戦争:壮大な騙し合いを企てる者たち(後編)陰謀論の陰で陰謀は進む
2021.02.26
Updated by Chikahiro Hanamura on February 26, 2021, 09:55 am JST
2021.02.26
Updated by Chikahiro Hanamura on February 26, 2021, 09:55 am JST
「まなざしのデザイン」などを研究していると、「陰謀論」はさまざまな点で実に興味深い分析対象である。いつの時代も世界は陰謀に満ちており、表で語られていることだけが全てだと思うのは、あまりに素直すぎる見方である。その表の歴史に対して、全ては仕組まれていると正反対の方向からまなざしを投げかける陰謀論は、戦争だけではなく人の認識についても、いくつもの論点を提示する。
日本では都市伝説という言葉の方が馴染み深いが、陰謀論は今では一つのエンターテインメントや文化コンテンツの様相を呈している。「政府や異星人が市民を監視している」「選ばれたエリートが私たちを奴隷のように支配しようとしている」「悪魔を信奉する秘密結社によって、世界はコントロールされている」。こんな話を何か一つくらいは耳にしたことがあるのではないだろうか。
ここでは、陰謀論について詳しく語ることが目的ではないので他書に譲りたいが、陰謀論にはリアリティのあるものから荒唐無稽に響くものまで多くのヴァリエーションがある。いずれにせよこうした陰謀論は、私たちを驚かせたり、懐疑的にさせながらも、楽しませてくれるものとして消費されてきた。
陰謀論の基本的なスタンスとしては、これまでの歴史や、今世界で起きている出来事は誰かが陰で謀略したシナリオに基づいている、というものである。政治・経済・宗教・科学などのあらゆるシステムがその筋書きに沿って組み立てられており、それは入り組んでいて個別に見ていても分からない。巧みに人々から隠されたそれらの計画が、戦争や貧困、経済の浮き沈みの全てを動かしている。そんな補助線に沿って世界を眺めるのが、陰謀論の特徴である。
もちろん、どんな理論であっても、ある一つの切り口から仮説を立てて、バラバラに見える出来事を並べて、全体像として提示しようとする。陰謀論であっても、その証拠と考察に説得力を持たせることができれば、興味深い仮説の一つとして捉えられても良いはずである。しかし、多くの人にとって「なぜ、陰謀論は受け入れられない」のだろうか。陰謀論の内容の問題よりも、受け入れられない理由の方が考察としては興味深い。実はそれが、陰謀論の本質を理解することにもつながるのではないだろうか。
まず、陰謀論で語られていることは、そのトピックの性質上、決定的な証拠に欠けることが多く、検証が難しい。陰謀とは、秘密にされているから陰謀なのであり、通常は簡単に表に出てこない情報である。だからこそ確かめようがなく、陰謀論の多くの部分は推測や憶測が占めざるを得ない。数少ない事実の隙間に残る不明な部分が想像力で補われるため、単なる思い込みや無理なこじつけ、誇大な妄想などが入り混じりがちだ。そこが陰謀論の弱点であり、信用されない理由の一つである。
一方で、陰謀論の多くは、受け入れられないことを前提にしてもいる。だから説を主張する者は、調査を綿密に行い、信憑性の高い証拠を用意することに相当なエネルギーを使っていることも多い。そうしないと、考察が説得力を持たないことが明らかだからだ。しかし、いくら証拠を並べても陰謀論が受け入れられないのは、さらに本質的な理由がありそうだ。
それは、陰謀論が提示する話があまりにも壮大で、リアリティが持てないことである。陰謀論では、今の世界で「正式」とされている事柄のほとんどが、歴史の陰で行われた謀略と何らかの形で結ばれていると指摘する。
これまで正しいとされてきた歴史、国際的にオーソライズされた機関、尊敬に値する功績を挙げたとされる著名な人物、当たり前のように利用しているサービスや技術。そうした今の社会に広く深く浸透していること、権威として位置付けられたものは、怪しげなものとして疑う余地すらなく自然に溶け込んでいる。そんなことに疑いを立てることなど馬鹿馬鹿しい、と多くの人は考えるのである。
しかも陰謀論で語られることは、これまでの常識とはかけ離れた、ありえないような物語である。それを予備知識がない状態でいきなり提示されても、多くの人にとっては混乱するしかない。明らかな証拠が並べられていれも、それらを受け入れるには、一つひとつを咀嚼する時間と、それまで身に付けてきた常識を解体していく努力が必要になる。多くの人はその努力をするよりも、これまでの常識に基づいて社会の秩序を乱さないことを望むだろう。
