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楽しい山の温泉めぐりと失われた宿 ウイスキーと酒場の寓話(34)

2020.08.07

Updated by Toshimasa TANABE on August 7, 2020, 16:59 pm JST

大きな風呂に浸かって思い切り手足を伸ばし、「あ”ーーーっ」(アとウとガの間のような音のつもり)と唸る。本当に温泉は良いものだ。しかし、温泉といってもピンキリである。何度でも行きたくなる温泉の条件はいくつかあるが、「源泉の湯をそのまま引いている」ということが重要である。

大規模な温泉地では、豊富な源泉の湯を何軒もの宿で利用している。これが必ずしも悪いとはいわないが、湯が足りなくなると、循環させて何度も使う、真水を加えて量を増やすと、いった方法で多くの宿に湯が回るようにしていたりする。

実際、有名な温泉地であっても、循環・塩素漂白・ろ過という方法で、同じ湯を何度も使っているところもあるようだ。トロリとしたお湯の感触は、「さすがは温泉」なのではなく、実は皮脂を中心とする汚れだったりもするのだという。もちろん塩素で漂白してあるので透明だ。塩素は、水道にも使われているので馴染みはあろうが、温泉の場合、せっかくさまざまな成分を含んでいるのに、塩素を混入することでそれらの成分が化学反応を起こして変化してしまうことにもつながる。

天然の温泉のお湯は、サラッとしていながら良く温まる。何度でも入りたくなるし、とても温まるのに不思議とのぼせない。「身体が喜ぶ」のが実感できる。こういった好ましい温泉を見分けるポイントとしては、

・湯が湯船から溢れてどんどん流れている
・お湯を飲めるようにコップが置いてある
・一軒宿である

などが挙げられる。

風呂に入ると、一見ちょろちょろとしか湯が出ていない場合もある。実はこれは、源泉の温度と湧出量、湯の引き回し、湯船の大きさなどを勘案した宿の配慮なのである。季節によっても調節して、冬だから温いなどということにならないようにしているのだ。逆に、派手にお湯が注ぎ込んでいるのに溢れていない場合は、循環させていることが多い。

温泉には、その温泉の成分の分析結果と効能が貼り出してあるが、たいていの温泉では飲用の効果も書いてある。湯船への注ぎ口にコップがあれば、それは源泉に近いフレッシュなお湯だということである。持病などとの関係で問題なければ、ぜひ温泉水を飲んでみたい。晩御飯の前にちょっと飲んでおくと、気のせいかスッキリお腹が空いてくるものである。

そういうわけで、山の中の一軒宿には、それだけで惹かれてしまう。源泉のお湯をその宿が占有しているので、温泉の質が満足できる確率が非常に高いからである。

温泉の入り方は、何度も入る、長く入るなど、人それぞれだろうが、もし込んでいないようなら、お湯が溢れる湯船の脇に横になってみることをお勧めする。湯船の形や溢れるお湯の量など、これができるところは限られるが、本当に気持ちが良いものだ(写真は改装前の大雪高原温泉の内風呂。横になるのに最適だ)。

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温泉のハシゴも捨てがたい。オフロードバイクでツーリングしつつ1日に6カ所の温泉に入ったことがあるが、近いところでも微妙に泉質が違ったり、内湯や露天風呂の趣がそれぞれだったりして、なかなか面白い体験だった。

最近は、子供の頃から銭湯などには行かない内風呂育ちが増えているのと、親もきちんとマナーを教えていない(親ですらマナーに疎い)場合があるようで、湯船に入る前に「前」を洗わなかったり、湯船の中で顔を洗ったりする不届き者も見かける。「前」といわれても意味が分からないのではなかろうか。これは、まったく困ったことである。

何度も訪れて、とても気に入っている温泉宿がいくつかある。そんな宿の中で、再訪が叶わなくなってしまった山の宿について記しておきたい。あの素晴らしいところにぜひまた行こう、と思っていながら、ちょっと疎遠になってしまっているうちに、何かの事情でそこはなくなって、もう二度と行けなくなってしまう。そんな場所やお店、宿などが誰にも一つや二つはあるのではないだろうか。


「あと15分くらいで古川インターだな、、、。やっぱり横浜から直行だとけっこう遠い、、、」。

夜明けとともに横浜を出て、東北自動車道をひたすら北上してきたが、仙台を過ぎた頃になってさすがに少し疲れを感じていた。朝ゆっくり出て、途中で一泊という手もなくはいのだが、このときは約450キロを一気に走ることにしたのだった。

マニュアルミッションの4ドアセダンを一人で運転しながら、首筋を2、3回捻ってボキボキ鳴らす。まあ、この凝った首筋も今夜寝る頃にはスッキリしているはずだ、、、。

古川インターを降りてからは、宮城、岩手、秋田の県境にある栗駒山麓を目指す。温湯(ぬるゆ)という温泉を過ぎたら、右に折れて川沿いに上って行くと赤い橋が見えてくる。橋のたもとに数台分の駐車スペースがあって、宿まではここにクルマを置いて歩いて20分くらいだ。

クルマを停めて少しの荷物を持ち、橋を渡って急な斜面を登って行く。以前にオフロードバイクで来たときには、特に禁止の表示もなかったので、バイクで登って行こうとしたのだが、途中の斜面に曲がりきれないキツいカーブがあって、バイクで登ることは断念した。たとえ登れたとしても帰りが無理だな、と判断したのだった。

