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エリートと教養6 現代日本語考

エリートと教養6 現代日本語考 1

2020.07.28

Updated by Youichirou Murakami on July 28, 2020, 19:34 pm JST

「何とかがぁ」「どうこうしてぇ」「どうこうなったからぁ」「それでぇ」「困ってしまってぇ」──。 こんな話し方に気付かれていませんか。一つの文章が細切れに分節化されて、その分節の最後のシラブル(音節)、上の表現では太字のシラブルだけが、特別に強調されて高音化されるのです。

エリートと教養6 現代日本語考

今の私にとって大切な仕事の一つは、ある団体が主宰する合宿形式のセミナーに参加することです。このセミナーは、対象とする参加者の特性に応じて何種類もあるのですが、その一つに高校二年生を対象にしたものがあります。彼ら、彼女らが意見を述べる時に、まるで判で捺したように冒頭のような話し方をするので、堪り兼ねて「そういう話し方は聴くもおぞましいと感じる人も多いのだから少し気をつけなさいね」と苦言を呈したことがあります。

しかし、TVやラジオを聴いていると、若い人ばかりがこの話癖を身に付けてしまっているとは限らないようです。流石にアナウンサーにはまだ見当たらないようですが、アナウンサーの相手をする解説者、あるいはインタヴューを受けている人、つまり大の大人たちにも、この話癖はかなり広がっています。きっと学校の先生にも、この話癖の方が増えているのでしょう。高校生を目の敵にしてはいけない時代なのかもしれません。もう大勢は、この話し方が醜い、聴き辛い、とは感じなくなっているのでしょうか。

もう一つ、聴いていて我慢がならない発音に、こういうのがあります。英語で<5W+H>という表現があります。<who>、<which>、<when>、<why>、<where>、それに <how>で、どれも基本は疑問を導く言葉です。日本語では「だれが」、「どれが」、「いつ」、「なぜ」、「どこで(へ)」、そして「どのように」というわけです。当然、英語のイントネーションでも導かれる疑問の意味を強めるために、これらの語が文頭に置かれたときは、最初のシラブル(といっても、英語ですとこれらの語のシラブルは一つの方が多いのですが)が強調されて発音されます。

日本語でも、本来、話は変わらないはずです。「れが やったのですか」、「れが 良いかな」、「つ 来れば良いですか」、「ぜ そうなるのでしょう」、「こへ 行かれますか」、「のように 作りますか」。これらの文章では、斜体のシラブルが強調されて発音されるのが自然です。もっとも、日本語の話し方の基本は、ストレス(アクセント)を持たないので、斜体のシラブルが高音化されて発音されることになります。

ところが、です。最近では多くの人が、「だが」、「どが」、「い」、「な」、「どへ」、「どのうに」と、最初のシラブルは低く発音して、次の太字のシラブルをとても高く発音する話癖が目立つ(「耳立つ」かしら)ようになりました。これも、どから、どのうにして(?)始まったのか、言語の調査をしている人間ではない私には全く判りませんが、少なくとも私にとっては、とても聴き辛いものです。

こうした例は、どこかの地方の方言的な話し方であったのかもしれません。そして今は、方言を大切にしよう、という了解が普及していることも承知しているつもりです。そして、今私たちが標準語としている発音様式も、ある時期の東京山の手の「方言」が基になっていることも、理解してはいます。

例えば、三木露風の詞に山田耕筰が曲を付けた有名な『赤とんぼ』ですが、あの歌では「あかとんぼ」は「かとんぼ」と歌われます。しかし、今はアナウンサーも「あかとんぼ」と平板な、アクセント無しで発音するのが普通です。似たような例に「でんしゃ」などもあります。言語学者は、標準的発音にも「平板化傾向」が見られると指摘しています。標準語が制定される頃の東京方言では、「んしゃ」であり「かとんぼ」であったと思われます。