特に、社会通念や良識を大切にする人、あるいは人間の善良な側面だけにフォーカスしている人にとっては、陰謀がもし真実であったのならば、大変ショッキングなことである。知らなかったとはいえ、もし自分がその陰謀が生んだシステムに加担や応援をしてしまったのであれば、その誤りを認めるのは難しいだろう。これまで自分が正しいと信じて、周りに主張してきたことが見当外れだった、ということになってしまう。
そうなると、それを嘘であるとして自分を正当化することを望むだろう。たとえ信じていたとしても、それを表明することはない。そのことで社会的に自分の評価や信頼が損なわれる、あるいは身の危険にさらされることなどへの恐怖もあるからだ。さらに、今の利権やシステムに大きく依存する団体や個人であれば、陰謀論を積極的に否定しなければならない。システムが崩れることは自らの死活問題であり、大変不都合だからだ。
このように、これまでの社会でそれなりに上手くやってきた多くの人々は、今の安定を崩そうとする陰謀論などには耳を傾けない。見たいことや聞きたいことだけにフォーカスしていれば、自らのアイデンティティが脅かされないからだ。陰謀論を受け入れることは、これまでの日常や常識の多くを否定することを意味する。特に社会が表面上は上手くいっているように見える時ほど、多くの人にとって陰謀論は大変危険な考えか、馬鹿馬鹿しいアイデアとして、まともに相手にする必要性を感じないのである。
しかし、いくつかの経済危機やパンデミックを経た今の時代のように、これまでの常識が変わり始めると、陰謀論の受け止められ方も変化する。これまで疑うことを知らずに受け入れてきた正しいとされること、目の前に当たり前にあるもの、自然に起こったように見えること。それらに疑いを立てる陰謀論は、まさに手品を見破ろうとするような根本的なまなざしの転換をもたらす。なぜ今の世界はこのようになっているのか、なぜそれを私たちは当たり前に受け入れているのか。その状況自体を怪しむべきだと陰謀論は指摘する。その補助線を辿ると、全ての物事があまりに大きな範囲に渡ってつながっており、個別には見えない矛盾に気付いてしまう。
たとえ小さな部分であっても、疑いのまなざしが一度向けられると、残りの部分まで怪しく見え始める。見過ごしてきた小さな違和感に気付き始め、それが目に見える形として共有され始めると、世界全体への疑いのまなざしが満ちてくる。そんな時に、これまで全く相手にしてこなかった陰謀論を人々は受け入れ始めるのである。
「陰謀論」や「陰謀史観」についての研究は、表のアカデミズムでも一定の蓄積は見られる。だが、「陰謀」そのものについての研究は大学の研究者よりも、主に市井の研究者やジャーナリストによって進められてきた。世界各地には陰謀史家と呼べる人々がたくさんいて、それぞれ独自のルートから得た情報を元に研究しており、かなりの蓄積が見られる。それらが最も浸透し、一つの文化にまでなっているのはアメリカである。
「陰謀の世界史」を書いた海野弘によると、陰謀(conspiracy)という言葉がアメリカ人の日常会話の中に入ってきたのは、1960年代になってからとのことだ。当時のアメリカは、ケネディ大統領の暗殺が大きな出来事であり、その裏側にある陰謀の存在が人々に噂されていた。この暗殺事件を調査したウォーレン委員会の調査結果が当時のニューヨーク・タイムズ紙に掲載された際に、「陰謀論」(conspiracy theory)という用語が使われたという(注1) 。それ以降、世界の出来事の裏側に潜む謀略を疑うまなざしは、陰謀論として括られることになる。21世紀に入ってからも、9.11の背後や大統領選の不正に至るまで、事件の真相を探れという声が上がるが、それらは大体が陰謀論として取り扱われている。
陰謀論という言葉が興味深いのは、この用語が持つ「反転作用」である。この言葉を貼り付けると、たとえ真実であってもいかがわしいものへと転落させることができるのである。つまり、陰謀論という用語自体が、もともと真実と嘘とを反転させる呪文としての効力を持っているのだ。全てが企みであるとする陰謀という言葉が、「常識的な見方」を怪しく見せてしまうのと同じように、すべてを嘘に変える陰謀論という言葉は「懐疑的な見方」を怪しく見せてしまう。
