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エリートと教養 2

エリートと教養 2

2019.04.03

Updated by Youichirou Murakami on April 3, 2019, 16:04 pm UTC

エリートと教養 2前回はエリートの原点とでも言うべき論点を考えてみました。今回は、教養ということになりますが、これは一筋縄ではいかない。そもそも「教養」という熟語は、漢語としては已に『後漢書』に現れると言いますが、文字通り「教え育てる」ことの意でありました。近代日本の文章の中では、クリスチャンであり、かつ社会主義的な活動家であり、かつまた作家でもあった木下尚江(一八六九~一九三七)の『良人の告白』という長編小説(明治三八年刊)の中で、主人公の弁護士が、ある事情で引き取った子供を、「君の子供として教養してくれ」と妻に言う表現に出会うことができます。明治二四年版の『大言海』(大槻文彦監修)には、そもそもエントリーがありません。つまり明治年間には、今のような意味での「教養」の使い方は、ほとんど見当たらない、と考えてよさそうです。

そこで誰もが注目するのが、大正教養主義のリーダーとも言うべき阿部次郎(1883~1959)ということになります。阿部は一高で荻原井泉水、岩波茂雄、斎藤茂吉らと交わり、帝国大学卒業後は、漱石の門人として、小宮豊隆、森田宗平、和辻哲郎らとも交流があった人物です。その彼が大正三年に発表した『三太郎の日記』は、当時の中学・高校生必読の書となりました。あるいは、彼らとはかなり異なった系統の人物ではありますが、倉田百三(1891~1943)の『愛と認識の出発』(大正一〇年刊、ただしその一部となる論考は大正二年一高に在学中に、文藝機関誌に発表、物議を醸しました)なども、その部類かも知れません(戦後に角川書店が発刊した「日本教養全集」の第一巻に、上の二作品が収められています)。ここに挙げた「文化人」、あるいは「教養人」たちの思想が、良くも悪くも、その後の日本における「教養」という概念を決定づけた、と考えられます。

彼らの思想の基礎は、一八世紀から一九世紀ドイツの哲学、つまりカント、ショーペンハウアー、ニーチェら、それに阿部にとって重要だったのは、同じ時期のドイツ語圏で形成されつつあった芸術という概念に纏わる「美学」(例えばヘーゲル)にありました。実際『三太郎の日記』は、ドイツ語、ドイツの哲学者、美学者の名前で溢れています。「アンビション」、「アスピレーション」など偶に英語も現れますが、「エアレーベン」だとか「エアファーレン」、「ヴェルトゲフュール」、「レーベンスゲフュール」だの、ドイツ語で満杯です。そしてもう一つ目立つのはドストイェフスキ-、トルストイら、ロシアの高踏派の文藝が、繰り返し論じられます。

裏返しで、彼らは、例えば歌舞伎に代表されるような、日本の江戸期の伝統芸能に、芸術的な「美」を求めることを拒否しました。ドイツ哲学を中心とした書物と学識を通じての人格の陶冶と、高尚な美の追究、禁欲的で、抑制的な人間性を磨くことにこそ、「教養」の本質がある、と見做したのです。その点で、彼らの師の一人となった漱石とは、少し肌合いが違います。確かに漱石には、『それから』の代助や、『行人』の一郎や二郎のように、いわゆるインテリの人間的な苦悩や、現実の卑俗性への冷たい眼差しが感じられる人物像が描かれます(一高の最も有名な寮歌『嗚呼玉杯に花受けて』には「栄華の巷低く見て」という言葉が見えます)。しかし、よく知られているように、漱石には強い江戸趣味もあり、三代目小さんの芸には感嘆を惜しみません。『猫』には、インテリ性と庶民性とがない交ぜになっていますし、あるいは『坑夫』のように、非インテリの世界にも、介入することを躊躇わないところがあります。もっともそれは、『猫』は別にしても、漱石が専ら朝日新聞という新聞の読者を相手にしていたから、という面も否定できないでしょうが。

私事になりますが、振り返ると、一千九百一年生まれ、一中、一高、東京大学医学部へと進んだ私の父親(一高の卒業年次が大正八年)は、旧制中学と高校で、まさしくこうした大正教養主義にどっぷりと浸かっていたわけで、例えば芸能でも、家人に能楽や琴は許すが、三絃は家内では法度、寄席などもタブー視していました。もっとも、父親は、私の成長期には、もはや阿部次郎や倉田百三は卒業していたようで、読むように勧めませんでした。ですから、中学三年のとき、私は、どちらも父親の書棚からではなく、自発的に『愛と認識の出発』と『三太郎の日記』を買い求めて、読んだ記憶があります。まあ、一種のスノビズムでしかなかったと、今なら思いますが、多少とも「大人」へと歩みを進めた意識が、自分には好ましかったのでしょう。自分のなかに更めて確かめてみても、この二つの著作の内容は、全く痕跡もとどめてはいませんが。

