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私たちはなぜ過剰に消費してしまうのか

私たちはなぜ過剰に消費してしまうのか

2022.03.28

Updated by Chikahiro Hanamura on March 28, 2022, 13:38 pm JST

ウクライナへと軍事侵攻したロシアの経済は今、グローバル経済から切り離されようとしている。それは世界の今後の経済にどのような影響を及ぼすのだろうか。ロシアの通貨ルーブルが、国際送金のインフラであるSWIFT(国際銀行間通信協会)から除外され、各国から経済的な制裁が加えられる一方で、ロシアが中国の元をはじめとする別の国際決済システムへと切り替わる契機になったという見方もある。

これまではドルを中心とした金融資本主義経済がグローバルに展開されていたが、それが大きく転換することを迫られるとすれば、それに依存していた私たちの生活にもこれから大きな影響が及ぶことは間違いない。そんな時こそ、原点に戻る必要があるのではないだろうか。

そもそも私たちがものを売り買いするための道具に過ぎなかった「お金」は、なぜこんなにも私たちの人生を左右するほどになってしまったのだろうか。そしてその裏側には、どのような私たちのマインドが根底に潜んでいるのだろうか。本稿では、拙著「まなざしの革命」の第六章「貨幣」から抜粋して、そもそも経済とは一体何なのかについて確認できればと思う。


経済を拡大させること、発展させることが最良であるという見方は、当たり前のようであるが、実はそれが一般的に拡がったのは近代以降である。フランスの歴史家のブローデルは、人間社会の経済を「自給自足・物々交換」「市場経済」「資本主義経済」という三つの層から考えた。この三つの経済において、それぞれの貨幣の見方に違いがあることを、まず区別して考える必要がある。

原始社会から歴史の長い間、人間社会は自給自足や物々交換による経済の層しかなかった。その経済でも貨幣はあったがさほど重要ではなく、価値あるもの同士を交換するシンプルな仕組みであった。貨幣が重要な役割を果たすのは、その次に歴史に登場した市場経済以降である。小規模な商人や生産者同士による市場経済。そこでの貨幣の役割は、主に交換価値にフォーカスされていた。何かを欲しい人と何かを売りたい人が市場にいて、それぞれが互いに交換する際に貨幣が仲介する。市場ではいろんな人がさまざまなモノを売っており、それぞれが掲げる価格が異なる場合があるからだ。その中で競争が働き、売りたい人と欲しい人のバランスで価格が決まる。だから市場経済における貨幣は「交換」に重きが置かれていた。

だが、国際的な商人や大規模な生産を通じた資本主義経済の時代になると、貨幣の役割が変わる。資本主義経済では国境を越えた商業活動や金融によって資本が動き、独占なども起こる複雑なシステムとなる。そこでは貨幣は交換価値以上に、「投資」のための道具としての価値が重要視される。貨幣はさらに貨幣を生むための燃料としての役割を果たすのだ。

資本主義経済は市場経済を通じて行われるので紛らわしいが、根底に流れているマインドは「拡大」である。企業はたえず新たな利潤を求めて、蓄積した貨幣(資本)を元にさらに富を拡大していこうとして投資し生産する。結局は投資とは生産の拡大であり、蓄積された貨幣も投資され、将来の生産に回る。

こうして人間はさまざまなものを生産するが、生産されたものは「消費」か「貯蓄」か「投資」に回される。だが最後は必ず「消費」に向かうという宿命を持っている。なぜならば「貯蓄」とは、将来に「消費」を先送りすることであり、「投資」とは、また新たなものの生産へ回すことだからだ。だから結局は私たちの活動は、最終的には全て消費へと向かう。

現代の社会では何かを生産すること以上に、消費することの方が大きくなっている。自分が何かを生み出す生産者でなかったとしても、私たちは必ず何かの消費者ではあるからだ。その消費があるからこそ生産が必要とされる。つまり現代社会では生産されたものが消費されるのではなく、消費するために生産が行われているとさえ言える。

だから資本主義経済で企業の事業を拡大させるには、人々の消費が拡大されねばならない。そして消費の拡大のためには、欲望が拡大されねばならないという理屈になる。そうなると、資本主義経済を採用している以上は、どうしても私たちの欲望を焚きつけて、より消費するような方向へ進まざるをえないということになる。