真実を隠すために、嘘を真実として真実を嘘とすることは歴史の中でよくあることだ。この陰謀論という言葉も、一言で人々のまなざしをひっくり返し、本当の陰謀を隠すために最大限の効力を発揮する。この呪文とともに2割くらいの嘘を混ぜ込むことで、残りの8割の真実も疑わしくすることができるのだ。そうやって、何が真実で何が嘘か、どれが陰謀で、どれが陰謀論なのかを混乱させると、堂々と悪事を働くのに都合の良い状況が生まれる。
陰謀論という言葉が生まれた背景には軍事研究がある、と疑う声もある(注2)。軍事研究においては、洗脳やプロパガンダ、心理兵器など、人々を真実から遠ざけるための情報操作に心理学の方法論が応用されてきた。その一つとして、この言葉を流通させた可能性はないだろうか。これは、心に留めておく余地があるだろう。
そもそも私たちの見方は、情報や教育から非常に大きな影響を受けている。どの立場から正解が決められるのかによって、見方は大きく変わる。歴史とは、本来は多様にある見方の一つである。その一つをアカデミズムが採用し、学校で正解として教えている。繰り返し頭の中に刷り込まれていくことで、紛れもない事実として私たちの中で常識となる。
当然ながら、膨大な事実の中から「誰か」がピックアップして解釈した歴史には、こぼれ落ちているものがたくさんある。どの事実を拾い、どのように語るのかによってストーリーは正反対になることもあるのだ。歴史は、基本的には勝者によって書かれるという傾向が強い。そこでは、書く者は自分に有利な書き方をしがちだ。利害が関係していれば、なおさら事実の都合の悪い部分は伏せられ、都合の良い解釈として歪曲されるだろう。
私たちが直接見聞きしたわけではない過去の出来事は、遡るほど証拠が乏しくなるので確かめることができない。本質的に、歴史とは何かに残されている情報でしかなく、そこから類推される物語に過ぎない。歴史的事実の解釈の方法に偏りがあること以前に、提示された事実が偏っていたり、残っている記録が信頼に足るものなのかという問題もある。専門家によって科学的方法で保障されたものであれば信頼できる、という理屈は陰謀を語る際には通じない。なぜなら、陰謀論ではその専門家自体に疑いのまなざしを向けているからである。
そんな中で私たちは、何が真実で何が嘘だと、どうすれば知ることができるのだろうか。アカデミズムによるオーソライズや、裁判による白黒すらも裏で決められたものだと陰謀論では主張される。買収や脅迫によって、研究者や司法が必ずしも公正に判断しているとはいえないと主張されると、どんな証拠を提示したとしても、それは証拠には見えなくなる。結局のところ、ある見方に沿って眺めると、真実は捏造になり、捏造は真実になり、最終的にはどれくらいの人が「信じているか」という数が判断基準になってしまう。そうなると、マイノリティや異端として扱われる少数の見方は、間違いとされるのである。
だが今、その状況が大きく変わる気配が高まっている。インターネット登場後に情報社会が進むにつれ、断片的だった情報が共有されるようになり、かつて少数の見方であった陰謀論についての捉え方が変わってきた。虚実入り混じり、個別に散らばっていた莫大な情報が、一つの補助線のもとで結び付けられ精査されながら、さまざまな証拠として並べられ始めている。そんな中で、これまでの正しいとされてきた歴史や常識に対する疑いのまなざしが、急速に強まってきている。
事実、数年前であれば陰謀論と笑い飛ばされていたような怪しい理屈が、今ではかなりの数の人が実は真実なのではないかと感じ始めている。多くのことは、もはや「陰謀論」ではなく「陰謀」であったという反転を引き起こす状況が、本格的になりつつあるのではないか。
陰謀の存在を意識する人が増えれば増えるほど、これまでの社会の常識に従う人と、そうでない人との分断は大きくなっていく。これまでの多数派と少数派の割合が完全に入れ替わった時には、地動説と天動説の例を出すまでもなく、かつての常識は非常識になるだろう。それまでの間は、どちらに人々のまなざしを向けさせるか、という戦いが激しく繰り広げられ、混乱はより大きなものになると考えられる。
興味深いのは、多様に見える陰謀論が共通したある見方を示していることである。口を揃えたように「反グローバリズム」を唱えているのだ。そこでは個人の自由が主張され、個人の自由を見えない形で脅かそうとする勢力へ疑いのまなざしが向けられている。自由を求める声は、一見、国家主義や共産主義のような全体主義に対する批判に聞こえる。結果的に、民主主義や資本主義、自由主義という反全体主義のシステムを応援しているように見えるかもしれない。だが、陰謀論ではその自由を掲げるシステム自体にも疑いのまなざしが向けられる。
