この聖カルロ・ボッロメーオ教会[1]は、プラハの中心を流れるヴルタヴァ川に近い通りに建っている。⼆度⽬に私が訪れたときは、⼀度⽬のときとは違い、⼈々がひっきりなしに教会にやってきた[2]。しかし、教会の地上部を⾒上げる姿はあまりなかった。最近事件が映画化されたこともあったからか、ほとんどの⼈は地下納⾻堂を⽬当てに訪れているようだった。
ここで、建築を専門とする立場から、この教会の造形の特徴について少しみていきたい。この教会の建設には複数の建築家が携わっているが、そのうちの一人が、ボヘミア地方のバロックを代表する建築家キリアン・イグナツ・ディーンツェンホーファー(1689-1751)である。彼は、17世紀と18世紀に多くの建築家を輩出したディーンツェンホーファー一族の一人で、プラハに多くの個性的な作品を残している。中でも、スヴァティ・ヤーナ・ナ・スカルツェ教会( Kostel sv. Jana Nepomuckého na Skalce、1727-39 ) [3]は、プラハの中でも際だって独創的な建築作品で、彼の代表作と言っていいだろう。正面には二つの高い塔が立っているが、崖の上に建っているため、それらの塔は実際以上に高くそびえて見える[4]。さらに、その二本の塔は、建築の本体に対して大胆に回転されている。そのせいで、前面の通りから見上げると、建築全体がおおいかぶさってくるような一種独特の迫力を感じる。一方、この聖カルロ・ボッロメーオ教会は、正面に一本の小さな塔を立てたおとなしい姿で、この代表作とは、全体を見れば似てはいない。だが、玄関に立つ二本の円柱は、約45度回転されていて、ちょうどスヴァティ・ヤーナ・ナ・スカルツェ教会の双塔を小さくして置き換えたようだ[5]。
ところで、スヴァティ・ヤーナ・ナ・スカルツェ教会の正面側は、左右両脇の塔が回転されていることで、建築の前に広がる空間を囲い込むような形になっている。こんな風に外壁を凹型に歪ませる表現は、元を辿れば、ローマのバロック建築にさかのぼれるものだ。その代表的な作品サン・カルロ・アッレ・クアットロ・フォンターネ聖堂(1634-67)では、ファサードの壁面が大きく波打つように凹凸を繰り返している[6]。建物全体の形を見れば、立方体のかたまりをクッキー型でくりぬいたときの残りの部分のようにみえる[7]。
バロック建築のこのようなダイナミックな表現は、その後北イタリアのピエモンテ地方のG・グァリーニ(1624-83)やB・ヴィットーネ(1704-1770)といった建築家に引き継がれ、さらに北方のこのボヘミアの地にたどり着いた。この地方にはもともと、建築の上部を塔や破風で飾るスタイルがあったが、さらにそこに複雑な凹凸曲面の外壁が組み合わせられると、全体としてなんとも不思議な形ができあがる[8][9][10]。建築の上から下まであちこちに曲面があらわれていて、その姿はまるで絵本の中から抜け出てきたような奇想に富んだ表情をみせている。こうして異なる様式が出会ったことで、ボヘミア地方では17世紀から18世紀後半にかけて、豊かな造形表現を持つ建築が次々に生み出された。それらの作品の数々は、今でもこの土地の風景をおとぎの世界のようにみせている。この聖カルロ・ボッロメーオ教会の入口にも、その独特の造形がはっきりと残されている。
その豊かな建築文化の時代の証だった教会が、1942年6月18日に悲劇の舞台となってしまった。この日、4人のパラシュート部隊員が、まさにこの教会の地下にたてこもり、水責めにあった末、最後は全員がそこで自決したのだった。
それにしても、なぜこの教会だったのだろう。実際に訪れてみると、この場所が傾斜地だったことが、悲劇へつながる一つの出発点だったのではないかと思えてきた。というのは、なぜ、地上から直接地下の空間に水を流し込むことができたのかといえば、そこに一つだけ小さな採光窓がついていたからだった[11]。では、採光窓がこの地下室につけられたのは、なぜか。そもそも、地下納⾻堂には必ずしも採光窓は必要ないはずだ。⼀つ考えられることとしては、ここは西側の川に向かって地面が低くなっているため、地下室の壁の上部が大きく地上に露出していて、窓を設けるのに都合がいい。建築というものは、設計者が有能であるほど、その土地の条件をよりうまく利用して作られるものだ。これはあくまで想像だが、この窓は、傾斜した地形を生かそうという気の利いた配慮から設けられたものだったのではないだろうか。
太陽の明るさは圧倒的だ。どんなに小さくても、窓があるのとないのとでは、地下の明るさはまるで違う。電灯がない時代、この窓から差し込む光は、ろうそくやランプと比べれば圧倒的な明るさで暗闇を照らしていただろう[12]。だが、その日、暗闇に光を入れる窓が凶器となってしまった。
地下納骨堂に入ると、壁には彼らの抵抗の痕跡が今でも生々しく残っていた[13][14]。そこには古い時間がそのまま閉じ込められていた。『HHhH』の著者ビネも、ここで古い痕跡を見ながら、時を遡っていくような感覚をおぼえたにちがいない。もちろん、本当に時間を遡るなどということはあり得ない。でも、一瞬でもそんな錯覚を感じられたとしたら、それは古い建築の持つ⼒によるものでもあるだろう。『HHhH』によれば、地下の回廊にはめ殺しになったドアがあって、それをこじ開ければ隣の建物に逃げることができたと考えられるらしい。しかし、ビネの言葉通り、歴史は「どんな方向からでも読めるけれど、書き直すことはできない。」
教会を出て坂道を下りていくと、ヴルタヴァ川の向こうにプラハ城がそびえている。川のたもとには今回宿泊していたホテルが建っている[15][16]。この建築は1996年にフランク・ゲーリーの設計で建てられたもので、もともとはダンシング・ハウスという名前のオフィスだった。『HHhH』にも「大気のなかで揺らめいているよう」な建物として登場するが(p. 12)、その姿は完成した当時と変わらず、今でも未来的に⾒える。この室内に入ると、1740年や1942年の時間を感じることはない。全面ガラス張りの角部屋からは、教会からプラハ城までが見渡せる[17]。その窓から外を眺めると、1740年でも1942年でも現在でもない、別の時空からプラハの町を見下ろしているようだった。
参考文献
ローラン・ビネ『HHhH』高橋啓訳、東京創元社、2013年
クリスチャン・ノルベルグ=シュルツ『後期バロック・ロココ建築』加藤邦男訳、本の友社、2003年
Jiří Burian, Prager Kirchen / Prague's Churches, Mladá fronta,1992
Mojmír Horyna, Jaroslav Kučera, Dientzenhoferové, Akropolis, 1998
Erich bachmann, Erich Hubala, Barock in Böhemen, Prestel-Verlag München, 1964
チェコ語固有名詞のカタカナ表記は、『HHhH』と『後期バロック・ロココ建築』に従った。
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登録はこちら横浜生まれ。横浜国立大学大学院都市イノベーション研究院特別研究教員。博士(工学)。西洋建築史専攻。1991年横浜国立大学工学部建設学科卒、1993年同大学院修了、2006-07年フィレンツェ大学建築学部客員研究員。著書に『建築と音楽』(共著、NTT出版、2008年)、『14歳からのケンチク学』(共著、彰国社、2015年)、『READINGS: 1建築の書物/都市の書物』(共著、INAX出版、2000年)、『図面でひもとく名建築』(共著、丸善出版、2016年)、『天井美術館』(共著、グラフィック社、2019年)他