だから矛盾しているようだが、資本主義経済では市場が安定しない方がビジネスチャンスがあるのだ。もし安定してしまえば、企業は決まりきった利潤を得るだけになるので拡大できなくなる。あらゆる手を使って、企業は私たちの無意識を探り、欲望を生み出して、消費させることで利益を生もうとするのである。もし私たちが欲望を拡大せず、消費しなくなると、今度は不安や恐怖が富の拡大に利用されるようになる。戦争や災害、危機や疫病が起こることを恐れて、私たちはモノやサービスや保険を購入して消費が動く。ジャーナリストのナオミ・クラインはこうした状況を「惨事便乗型資本主義」と指摘する。いずれにせよ結局、資本主義経済では消費を拡大させるためにあらゆることが利用されるのである。

そのために、資本主義では希少性が捏造される。物を独占し、公共財としての水や土地を私有財産へと変えようとする。ブランドやデザインで付加価値をつけて希少性を演出し、流通量をコントロールする。本当は潤沢にあるものであっても、あえて希少性を持たせてコントロールすることで、私たちに欠乏感を植え付けて、消費する欲求を煽るのである。

通常、経済学では人間の欲望は無限に存在し、生産物や資源は有限なので、それをいかにして分配するのかを問題にする。その分配を「市場でのバランスが決める」とするのが市場経済で、「政府によって計画的に分配する」のが計画経済である。その違いはあるが、いずれにせよ不足する資源や生産物をどのように分配するのかが根底にある。だがその見方を正反対にしてみると、全く別の姿が現れる。

資源や生産物は不足しているのではなく実は過剰にあって、むしろ余っている。その余っているものを処理していくのが消費であると捉えると、私たちの消費の本質の一部が垣間見える。そんなことを考えたフランスの思想家のジョルジュ・バタイユは、人間の消費を「浪費」「蕩尽」と呼んだ。それを理解するには、人間が過剰なイマジネーションを持っていることにまなざしを向けねばならない。

私たちは一体何を消費しているのだろうか。人間が「生存するため」に必要な消費というのは実はそれほど多くはない。日々の「食」、それに「衣」、つまり体温調節のために身にまとうもの、これらは基本的に必要なものである。そして「住」として、快適で安全に眠り過ごすことができる場所が必要である。この必要最小限のものが基本的に満たされれば、生存に必要な条件はひとまず整う。つまり消費の本質とは、私たちの肉体を維持するのに必要なエネルギーを得ることだ。だが、私たちの心はそれ以上のものを欲しがり消費しようとする。それが満たされることがないのが現代の消費社会だ。

私たちは今、消費しているもののほとんどは肉体が求めるものではなく、心が求めるものである。私たちはより美味しいものを食べたいと思い、よりお洒落な服を身につけたいと思い、より広くて便利で綺麗な家に住みたいと思う。映画や音楽などの娯楽を求め、旅行に出かけて知らない場所を楽しみ、本や教育で知的好奇心を満たしたいと思う。これら消費の本質は物の消費ではなく、頭や心に刺激を与える精神的なものである。私たちの肉体の欲望には限界があるが、心の欲望には限界はない。私たちの心の中にある過剰なイマジネーションは、消費することを求めており、新しいもの、より良いもの、より違ったものを求めて拡大していく。だが、それが本当に私たちの望むものかどうかは怪しい。私たちの欲望は創造されたものであり、ただ消費へと向かうように誘導されている可能性があるからだ。

『まなざしの革命 世界の見方は変えられる』
ハナムラチカヒロ 著
四六変形・316ページ
定価:1,980円(本体1,800円)
発行:河出書房新社

山極壽一氏(人類学者)推薦文!
「過剰な情報が飛び交い、民主主義の非常事態に直面する私たちに、時代の真実を見抜き、この閉塞感から解放されるまなざしを与えてくれる。」

目次

第一章「常識」  第二章「感染」  第三章「平和」
第四章「情報」  第五章「広告」  第六章「貨幣」
第七章「管理」  第八章「交流」  第九章「解放」

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ハナムラチカヒロ

1976年生まれ。博士(緑地環境計画)。大阪府立大学経済学研究科准教授。ランドスケープデザインをベースに、風景へのまなざしを変える「トランスケープ / TranScape」という独自の理論や領域横断的な研究に基づいた表現活動を行う。大規模病院の入院患者に向けた霧とシャボン玉のインスタレーション、バングラデシュの貧困コミュニティのための彫刻堤防などの制作、モエレ沼公園での花火のプロデュースなど、領域横断的な表現を行うだけでなく、時々自身も俳優として映画や舞台に立つ。「霧はれて光きたる春」で第1回日本空間デザイン大賞・日本経済新聞社賞受賞。著書『まなざしのデザイン:〈世界の見方〉を変える方法』(2017年、NTT出版)で平成30年度日本造園学会賞受賞。