今の政治経済システムや世界秩序は、フェアな方法ではなく、少数の特権的な人々が有利になるように組まれたものである。このシステムは平等ではなく、さまざまな格差を生み、不自由な人々はどんどん不自由になっていくようにできている。私たちの自由はそのシステムに縛られたものであり、平等というのは家畜としての平等でしかないのではないか。こういった考え方が、ほぼ全ての陰謀論に通底している。
陰謀論にはうなずけなくても、こうした格差を生むシステムやグローバリズムに反対する考えを支持する人は、随分と増えてきているように見受けられる。つまり、今の世界に敷かれたシステムは多様性や平等、持続可能などを装いながら、実は特定の人々の利益を守るためのものになっている、という考え方である。その考えを受け入れる人が急激に増えたのは、この数年のように思える。
さらに、今の国際社会で正しいとされる前提を疑う声も高まっている。現在の国際社会の枠組みを作ったのは、基本的には戦勝国である。その枠組みで世界を秩序立てることは、必ずしも各国の自由と平等をもたらすとは限らない。むしろ秩序とは、それぞれの自由が制限されることを意味し、各国の利害がぶつかるとき、どこかの自由は制限される。その際に、どの国の利益を優先させるのかは平等に決まっている、とは考えにくい。
ぶつかり合う利害は国家が単位になっているのか、という点も今や疑問である。そもそも戦争とは、本当に「国家と国家の争い」なのだろうか。私たちは簡単に「アメリカ」「中国」「ロシア」などと国家をまとめて指さし、それがあたかも一つのまとまりのように考えてしまう。だが、それぞれの国は、一枚岩のような単純な構造ではない。どんな国であっても、一部の人々は自由を手にできるのに対して、大勢の人々は「平等に不自由」な状況に置かれている。
国家という考え方は極めて近代的な概念であり、私たちの頭の中にある空想的な単位だ。それは、国際社会が生まれようとしていた頃には大きな意味を持っていた。ある一定の領土を設けて、そこに国境という障壁を設け、その内部を管理するために国家はある。その内部に住む者の安全性を担保するために、外から安全を乱すものが入らないように守り、大事なものを中から出さないようにする。そういった、ある範囲の土地を安全に維持するのが安全保障である。
そこで暗黙の前提になっているのは、その領域の内側にいる人々は仲間であることだ。それぞれが互いの安全を脅かさないことが保証されているので、国境の内側の平和が担保される。だが、グローバリズムが浸透した世界では、人も金も情報も、国境を超えて内外を自由に往き来できる。この結果、国家という単位がだんだん機能しなくなるという状況が生まれた。
今では、国内の人々が同じ価値観や利害を共にする共同体である、という前提条件そのものが危うくなってきている。政治的立場の異なる政党、超国家的な利益を目指すグローバル企業、国際的な宗教組織、民族など血縁のネットワーク、といった全く違う思惑を持つ共同体が一つの国に無数に存在している。その共同体の範囲は、国境の外側にも広がっており、土地を超えた別の価値観によってつながっている。それぞれの勢力は国家のためではなく、自分たちの利益のために行動しており、そこでは国家はむしろ邪魔なものか、あるいは利用できるものとして捉えられているだろう。
そんな状況で、一体誰がどこで線引きをして、何の安全性を担保すれば良いのだろうか。国境を超えてやってくる経済の暴力に対して、国家は誰にとっての利益や平等性を保証できるのだろうか。同じ国境の内側にもかかわらず、一部の団体や組織にとって都合が良い仕組みが担保されることが、他の多くの人々にとって平等に不利益になる状況が出てくることもある。
国家という一つの共同体の中で、安全性を守るべき範囲はどんどん小さくなる一方だ。誰もが、最終的には自分一人という個人の安全性を守ることを最優先するとどうなるだろうか。国家という単位で物事を考えなければならないはずの政治家までもが個人の安全性を最優先すると、国家自体が私たちの利益や平和を脅かすものとして利用される。そうなると、国境というバリアの中は、もはや安全ではなくなる。グローバル化が浸透したこの世界では、国民国家という枠組みではなく、別の力学でさまざまなことが動いている。そこでの安全性の線引きは、非常に複雑な様相を見せており、国家という単位だけで戦争を見ていると見誤るだろう。