より大きな観点からすれば、言葉とは常に流動するもので、ある標準に繋ぎ止めておくこと自体が、言葉を殺すことにも繋がりかねない、ということも認めているつもりです。

しかし、フランスでは、とすぐに「とつくに」の、しかもヨーロッパの例を持ち出して議論の根拠とするのは私の好むところではないのですが、この場合は仕方がありません。良い例なので、フランスのアカデミー・フランセーズを中心とした言語統制を引き合いに出します。それは、決して言葉を殺してきたわけではないはずです。特にフランスでは、英語の侵入には警戒感を尖らせていて、例えば<computer>さえ、長らく正規のフランス語としては認められてこなかったという実績があります。また例えば、TVで若い人が破格のフランス語を使うと、周囲の人が「え、そんなフランス語あるの?」などと咎めるのを何度も目にすることがあります。この場合は、発音というよりは、言葉遣い、単語遣いのケースですが、発音でも、標準語があるから方言が対比されるわけで、標準語抜きでは、方言という概念がそもそも成り立ちません。標準語を守ろうとすることは、決して故なきことではないのです。

因みにフランスでは、フランス語を英語の侵略から守ろうと大変な努力をしているのですが、ドイツ語ではこの辺りの事情はフランス語とはかなり違います。前にどこかでも書いたことですが、ある時ドイツ語の新聞を読んでいて<walken>という単語にぶつかりました。辞書を引いてみると、「布の毛羽をとってなめらかにする」、「皮をなめす」などと書いてあります。さて、この語の置かれている文脈からすると、どう考えてもこの訳語が当て嵌まるとは思えません。そこで思い当たったのが、英語の<walk>に動詞化の語尾<~en>を付けたのではないか。つまりは「ウォーキング」のことなのでした。まあ、発音は「ウォークン」ではなくて「ヴァルケン」なのでしょうが。

さらに脱線すれば、今<walken>の発音を「ヴァルケン」とカナ書きしました。確かに、ドイツ語の標準的発音(これは、よく北西ドイツ放送局のアナウンサーの話し方などと表現されます)では母音を伴う語頭の<w>は、下唇を上前歯で噛んで発音される(英語の<v>の音に近い)ので、「ヴァルケン」で良いのでしょうが、同じ高地ドイツ語であるオーストリアなどでは、噛み方が非常に弱くなります。つまり「ウァルケン」でも良いような発音になるでしょう。「ウィーン」は確かに標準ドイツ語の発音では「ヴィーン」でしょうが、ウィーンの人たちはウィーンと言っているように聞こえます。

同じことが母音を伴う語頭の<s>でも起こります。標準ドイツ語では、その<s>は濁ることになっていて、例えば「塩」は<Salz>ですが、当然「ザルツ」とカナ書きすべきでしょう。しかし、オーストリアの町<Salzburg>は、当地の人々の発音を聞いていると、ほとんど濁らず、「サルツブルク」に近く聞こえます。

正統スペイン語の<v>は、<b>と同じで、唇を噛まずに発音されます。ときどき、有名な作家Miguel de Cervantesを「セルヴァンテス」とわざわざカナ書きされる方がおられます。これはスペイン語の発音からすれば、明らかな誤記になります。ただ厄介なことに、イベリア半島を離れて、南米の例えばアルゼンチンのスペイン語になると、<v>は英語などの<v>と同じ、口唇を噛んで発音されるようになっているようです。

脱線に脱線を重ねますが、外国人の名前のカナ書きはよほど注意しないと失敗します。さる有名な文学者で教養人として知られる方が、オーストリアの詩人Hugo von Hofmannsthalを、ドイツ語では<s>は「ス」ではなくて「シュ」だとばかり、「ホフマンシュタール」と表記されて、話題になったことがあります。確かに、ドイツ語で街路を表わす<Strasse>(英語の<street>に同じ)は「シュトラッセ」ですし、ワルツ王Johann Straussは「シュトラウス」ですが、上の詩人の姓のなかの<s>は、前の<Hofmann>に繋がる綴字(所有の<s>)なので、<s>音でしかないのです。つまり、普通の表記では「ホフマンの谷」(Hofmanns+tal)と考えればよいので、「ホフマン・シュタール」ではなくて「ホフマンス・タール」なのです。