もう少し公的な世界に戻れば、岩波茂雄が岩波書店を造り(創業は大正二年)、岩波文庫を生み出した(創刊は昭和二年)のも、ここに触れたような「教養主義」が働いていたと考えられます。もっとも、岩波は、明治三六年、「巖頭の感」を遺して華厳滝に投身自殺した藤村操(1886~1903)の死に、強烈な衝撃を受けた、と述べていますから、こうした「深刻な人生の煩悶」もまた、「教養主義」の一面とも言えましょう。

言い換えれば、このような「教養」主義なるものの持つ、ある面から見れば「滑稽さ」とでも言うべき性格が、後に「教養」に対する揶揄的な姿勢を生み出す一つの要素があったのではないか、と私は考えています。

なお、この「巖頭の感」のなかに「ホレ-ショの哲学」という言葉が現れます。「ホレ-ショの哲学竟に何等のオーソリチーを價するものぞ」、つまり「ホレーショの示す哲学など、およそ権威に価しない」ということでしょうか。些か「教養のあるところ」を発揮すれば、これは一体何を指すのでしょうか。無論「ホレ-ショ」というからにはシェイクスピアの『ハムレット』の登場人物にして、ハムレットがただ一人心を許している人物以外には考えられません。しかし、その「ホレ-ショ」の哲学とは一体何事? 原文を見てみましょう。第一幕第五場、行数で言えば<一六七~八>にこうあります。話し手はハムレットその人です。

There are more things in heaven and earth, Horatio, than are dreamt of in your philosophy.

つまり、ハムレットが、ホレ-ショに呼びかけて、<your philosophy>と言ったから、「君の哲学」と解された結果、「ホレ-ショの哲学」となったに違いありません。しかし、<your>という語を「ホレ-ショの」と訳するのは正しいでしょうか。研究社New English-Japanese Dictionaryで<your>を引いてみると、訳語の1は無論「あなたの」ですが、2に「人々がよく言う」、「いわゆる」が出てきます。この<your>は、文脈と文意の双方から、どう考えても、この<2>の意味でしょう。「この天地には、俗に言う哲学なるものが考える以上に、色々なことがあるのだよ、ホレ-ショ」とでもなりますか。最初期の翻訳である坪内逍遥訳でも、正確に「所謂哲学」となっています。つまり藤村操は、奇妙な「誤訳」を、自死の合理化に使ってしまったことになります。

藤村に助け舟を出そうとすれば、「あのハムレットが、ホレーショを相手に、世の中には哲学を越えるものがある、と言っている通り」という意味を「ホレーショの哲学」という簡潔な表現に籠めた、という推測が可能かもしれません。もう一つ、「ホレーショ」は実は古代ローマ最初期の詩人「ホラティウス」ではないか、という解釈もあるようです。しかし、ホラティウスの「哲学」によって、哲学を代表させるのはいくら何でも無理ですし、では、ホラティウスに独特な「哲学」を、藤村が目の敵にした、というのもいささか不自然ではあります。

と、こんな具合に、古今東西の文献を渉猟しながら、人生論をあれやこれやと、吟味するのも、大正教養主義の、そしてそれを今に引きずるある種の現代の教養主義の、一つの特徴なのです。普通の人々にとっては、「閑文字」としか思えない、それを深刻に、眉根に皺を寄せて議論する。「滑稽」という言葉に、いささかの真実味が加わります。

その上、昨今、「教養」の代わりに「リベラル・アーツ」という言葉も頻く聴かれるようになりました。中世ヨーロッパの大学における「一般教養科目」に類するものが、<artes liberales>と呼ばれ、このラテン語(直訳すれば「自由な技芸」)の英語版が<liberal arts>で、アメリカの大学では、<liberal arts college>を名乗るところは、現代でも少なくなく、また日本の戦後の高等教育の改革で、大学における「一般教養科目」なるものが、形式上重視された結果、「教養」と「リベラル・アーツ」とが同等視されるようになったと思われます。もちろん出自のまったく異なるこの二つを、どのように扱うべきか、また、先に述べた大正教養主義的な「教養」の理念が、現代にも通用するか、しないとすれば、現代における「教養」の意味づけはどのようにあるべきか。問題は数多く残されています。

エリートと教養 2

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村上 陽一郎(むらかみ・よういちろう)

上智大学理工学部、東京大学教養学部、同学先端科学技術研究センター、国際基督教大学(ICU)、東京理科大学、ウィーン工科大学などを経て、東洋英和女学院大学学長で現役を退く。東大、ICU名誉教授。専攻は科学史・科学哲学・科学社会学。幼少より能楽の訓練を受ける一方、チェロのアマチュア演奏家として活動を続ける。

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