確かに戦争は国の指導者によって始められるが、必ずしもその指導者が正義に基づいて戦争をしたがっていることを意味しない。国家にとって戦争はあくまで手段であり、目的は政治的に有利になる事や経済的に国を繁栄させることである。だが、戦争には必ず莫大な費用がかかってくるため、国家としてリスクが大きい。それに前線で戦わなくてはならない軍隊は、むしろ戦争を避けたがることが多い。
戦争が始まる表の理由には、正義や大義といった政治的動機が掲げられるが、裏の理由はたった一つだ。それは「利益」である。そしてその利益とは、国家にとってではなく、「戦争屋」にとっての利益である。戦争は真の問題からまなざしをそらすために、自由や平等といった美しい言葉が並べられるが、それによって利益を手にする人々は社会では巧みに隠されている。だからこそ、戦争が一体誰によって仕掛けられているのか、という見方が必要になる。戦争とは巨大なビジネスなのである。
軍需産業というのは、何も兵器に特化したビジネスだけをしているわけではない。私たちがよく知っている優良な企業が、兵器も製造して利益を上げているのだ。世界有数の軍需企業といわれるロッキード・マーティンやボーイングなどは、ご存知の通り飛行機などを製造する普通の企業である。国家は、戦争が発生する前から軍備を整え、他国を牽制し、戦争を抑止するという名目で、こうした企業に兵器を発注し、製造させるのである。
そして戦争にまつわるビジネスは、物理的な殺傷を目的とする戦闘機やミサイルなどの製造業から、ミサイルの制御技術やソフトウエアの特許ビジネス、そして兵器のマーケティングや情報産業へとその範囲が広がっている。どんなシチュエーションで兵器が使われ、どのような組み合わせが最も効果的かをコンサルティングするビジネス、どういう方法でプロパガンダすれば効果的なのかをマーケティングするビジネス、どうやって情報を収集しシステムへ侵入するかというサイバービジネス。こうした戦争にまつわる情報産業は、他国との関係が緊張状態になるほどビジネスチャンスが増える。
戦争のための準備として、莫大なお金が投入されるのは平時である。現在の日本のGDPは約500兆円であるが、例年その1%程度が防衛費(注3)、すなわち軍事費として計上されている。これに米軍費用などを計上し、補正予算なども編成されれば、結局、6兆円近くに及ぶ(注4)ともいわれている。さらに、これまで購入した兵器のローン残高だけで5兆円以上(注5)が上乗せされる。
ちなみに、世界最大の軍事力を誇るアメリカの軍事費は、約71兆円(6,846億ドル)であり(注6)、全世界での軍事費を全て合わせると約204兆円(1.9兆ドル)となる。これは、過去10年で最高水準(注7)であるというが、実際にミサイルを撃ち合うような交戦時ではなく、平時にかかる軍の維持費だけである。戦闘員の人件費や訓練費、兵器の開発・調達費、弾薬や燃料の備蓄費用など、防衛に備えるために使われる私たちの税金は膨大だ。これが戦時になれば、維持費に加えて戦費が必要になる。
経済的観点から戦争を見ると、基本的には軍隊は何かを生産しているわけではなく、消費する一方の存在である。だから毎年5兆円以上を投資したとしても、それが回収されることはなく、掛け捨ての保険のようにその大半が失われていく。資産として残るのは兵器であるが、これも定期的に購入し直さなければ古くなってしまう。だから、兵器を商品としてビジネスをしている軍需産業は、定期的に商品を使ってもらわなければならないという理屈になる。
一度購入した兵器の維持費も、ものすごい額だ。防衛省の試算(注8)では米国政府を窓口にしたFMS(対外有償軍事援助)で購入した兵器の維持費だけで、廃棄されるまでの20-30年間に約2.7兆円の維持費が必要であるという。何もせずとも、これだけのお金がかかる。
だが、実際に戦争が起こってしまうと、こうした軍需企業はむしろ経営が難しくなる。兵器は増産態勢が取りにくい上、設備投資をしても戦争が終わると不要になることが多いからである(注9)。兵器の製造業では、実際に戦争が起こるよりも、「戦争が起こりそうな気配」で留まる方が利益を上げやすい構造になっている。では、実際に戦争が起こって利益を得るのは、一体誰なのだろうか。