恥を忍んで、私自身の失敗例を一つ。イギリスの地名で<Warwick>というのがあります。翻訳の際に調べもせずに、極当たりまえに「ウォウィック」とカナ書きして刊行しました。これが大間違い。その関係の辞書(『固有名詞英語発音辞典』 三省堂)は書棚にありましたから、調べれば何でもなかったのですが、それを怠ったばかりにとんだ恥さらしになりました。イギリスでは、どうやらこれは「ウォリック」に近い発音のようなのです。慰めは、この辞書でも「イギリスでは」と注釈がついていて、アメリカでは「ウォウィック」で通用すると書いてあることでしたが、原文は勿論イギリスでの話なので、これは言い訳にはなりません。

これも脱線ついでですが、安易な略語化には嫌悪しかないことは、すでに折に触れて書いてきました。一時期、大変な人気を博したドラマに『冬のソナタ』というのがありました。そのころはまだTVセットを持っていなかったので、私は一度も観たことはないのですが、世間では「冬ソナ」と呼んでいたようです。元が漢字も一字とすれば僅か五文字、そのうちから「の」と最後の「タ」を省略して三字にしたからといって、何がどうなったというのでしょう。どうもここには、そうした意味のない省略形を使えることで、その業界に一歩踏み込んだという優越感のような感覚が得られる、という思い込みがあるとしか思えません。

外来語を短縮するのも、元になる語の構造や成り立ちを全く無視していることが多いので、私は使いたくありません。「パソコン」などはその代表例です。「パソ」も「コン」も全く意味を成さないからです。仕方がないので、私はPCを使うことにしています。

エリートと教養6 現代日本語考

かつて、「ロス疑惑」なるものが社会を賑わしたことがありました。内容を覚えておられる方がどれだけいらっしゃるか判りませんが、メディアでは「ロス」という言葉が、連日、乱れに乱れ飛んでいました。しかし、ロス・アンジェレスの省略形として「ロス」というのは、余りにも言語上の問題を無視した、乱暴極まるものではないでしょうか。元々、<Los Angeles>はスペイン語ですから、<los>は単なる冠詞に過ぎないでしょう。「ロス」だけでは何の意味にもなりません。これもどうしても省略しなければならないときは、LAと書くことにしています。

セミナーで、これは大人のセミナーでしばしばお目に(いやお耳に)かかる表現ですが、私にとっては全く神経を逆撫でされるような使い方で、気になって仕方がないものが幾つかあります。どうやら、サラリーマンの間では極普通になっているらしいのですが。

「腹落ちする」という表現が、そのうちの一つです。「腹に落ちました」とか「腹落ちがしました」などとおっしゃる。最初、私は全く何のことか判りませんでした。使われる文脈で、推測してみれば「腑に落ちる」の代わりに使われるようです。どうして「腑に落ちる」という立派な慣用句があるのに、わざわざ「腹」というような、粗っぽい言葉に変えて使うのでしょうか。私には全く理解の外です。

何だか文句ばかりを並べたような気がします。これも単なる年寄りの繰り言かもしれないので、ここはこの辺りでいったんは鉾を収めましょうか。

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村上 陽一郎(むらかみ・よういちろう)

上智大学理工学部、東京大学教養学部、同学先端科学技術研究センター、国際基督教大学(ICU)、東京理科大学、ウィーン工科大学などを経て、東洋英和女学院大学学長で現役を退く。東大、ICU名誉教授。専攻は科学史・科学哲学・科学社会学。幼少より能楽の訓練を受ける一方、チェロのアマチュア演奏家として活動を続ける。