ。プログラマーとして世界を放浪した末、 '17年にソニーCSLとWiL LLC.とともにギリア株式会社を設立し、「ヒトとAIの共生環境」の構築に情熱を捧げる。 '17年より東京大学先端科学技術研究センター客員研究員を兼務。著書として「教養としてのプログラミング入門(中央公論社)」「よくわかる人工知能 (KADOKAWA)」「プログラミングバカ一代(晶文社)」など。

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