戦争が始まれば、平時とは比べ物にならない戦費が必要になる。実際に歴史上、どの戦争にも莫大な資金が投じられてきた。日本が近代化以降に経験した戦争では、日清戦争(1894-95年)で約2.3億円の戦費(注10)が投じられ、それは当時のGDPの約17%に相当する額だという。日露戦争(1904-05年)の戦費は約20億円で、当時のGDPの約60%にも上る(注11)。これが太平洋戦争となると、とんでもない額に跳ね上がる。太平洋戦争(1941-45年)の戦費総額は約1,900億円。当時のGDPは228億円なので、実にGDPの約850%に上るお金が戦争に費やされたことになる。
これだけの資金をどうやって調達するのだろうか。それは金融を通じて以外にはあり得ない。国が資金を調達するためには、国債を莫大に発行する必要がある。それらは「銀行家」や「投資家」が引き受けることで資金として提供され、金融を通じて利子へと変わる。利益を求めて国際的に活動する銀行家たちは、地域に関係なく戦費調達が必要な国家に金を貸し付け、その利子によって莫大な利益を手にすることができる。日清戦争の戦費の約三分の一は外債に依存しており、日露戦争のために発行された戦時公債も約半分を主にイギリスの銀行が、残りの半分をユダヤ人銀行家が引き受けている(注12)。
太平洋戦争の場合は、膨大な国債を引き受けたのは日本の銀行と国民であるが、国内の財閥が大きな役割を果たしたことはよく知られている。表向きはさまざまな理由が挙げられるが、投資家の目的は正義ではなく利益なのである。財閥は、戦時中に重工業以上に金融への投資額を大幅に増やしており、巨額の利益を手にしていることは想像に難くない。
こうした金融を通じた戦費調達のつけは、戦後の平常時における国家の財政に長期にわたって影響を与え続ける(注13)。実際に、日本政府が日露戦争の借金を完済するまでには、82年もの時間がかかっており、太平洋戦争後も預金封鎖や闇市場、インフレなどによる混乱で多くの苦しみを生んだことは事実である。しかし、その混乱を大きなビジネスにするのが金融の世界だ。
戦争はマネー・ゲームであることを理解している国の指導者の多くは、怒りに任せて戦争するわけではない。軍隊も、決して戦争がしたいとは思っていない。だが、さまざまな力学で戦争せざるを得ない状況に追い込まれていく。あるいは個人の利益のために国を売る選択をすることもあるだろう。圧力をかけて戦争をさせたがるのは誰なのか。脅しや甘い話に乗って、利用されるのは誰なのか。事情を知らずに正義感を煽られるのは誰なのか。それを冷静に見つめるまなざしが増えることが、本当の戦争の抑止力になるはずだ。
おそらくこれからの戦争は、ますます目に見えないものになっていくだろう。戦争は、殺傷兵器の撃ち合いから、サイバー戦や平時の情報操作へと移行しており、次に向かう先は私たちの身体そのものである。それは、分かりやすい形の戦争として展開されることはなく、私たちの日常生活に便利な形で入り込んでくる。既に、私たちが普通に使用するものや身に付けるものの中に、ひっそりと戦争の道具が潜んでいる可能性がある。
スマホのようなデバイス、SNSサービス、顔認証アプリなどを通じて、私たちの個人情報は見えない形で管理されている。土地や企業の買収、民営化されるインフラなどは、合法的な形で他国が入り込む入り口となる。映像やゲーム、芸能や文化などのコンテンツの形を借りた一見安全そうに見える方法でも、私たちのまなざしは特定の方向へ導かれている可能性が否めない。
よりダイレクトには、食品や医薬品の形で私たちの身体へ入り込む。もう随分と前から問題になっている、食品に混入している、あるいは添加されているさまざまな化学物質の危険性だけではない。医療産業はサイバー産業と組み合わせられ、私たちの身体情報を数値化しビッグデータとして蓄積しているが、それらも戦争の道具になりうる。既にヘルスケア・アプリのような形で、私たちの健康の管理権は徐々に移行されつつある。それをより進めるならば、皮膚の下から私たちをモニタリングし、何か問題があれば外部から直接管理するという流れになるだろう。
既にペットには、マイクロチップを埋め込むことが義務化される方針(注14)であるが、次に認知症対策と称して高齢者に入り、迷子や虐待防止と称して子供に入ってくる。さらに、疾病対策や病状の改善として成人の体に導入され、健康な成人には能力向上や利便性を装って入ってくる可能性が高い。全てがインターネットにつながるIoTの社会では、私たちの身体もダイレクトに管理の対象になる。