急坂を登り切ったところで弾んだ息を整える。ここからはほぼ平坦な道で、もうあと数分だ。

ほどなく、川に面した赤い屋根の一軒宿が見えてきた。山好きには知られたランプの宿、湯の倉温泉(ゆのくらおんせん)「湯栄館」(ゆえいかん)。温泉宿は無数にあるけれど、「よかった、またここに来ることができて」と心から思える数少ない宿の一つである。

「お世話になりまーす、予約しているものですがー」
「おお、よく来たね。あれ? 何度か来てる顔だね? 確かバイクじゃなかったっけ? 今回はクルマできたの?」
「そうなんですよ。何回かバイクで来ましたけど今回はクルマです」
「大雨で増水して、露天風呂が水没したときだったかね?」
「いやー、あのときは、土砂降りの中、東京からバイクで走ってきたんでずぶ濡れだったんですよね。二日目に晴れてやっと露天に入れた。二泊でないとダメでしたね。今回も二泊でお願いします」
「まぁ、今回はいい天気だね」
「夜は星がよく見えそうなんで楽しみですよ」

などという話をしながら宿帳に記帳して、別棟の客室に案内される。部屋は川に面した風通しの良い2階。目の前を流れる川の音が心地よい。

ランプの宿というだけあって、畳の6畳間には天井にランプが吊るしてあるだけでコンセントなどはいっさいない。

二泊すると分かるけれど、ランプのホヤというガラス部分が透明で光が明るいのは、ご主人が毎日磨いているからだ。一晩使うと煤でガラスが真っ黒になるから、毎日、客が出発したら全ての客室の「ホヤ磨き」をして回る。

ランプは、芯の出し入れで明るさを調節するのだけれど、夜中に暗くしようとして芯を下げすぎると、消えてしまうから要注意。そうなると真っ暗。ここの夜は本当に真っ暗なのだ。まだタバコを吸っていた頃、手探りでジッポのオイルライターを取り出して、ライターの火を明かりにしてランプに火を点け直したということもあった。

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さて、それでは、まずは日の高いうちにゆっくり露天風呂に入って、それからビールを飲むとしよう。

ここは、川に面した露天風呂が素晴らしい。増水するとすぐに水没するくらいで、本当に川に接している。温まったら川に飛び込むのが、ここでの夏の流儀。この川がまた清流なんてものじゃないほど水が澄んでいる。上流側は2メートルあるかないかの滝になっていて、下流のほうには岩があって、ちょうど風呂の前が直径30メートル、深さ50センチくらいの砂地のプールのようになっているのだ。潜るとイワナが何尾も走っているのが見える。

露天風呂を堪能したら、ご主人にビールを2本ほど出してもらって部屋に戻る。ビールは川の水で冷やしてある。渓流の水は十分冷たくて、ビールの冷え具合に不足は感じない。

毎日のように飲んでいるビールだけれど、こんなに美味いのは年に何回あるだろう、というほどの美味いビールを飲んでいると、日が落ちてきた頃に夕飯が運ばれてくる。質素ではあるが心づくしの夕飯。山菜やイワナなどと一緒に鳥のモモ焼きが1本付いてくるのがここの夕飯の特徴である。

ランプの火がチロチロと揺れるのを見ながら、川の音をBGMにスキットルに入れて持参したウイスキーをちびちびと飲む。チェイサーは湧き水。グラスは部屋に備えつけの茶碗。この間に合わせな感じが旅の醍醐味だ。

電気がないのでテレビもない。川の音というのは不思議とうるさくないもので、旅の疲れも手伝って、さほど酔ってもいないのにあっけなくぐっすりと眠ってしまう。ちょっともったいない感じもあれど、これがこの宿での正しい夜の過ごし方でもあるのだろう。

翌日は、ほとんどの宿泊客は山登りに行くのだが、本を読んだり酒を飲んだりしながら、風呂に入ってはウトウトし、川に入ってはまた風呂に浸かり、といった調子で丸一日をのんびり過ごす。こうしていると、体の濁りがどんどん抜けて行くような気がしてくるものだ。

二泊した三日目の朝には、出るものが山菜の名残を色濃くとどめるようになってくる。そうなると、都会の雑踏が頭をよぎったりするようになるのだから不思議なものだ。「さあ、また仕事だな」という気になってくる。

この温泉宿、そもそもは、東京の会社に就職して最初のゴールデンウイークに奥鬼怒温泉郷(日光沢、手白沢、加仁湯、八丁の湯の4湯。ここはここでまた素晴らしい)に行ったのだが、そのときに宿で知り合った人に教えてもらったのだった。「あそこはいいよ」と温泉のベテランに勧められたら、確かめに行かなければならない。

ところが、湯の倉のあの露天風呂にもう一度行こう、今度はいつ行こうか、と思っているうちに、それは二度と叶わぬ夢になってしまった。

2008年6月14日、岩手・宮城内陸地震によってできた土砂ダムでせき止められた目の前の川が増水し、宿を完全に水没させてしまったのだ。ご主人が無事だったのがせめてもの救いだった。山の温泉の一つの理想といえる宿、それが湯の倉温泉「湯栄館」だった。

2020年の夏は、また別の理由で行きたいところに行けない、という状況下にある。ふと、自然災害で水没した宿のことを思い出したのである。


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田邊 俊雅(たなべ・としまさ)

北海道札幌市出身。システムエンジニア、IT分野の専門雑誌編集、Webメディア編集・運営、読者コミュニティの運営などを経験後、2006年にWebを主な事業ドメインとする「有限会社ハイブリッドメディア・ラボ」を設立。2014年、新規事業として富士山麓で「cafe TRAIL」を開店。2019年の閉店後も、師と仰ぐインド人シェフのアドバイスを受けながら、日本の食材を生かしたインドカレーを研究している。