ナノテクノロジーと人工知能、通信技術と化学物質などを組み合わせることで、私たちを内部からコントロールするための技術的条件は十分に整っている。後は、社会的条件が粛々と整えられるのを待つばかりである。狙われているのは私たちの皮膚の下であり、大義や建前を理由に正当化され、気付かない間にさまざまなものが身体の中に忍び込む条件が整う。戦争の担い手は、兵器産業から情報産業へ移り、医療産業へと手を伸ばしつつある。
それらが軍事的に利用されることになると、インターネットでの情報を通じたプロパガンダやフェイクニュースによる洗脳という生ぬるいことは必要ない。私たちの体内から直接、私たちの体調や精神状態までコントロールできるようになるならば、もはや戦争という概念すらなくなるかもしれない。戦わずして勝つことが最高の戦略なのであれば、これ以上の方法はないだろう。戦争の目的は、相手を破壊すること以上に相手を支配することなのだ。
このように、戦争がさまざまな陰謀に満ちているのは当然だ。陰謀など存在しないと侮って注意を怠ると、私たちは簡単にコントロールされてしまう。気付かないうちに不都合な状況だけが進んでいき、気が付いたときにはもう引き返せない場所にいるかもしれない。その反対に、陰謀という見方に憑りつかれて怒りを助長することも、私たちの間に混乱や分断が生じ、結果として平和が失われることにつながる。陰謀論として唱えられているものが、混乱を煽るために敢えて拡散させられたものではない、という保証はどこにもないのだ。私たちは一体どうすれば平和でいられるのだろうか。
平和とは戦争の対極の言葉である。「戦争とは平和のない状態」であるが、もし「平和とは戦争のない状態」であるとして定義すると、堂々巡りとなる。平和が「二つの戦争の時期の間に介在する騙し合いの時期」(前編参照)でしかないのならば、私たちにとって平和な状態など、永遠にやってこない。戦争との対比で平和を考えている以上、私たちは平和を理解できないのだ。平和とは、一体何なのだろうか。
既に述べたように、平和であるということは、安全性が確保されているということだ。安全であるためには、ある範囲を設定してバリアを張ることで、その内部を守らなければならない。国境を設けてその内部の土地の安全性を担保するだけではない。私たちは、会社組織や団体、自治体や家族というバリアを設けて、そこに帰属することで、自分たちの安全性を担保している。
しかし、情報や物事の流動性が高まっている今は、さまざまなものがそのバリアを超えて外から入ってくる。バリアの内側には、自分の安全性を脅かすものが溢れるどころか、守ってくれるはずのバリアが自分を攻撃してくることも起こり得る。そんな中では、安全性を確保できる範囲がどんどん小さくなり、最終的には、それぞれが個人として自分だけを守るバリアを張らざるを得なくなる。そうなると自分のバリアとすぐ隣の人のバリアがぶつかるのは避けられなくなり、平和は壊れていく。
バリアを張るのは、安全性を担保して平和でいようとするためなのに、バリアを張ることで平和はどんどん遠ざかってしまう。非常に逆説的だが、私たちがバリアを張った段階で、既に平和が壊れることが決定している。バリアは必ず何かに脅かされるため、バリアを保つ努力をしている間は、常に平和は脅かされているのである。
では、バリアを最初から張らなければ良いのだろうか。それが成り立たないのは明白だ。私たちが生きるということは、常に何かの危険にさらされている。危険から身を守るためには、一定の範囲でバリアを設けて、その中の安全性を確保することが不可欠だ。私たちの体内の臓器は、皮膚という一定のバリアによって安全性が確保され、その皮膚は衣服というバリアで安全に保護され、私たちの身体は家屋というバリアがあるから安全に過ごしたり、ぐっすり眠ることができる。バリアがないと私たちは、たちまち生きていくのが難しくなる。だから、バリアを張りながら、私たちにとって安全な領域を広げて平和な状態を生み出していく必要があるのだ。
だが大切なのは、「平和の順番」ではないだろうか。まず自分の中の平和があり、周りの人々の平和がある。そしてそれを社会の平和、国の平和、さらに世界の平和へと拡げていくことで、安全な状態の範囲を広げていくべきなのだ。自分の心が平和ではないのに、世界を平和にすることなどできるはずはない。自分の平和を脇に置いて、世界の平和は築けないのである。
こう考えてくると、「戦争とは平和のない状態」というのは正しいかもしれないが、「平和とは戦争のない状態」というのは間違っている。平和とは戦争の対立概念ではなく、また平和とは誰かを犠牲にして得られるものでもない。「平和のために戦う」というのは、明らかに矛盾した理屈である。だが、そのもっともらしいフレーズから多くの戦争が生まれている。誰かを倒さなければ平和が生まれない、というのは幻想だ。平和は何か外の条件によって生まれるものではない。どんな条件であっても、平和とはそれぞれが自らの内側に生み出していくものなのだ。
とはいえ、自分の中の平和を実現するのは容易ではない。なぜなら、私たちの心の中こそが、本質的に戦争状態であるからだ。私たちの心には、いつも恐れや怒りや欲がある。そして、期待や理想や夢という形で美化された現状への不満でいっぱいだ。それらは常に私たちの心をかき乱し、平和を壊そうと狙っている。そんな心の中の小さな不満が、外からやってくるさまざまな情報と結び付き、懐疑心や正義感を育て始める。その不満を正当化し続けた果てに、本当の戦争に至るのである。それこそが、戦争を企てる者たちの思う壺である。
戦争は、私たちの内側からやってくる。私たちに必要なのは、外にバリアを築くことではない。心の内側からやってくる脅威に対してバリアを築くことである。気を抜けばすぐに戦争状態になる私たちの心に常にまなざしを向けて、見張っておかなければならない。外部の条件によって得られる平和ではなく、自分自身で内側に平和を生み出せるようになること。どんな状況であっても、その時、その場で安全に穏やかでいられること。それはとても難しいが、本当の意味で私たちの心の中が平和であるからこそ、私たちは戦争を放棄することができるのである。
注1)ウィキペディア「陰謀論の起源」
注2)Robert Brotherton (19 November 2015). “Chapter 4”. Suspicious Minds: Why We Believe Conspiracy Theories. Bloomsbury Publishing.
注3)2020年度の政府の予算構成案では日本の防衛費は約5.3兆円。
【図解・行政】2020年度の予算案構成(2019年12月)(JIJI.COM)
注4)日本人は防衛予算の正しい見方をわかってない(東洋経済ONLINE)
注5)「兵器を買わされる日本」(東京新聞社会部 文春新書 2019 p255)
注6)ロンドンの国際戦略研究所(IISS)が発行する国際軍事年鑑「ミリタリー・バランス」の2019年による。
注7)ストックホルム国際平和研究所(SIPRI)による2020年4月27日発表の2019年の統計による。
世界の軍事費、過去10年で最高 米中印がけん引―国際平和研(JIJI.COM)
注8)「兵器を買わされる日本」(東京新聞社会部 文春新書 2019 p77)
注9)世界最大の軍事企業、隠されたもう一つのビジネスとは(ZUU online)
注10)日清戦争_戦費と動員(weblio辞書)
注11)「ジェイコブ・H・シフと日露戦争」(二村宮國 帝京国際文化第19号 2005)
注12)「高橋是清の日露戦争」(渡辺利夫 環太平洋ビジネス情報RIM 2008,VOL.8 NO.30 2008)
注13)「大規模な戦争が発生した際、戦費は時に当該国の経済力を大きく上回る金額に達する。 そしてこの戦費を賄うために組まれる戦時財政は、戦後においても長期にわたって財政政 策に影響を与え続ける。」
「明治末期の軍事支出と財政・金融 -戦時・戦後財政と転位効果の考察-」(小野圭司)
注14) 2019年6月に国会で動物愛護法が改正され、災害時にペットとはぐれる事故や、捨てネコおよび捨てイヌの問題、ペットの虐待への対策としてイヌ、ネコにマイクロチップを埋め込むことが義務化される(「改正動物愛護管理法の概要」環境省)。
おすすめ記事と編集部のお知らせをお送りします。(毎週月曜日配信)
登録はこちら1976年生まれ。博士(緑地環境計画)。大阪府立大学経済学研究科准教授。ランドスケープデザインをベースに、風景へのまなざしを変える「トランスケープ / TranScape」という独自の理論や領域横断的な研究に基づいた表現活動を行う。大規模病院の入院患者に向けた霧とシャボン玉のインスタレーション、バングラデシュの貧困コミュニティのための彫刻堤防などの制作、モエレ沼公園での花火のプロデュースなど、領域横断的な表現を行うだけでなく、時々自身も俳優として映画や舞台に立つ。「霧はれて光きたる春」で第1回日本空間デザイン大賞・日本経済新聞社賞受賞。著書『まなざしのデザイン:〈世界の見方〉を変える方法』(2017年、NTT出版)で平成30年度日本造園学会賞受賞。